第5話
バタヴィアを出てインド洋を渡った一行は、二か月超の航海の末にアフリカ東岸のモーリシャスについた。
「すごいのう。ここから、これだけ大きな島を回ってヨーロッパに向かうのか」
半兵衛が地図を眺めながら他人事のように興奮している。
「しかし、オランダ側の扱いがこうもいいのは不思議ですね」
正雪の息子玄謙が不思議そうな顔をしている。
「これだけ美しい海を見ていれば、そんなこともどうでもよくなってくるではないか」
半兵衛がモーリシャスの東の海を眺める。どこまでも青く輝く水面が続いており、確かに些細なことなどどうでもいいと一瞬は思える。
「…ま、わしも他の面々にも聞いたのだが、どうやら多少はオランダ側にも謀るところはあるようだ」
「謀る?」
「つまりだ…」
半兵衛が既に通ってきたインド洋の海について説明した。
「この船はインドと呼ばれるところは真っすぐ通過してきたが、それはまだインドではオランダの力が及ばないところがあるのだ」
東アジアと東南アジアではオランダのポルトガルへの有利性は決定的となっていたが、南アジアでは依然としてポルトガルとの争いが続いていた。オランダはマラッカやベンガル方面といった地域から、ポルトガル領のセイロン島やゴアの占拠を試みていたが、未だ支配には至っていない。
また、ヨーロッパではイングランドとの間にも問題を抱えていた。
1648年まではイングランドとオランダは同じ新教国同士ということもあり、比較的友好的な関係にあった。しかし、オランダとスペインとの間の八十年戦争が1648年に集結したことで、オランダとスペインの通商が再開されると、スペインと交易をしていたイングランドがオランダ商人に圧倒されることとなった。こうした状況に不満を抱いたイングランドは、自分達の権益を守るために航海条例を制定しオランダを締め出そうとした。当然、今度はオランダがイングランドに対して不満を抱くようになる。
永暦六年(1652年)はまさにこうしたイングランドの状況に不満をもったオランダが、イングランドとの開戦に踏み切った年でもあったのである。
「つまり、オランダとしてみると、東アジアであまり力を使いたくない。東アジアと東南アジアを管理する者達が出てきてくれるというのは渡りに船だったわけですか」
「おそらくそういうことになるのだろう。レイニエがあっさりと我々との交渉に応じたのも、奴が病気で考えるのがしんどくなっているということもあったと思うが、オランダの事情もあったのだろう。オランダは他の国と比べると人が少ないという。だから、味方を増やして、敵を減らさないといずれ管理しきれなくなるということだ」
「そこに我々がオランダの負担を除いてやるということを言ったから、向こうも飛びついてきたということですね」
「そうだろうな。ただ、それで我々が困るかというと困るところはないから、ここは有難く受けておくべきなのだろう」
「他の国が出てきたらどうなるのでしょうね?」
「それは分からんが、徳川の幕府がオランダとのみ交易をしているのは、我々がオランダと組むべき一つの材料になるだろうな」
話をしていると、不意に街の女に声をかけられた。オランダ語とも違う言葉で話しかけられているらしい。
「何を言っているのかさっぱり分かりませんね」
と、玄謙が苦笑していると、日本語を理解するオランダ人船員が代わりに何かを答えた。
「あんた達は中国から来たのかって聞いてきたから、違う、もっと東の日本だと答えてやったよ」
若い船員が恩着せがましく言う。すると、相手の女は更に何か問いかけてきた。船員は話を聞いているうちに苦笑しはじめ、笑いながら答えている。言葉は分からないが、様子を見るだけで「そんなことは分からないよ」と言っていることは明快であった。
「…何て聞かれたんです?」
「まずはこう言った。日本は聞いたことあるよ。時々、オランダ人と結婚したと言って追いかけてくる女がいるからね」
「ほう…」
鎖国の前後を問わず、長崎などでオランダ人と関係をもって子供などが出来たりするケースは多い。鎖国の前であれば、実際に結婚した者もいるのかもしれない。
しかし、オランダ人の中には日本でのことを旅先での数夜限りのものと考えていた不届き者もいたらしい。話が違うということで、バタヴィアまで追いかけたケースもあったという。更に、バタヴィアで市民権を得た日本人女性の中には、後々相手男性との相続などの関係でオランダまで裁判をしに出掛けたようなケースもあった。
「続けてこう言った。男を見るのは初めてだけど、ひょっとしたら、オランダに逃げた女を追いかけてきたのかい? と」
「なっ…」
「最後にこう言った。もし、そうだったら、そんな遠くまで逃げた女を追いかけるなんて面倒くさいことはせずに、ここにもいい女が沢山いるのだから、ここで探したらいいじゃないかと」
「…なるほど」
それは船員も答えようがないはずだ。気づくと、相手の女が片目をつぶってアピールをしてきていた。
「…我々はそういうために来たのではないので」
玄謙はそう答える。
しかし、その日以降、数日間、現地の女性に追われることになったのであった。
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