第3話

 永暦六年の九月、由井正雪、金井半兵衛ら数名と十名程度の子弟が乗ったオランダ船はバタヴィアへとたどりついた。


 ヤン・ピーテルスゾン・クーンが1619年に建設し、既に30年。まだまだ区画発展中の街であった。


 現在のオランダ東インド会社の総督はカレル・レイニエであった。ただし、この男、体調を悪くしており退職願を本国に向けて提出しており、現状を打破しようという意欲は薄い。


 そうした状況を聞いた正雪は、「これは好機かもしれん」と小声で言った。付き添いのオランダ船員の中にはある程度日本語を解する者が多いので、大きな声では言いづらい。


「何が好機なのだ?」


 半兵衛が尋ねる。


「体調が悪いということは、覇気も弱っておろう。思い切ったことはできぬ。逆に言えば、友好的なことにかけては通りやすいのではないか」


「…そういうものか。しかし、ルソンを攻めるというのは思い切ったことではないか?」


「何、一年二年ですぐやらなければならない話ではない。それより…」


「うん?」


「この街は暑いのう…」


「ああ、暑すぎてオランダ人もかなりの者が風土病にやられてしまっておるらしい」


 オランダのバタヴィア支配において大きな障壁となったのは暑さとマラリアやコレラなどの風土病であった。当然、これらは日本人に関しても平等に襲ってくる。



 暑さに音を上げそうになりながら、一行は城にたどりついた。不思議なもので、お互い暑いため、「暑いのう」と言い交しているとほとんど言葉の通じないオランダ人相手でも和んだ雰囲気になる。


「ふむ。立派な大砲だ。あれだけ大きいとまともに受ければ大変な被害になるかもしれない」


 半兵衛が城門の上の砲塔を見て腕組みをする。


「俺達がここを攻めることはないと思うが、な…」


 と言いつつも、正雪は未だに信綱に呼ばれて江戸城に赴いた時のことを覚えている。その手前、半兵衛の行為を悪いとも言えなかった。



 しばらく歩いて、奥の総督室へと案内される。


「…ようこそ、ジャカルタへ」


 目が窪んだ男が座っていた。この男がカレル・レイニエなのであろう。


 背は大きいが覇気を感じる顔立ちではない。周りが言っていた通り、かなり弱っているらしいことが窺えた。


「日本より参りました由井正雪と申します」


 さすがにオランダ語のことは分からないので、お互いの通訳を通して話をする。


「台湾の方が不穏だと聞いている…。それで派遣されたとも聞いたが」


「はい。私は、この地にいる多くの者も、貴国のものも得をする方法を考えてまいりました」


「興味深い話だ。聞かせてもらおうか」


「我々は中国の福建を中心に、日本、台湾、中国、琉球の海を支配しております。今後、我々はルソン、アユタヤ、ハノイなどにも広がっていくつもりでいます」


「ルソン…」


 やはりオランダ人である。宿敵スペインの保有しているルソンには反応を示した。


「はい。我々とオランダが協力をすれば、イスパニアの銀を奪い取り、ルソンを奪うこともできると思います」


「…虫のいい話とも聞こえるが?」


 レイニエは首を傾げて問いかけてきた。そこまでうまい話はないだろう、そういう思いが表情に現れている。


「イスパニアの船は二つの場所から来ます。一つは、新世界から。もう一つはどちらから来ますか?」


「それは…、中国の福建であろう」


「左様でございます。その福建を支配しているのが我々でございます」


「船を乗っ取るのか?」


 レイニエの問いに正雪は頷いた。それを受けて、レイニエが「うむ…」と考える。


「貴国の望みはヨーロッパ内で唯一、この地域を独占することでございましょう? 我々全員を追い払って、オランダだけで支配したいということではございますまい」


「…当然だ。これだけの酷暑の土地柄…、我々だけでどうすることもかなわぬ」


「その管理を我々が行い、艦隊の武力は貴国が行使し、他のヨーロッパ勢を追い払うことも可能であると考えています。十年後にはオランダの組織について学び、アジアのことは我々が、ヨーロッパのことはオランダがという形で二分するというのはいかがでございましょうか」


「……」


 レイニエの喉が微かに動いた。


「…面白い提案だが、今すぐに結論を出すわけにもいかない。これほどのことともなれば本国の十七人会とも審議する必要もあるし」


「おや、それは異な話でございますな。我々が聞くところによれば、オランダ東インド会社はこうした権限を認められており、総督にも広い範囲で認められると聞いておりますが」


「むむっ…」


 オランダ東インド会社が交戦や条約の締結権を有しているところは既に見た通りであり、総督も当然に現地の代表者として君主に等しい権限を有していた。


 当然、レイニエも本来なら自分で決定するわけであるが、病気がちで弱気な彼は自分一人で決めることを避けようとしていた。一方の正雪は、逆にそれを利用して、この場で総督に決めさせようとしたのである。


「…少し考える時間をもらいたい」


 レイニエは大幅にトーンダウンした。正雪は「もちろんでございます」と頭を下げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る