第2話

 寛永五年(1652年)夏。


 江戸では、幕閣が朝廷から改元案を受け、その候補を吟味していた。


「承応、文嘉、享応…」


 松平信綱にとっては、改元の候補を考えるのは初めてのことではない。とはいえ、国の機運に関わるものであるから、適当に選ぶわけにもいかない。慎重に吟味する必要があった。


「ご老中…」


「何だ?」


「厦門の柳生殿より密書が届いております」


「十兵衛から?」


 後で回せと指示を出し、信綱は他の老中らと元号についての意見をかわす。


 結局、次の元号は承応と決まり、九月より新元号となるのであった。



 上屋敷に戻った信綱は、柳生十兵衛からの書状に目を通し、頷いた。


「そういえば、妻子の件がまだであったのう」


 当初、浪人達を日本から出す時に、そのうち妻子を呼ぶことも認めると約束していた。その件について今回認めてほしいとの要請であった。


「まあ、こちらとしては特に拒否することもないか」


 鎖国体制の江戸幕府では日本人の国外退去は認めないというのが建前であるが、正雪ら浪人組は既に国外にいるため、人道的に国外追放に処するという抜け道があった。


「一度、正雪の妻子とやらに会ってみるか」


 信綱は気まぐれにそんなことを思い、呼び出すこととした。



 翌日、正雪の妻と、男女一人ずつ二人の子が登城してきた。


「小万と申します」


 妻が頭を下げる。正雪も背丈は小柄であったが、この妻も比較的小柄である。一方、息子と娘はというと共にまあまあの背丈であった。


「松平信綱だ。故あってとはいえ、今まで夫と別々に暮らさせていたことは申し訳なかった。これより厦門に向かい、末永く暮らすがよい」


「ありがとうございます」


 さすがに正雪の妻だけのことはあり、老中を前にしても慄くところがない。あの夫にしてこの妻ありということかと信綱は内心で感心していた。


「お唯、玄謙、おまえ達も頭を下げなさい」


 子供の名前に、信綱が反応した。


「何? 娘はお唯と申すのか?」


「はい。唯でございます」


「…正雪も子供の名づけにはしゃれっ気を見せておるということか」


 玄謙というのは、正雪が生まれ変わりと自称している武田信玄の「玄」と、その宿敵であった上杉謙信から取っているのであろう。これも中々変わった趣だが、それ以上に氏名と同じ読みの娘を持たせるとは…。正雪の意外な一面を見たと思った信綱に、小万が笑い声をあげる。


「…し、失礼いたしました。ご老中、由井正雪は世間向けの名乗りでございまして、楠昌行でございます。娘も楠唯でございまして」


「おっ? そうであったか…」


 確かに楠木正成の名前も出していたことを思い出す。


「ま、まあ、達者で暮らすがよい」


 こうして、慶安五年中に、浪人達の妻子は夫や父と同じく、長崎から南へと旅立っていった。



 妻子が出発したという情報は、早馬などで先に厦門へと届けられる。


「よし、厦門に着き次第、台湾に渡ることにしよう」


 自身が行けないとしても、なるべく自分に近い人物に行かせたいとなった時に、息子のことを思い出したのである。そこで柳生十兵衛に頼んで、早めに厦門に連れてこさせるように要請したのであった。


 傍らにいる丸橋忠弥は呆れた顔をしている。


「息子をオランダまで行かせるとは、お主も酔狂よのう」


「俺が行けない以上は、子に行かせるしかなかろう」


 正雪は平然と答える。


「船が難破する可能性もあるというのに…」


「そんなことを恐れていては、オランダ人に笑われるのではないか?」


 この時代、船の難破率はそれほど高くはなかった。オランダ東インド会社の船の場合、オランダからの往路では三パーセントほどの船が難破や拿捕などの憂き目に遭い、帰路は五パーセント程度であった。決して安心できる数字ではないが、まず大体の船は無事に目的地まで着くことができたのである。


 もちろん、正雪にはそうした数字は分からないが、実際にオランダ人が台湾やバタヴィアで活動している以上、まさか「怖い」などとは言えない。


「明の復興にしろ、今後の活動にしろ、一、二年で済むような話ではなかろう。そうでなかったとしても、玄謙には狭い世界ではなく、広く羽ばたいてほしいものよ。おまえも息子を連れていった方がいいのではないか?」


「…うーむ、わしはそこまでしたいとは思わぬのう。下手をすると息子が切支丹になってしまうかもしれぬし」


「ここは日ノ本でもないのだし、切支丹でも問題あるまい」


 厦門にも切支丹は少なくない数が存在している。何より、名目上の頂点である永暦帝が切支丹であるから、むしろ切支丹こそが正当の信仰という考え方も成り立つ。


「そうかもしれぬが、やはり、親としてはのう…」


 できれば同じ信仰をもっていたい。忠弥の表情にはそんな様子が浮かんでいた。

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