第4話

「金は分かったが、もう一つは何だ、書物か?」


 半兵衛の答えに、男は残念とばかりに本を開く。


「この中身ですね。これは、オランダの法文に関する本です」


「法文?」


「例えばですよ、中国で海に出ている者というのはどういう連中です?」


「どういう連中? 商人ではないのか?」


「犯罪者ですよ」


「…むっ」


「あっしにしても、鄭芝龍にしても、鄭成功にしても、犯罪者です。賄賂と力で抑えて生きていけているだけです。隙を見せれば殺されます。まともな奴は海には出ないんですよ、この国は」


「この国、というが、ここは中国なのか?」


 半兵衛の問いかけに、男は「あ、確かに違いますね」と笑う。


「ま、こうやって逃げることになるわけです。では、日本はどうでしょう? 日本で海に出るのはどういう連中です?」


「それは商人だろうな。もちろん、犯罪者同然で出てくる者はいるだろうが」


 自分のように、と内心で付け加える。


「では、オランダはどうでしょう?」


「知らんな」


「誰でもなれるんですよ。この法文に書いてあることさえ守れば。あっしらのように犯罪者でなく、日本のように生まれもったものがなくとも」


「…それが、オランダが強い理由なのか?」


「ええ、そうです。誰もが海に出る国と、そうでない国とどちらが強いと思います? 誰もが参加できる国と、そうでない国と、どちらがより金が集まると思います?」


 航海をするうえで一番の難点は、船の遭難である。遭難には、自然現象によるものもあるし、他国艦船から攻撃を受けたり、拿捕されたりといったことも含まれる。


 それらを避けるには少しでも大きな船を船団で組めばいい。船団が多ければ余程のことがない限り、動かなくなった船の人員や物を残りの船に移せばいいし、他国の艦船と遭遇した時に追い返すだけの能力をもつ。


 当然ながら、それだけの船団を揃えるには金が必要であるし、船団に乗るだけの人員が必要となる。


 オランダ東インド会社は、世界初の株式会社とも言われているように、誰もが資本参加ができるようになっていた。更に世界で最も発展した金融制度があり、それを裏付ける教育制度に簿記・会計制度があった。


 また、船員として参加することも条件はない。望めば誰でも参加することができ、しかも成功すれば富豪になる道が開けていた。


「それが全部、法文によって守られているわけですよ。だから強いんです」


「お主は誰でもなれる方が強いと言うが、先祖代々その仕事をしている方が優れているのではないだろうか?」


「ああ、そういう見方もできますね。しかし、そうすると金井様はさぞや立派な武士として江戸にいるのでしょうなぁ」


「くっ…」


 思わずカッとなったが、その通りではある。


 代々身分を受け継いでいることが良いことであるならば、浪人問題などは起きるはずがないことであった。



「なるほど。お主の言う通りだとしよう。そうすると、オランダには勝てない、ということになるわけだな?」


「そうです。少なくとも、勝てるとするなら今しかありません」


「うん…?」


 意味が分からない。オランダが素晴らしい理由を並べておきながら、オランダに勝つのは今しかないというのは理にかなわないのではないか。


「何故かというと、時間が経つとより差がつくからです。中国も日本も変わりません。よしんば国姓爺が清に勝ったとしても、中国の何かが変わることはないでしょう。とするならば、オランダに勝てる可能性が高いのは今、一年後、十年後と時間が経てば経つほど不利になっていきます」


「そういう理屈になるのか。しかし、勝てるのか?」


 これまでに集めた情報では、オランダ人は原住民と同盟を結び、福建人の反乱に備えているという。


 鄭成功軍の戦いも見ており、福建人が戦にうまいとはあまり思えなかった。しかも、台湾に戦闘経験のある人がどれだけいるのかも未知数である。


「鄭成功の力を借りたいところですねぇ。父親はいけ好かない奴でしたが、そいつとは反目しているといいますし」


「俺は、厦門で国姓爺を見ている。言葉が分からないから心底腹を割って話をしたことはないが、正直、こちらに向くとは思わんな。ただ、おまえがどうしてもというのなら、厦門まで行って俺の師匠に話を持ち掛けてみてはどうだろう?」


 協力をしたいかと言われれば微妙なところもあった。しかし、この男の知識自体は面白いものがある。


(正雪にとって為になるかもしれん)


 とも思った。反乱が失敗するにしても、正雪に色々教示させてから失敗してもらいたい、そう思ったのである。もちろん、正雪が後押しするというのであれば、それに従うつもりもある。


 男は嫌そうな顔をした。


「厦門に行くのはいいんですけれど、嫌な奴もいそうですからねぇ」


「それなら勝手にすればいい。俺としては、お主に付き合う義理はない。というか、今の今まで、お主の名前すら聞いていないのだし」


「ああ、そういえばそうでしたね。別に隠すつもりもなかったんですが、郭懷一(かく かいいち)と言います」


 そう言って、人懐っこい笑みを浮かべた。

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