第7話

 慶安四年(1651年)、日本では徳川家三代将軍徳川家光が死没し、その嫡男である11歳の家綱が四代将軍となっていた。


 世の浪人の不満は大きく高まり、この契機に爆発するとも思われたが、幸か不幸か、その中枢にあるべき由井正雪と戸次庄左衛門の二人が不在ということもあって、大きな事件は起こらなかった。とはいえ、未然に防がれた計画は何件かあり、幕府としても頭を痛めていた。


「少なくとも末期養子は認めてやらなければ、ますます浪人が増えることになる」


 ということで、17歳から50歳の当主の死については、末期養子も認められることとなった。



 松平信綱は家光没後も幕政の大黒柱の地位を維持していた。そこに柳生十兵衛からの密書が届く。そこには近況報告の件とともに、信綱を苦笑させざるをえない話が二つあった。


「密貿易の許可を幕府に貰わずともよかろうに…」


 作戦の幅の拡大のための密貿易の要請があり、一旦は保留とする。


「叶うならば、もう少し浪人を送ってもらいたいということか…」


 これは難しい、と信綱は思った。


 いや、本音としてはどんどん出て行ってもらいたいところではあるのだが、しっかりとまとめるだけの存在がいない。まとめられるような存在は危険度が高いので、優先的に前回のうちに送り出している。残っているのは、さほどではない者達ばかりであった。恐ろしいというわけではないのだが、小物である分、些細な問題を起こして領民に迷惑をかける可能性があった。


「こちらも難しいのう…」


 密航させるということも簡単ではない。中核となる人材が不足している今、送ることは簡単ではなかった。


(むしろ一回帰国させるべきか。いや、それが発覚すると鎖国に対する抜け道を幕府が用意していると大変なことになる。いずれ何百人かまとめて追放という措置をとるしかないか…)



 浪人の件での話がまとまったので、改めて、密貿易の件を考える。


「こちらも長崎奉行に認めさせるわけにはいかぬのう…。となると」


 信綱が考えたのは琉球である。琉球を通じて、厦門に横流しするという方法であれば、幕府としては琉球に送っているのだから、鎖国違反とはならない。また、琉球が密貿易していることについてはいくらでも裁量が効く。抗議文を送って琉球に黙殺させれば済むだけの話であった。


 妥当な解決策が見つかったので、気分よく小姓を呼ぼうとした時、初老の人間が足早に近づいてくる様子が見えた。同じ老中の松平乗寿(まつだいら のりなが)である。


「伊豆守殿。戦になるかもしれません」


「はぁ?」


 松平信綱は「知恵伊豆」の異名の持ち主とは思えないほど間の抜けた声をあげた。


「どこと戦をするのじゃ?」


 よもや、清が日本に対して懲罰的な行動を起こすことになるとは思えない。


「蝦夷でございます」


「蝦夷?」


 信綱は一瞬間をおいて、ようやく乗寿の言うことを理解した。


「以前から概要は聞いている。また険悪な状況になっているのか?」


 信綱の言葉に乗寿は安堵の息をついた。


「ご存じでしたか…」


「うむ。そのような状況があるとは聞いている」



 松平乗寿が言っている蝦夷というのは、アイヌ同士の対立であった。


 寛永年間に入る頃から、ハエ地方(現在の日高町門別)とシベチャリ地方(新ひだか町静内)のアイヌ同士の仲が険悪となっており、時折武力抗争をしていた。


「…松前藩がアイヌとの交易について、強硬な措置を採っているというからのう」


 アイヌと日本との交易は古くからおこなわれているが、この時代になると蝦夷地におけるアイヌの総数よりも松前藩の人口の方が上回っていた。元々の武力はもちろん日本の方が上であり、勢力の強弱の差が交易取引の相場に反映され、アイヌ側は不利な相場で次第に生活が苦しくなっているという状況があった。


 生活が苦しくなると当然険悪な関係も生まれやすく、アイヌの部族対立が起こるようになっていたのである。松前藩としてはアイヌ同士が対立してくれるのは有難いことであるが、幕府側としては一抹の不安もある。


「もし、アイヌ部族が対立することなく、連合して松前藩に挑み、それを松前藩が鎮圧に失敗したら…」


 アイヌは蝦夷地以外にも千島、樺太にも存在している。仮に全アイヌを統合するような存在が出てきたら…


 松平乗寿のような危惧も全く馬鹿にはできない。



 だが、この時、信綱には別の案も浮かんでいた。


 乗寿との会話が終わった後、信綱は小姓を呼ぶ。


「…蠣崎主殿助に、江戸まで来るように伝えてもらえぬか?」


「はて、確か参勤交代で江戸におりましたような…」


「真か? ならば、近々江戸城に登城するように要請してほしい」


「分かりました」


 一体何だろう。小姓は不思議そうな顔をしていたが、老中の指示は絶対であるので、素直に従おうとする。


「あ、ちょっと待て。もう一つあることを忘れていた」


 信綱は琉球の件をすっかり忘れてしまっていたことに気づき、慌てて小姓を呼び止めた。

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