第3話
順治八年の二月、清の方でも大きな動きがあった。
前年末に死去した睿親王ドルゴンを弾劾する動きが出てきたのである。
これには大きく三つの理由がある。
まずは、ドルゴンに抑え込まれていた清王朝内部の不満の爆発である。ホンタイジの死後、順治帝としてフリンが即位するに至るまでは、ホンダイジの長子であったホーゲなど少なくない有力候補が排斥されている。もちろん、ドルゴン自身も有力者の一人であったのであるが、「あいつさえいなければ」と思っていた者は少なくない。また、フリンの即位後もドルゴンは有力者に対して強い態度で迫っていたため、その反感がより大きくなっていたのである。
更に、ドルゴンが皇帝の母と事実上の婚姻関係にあるという話も問題を大きくしていた。これには皇帝フリンも強い不満を抱いていたのである。
その結果として、没後間もなく、「ドルゴンが皇帝専用の衣服や道具を密かに棺に入れていた」と讒言する者が出てきた。これにフリンも飛びつき、ドルゴンが謀反を企てていたとして親王位をはく奪することを決定した。更にはドルゴンによって葬られたホンダイジの長男ホーゲの名誉回復を行っている。
それだけにとどまらず睿親王系の王族や官吏はことごとく左遷や地位の縮小がある一方で、反ドルゴン派の地位回復が図られた。
しかし、こうした政争はあったが、その規模は明末と比べると著しく小さいものであった。例えば、明末には政争が起こる度に無数の死者が出たが、この政争で死刑になった者はいない。
せっかく掴んだ中華をつまらないいさかいで手放したくないという思いがあり、また、皇帝の母のとりなしもあったであろう。
更には中華思想を一身に引き受け、これから親政を行おうとしているフリンの意図もあったと思われる。
反ドルゴン派の中には満州族としての伝統を重んじる者も多かったが、皇帝フリンの思想はその対極の場所にあった。自らの理想を実現するためにはドルゴンの全てを否定することはできず、ある程度認めることも必要だったのである。
このため、厦門の鄭成功や、雲南の李定国、南寧の永暦帝も動くことができなかった。
もし、内乱が激しければつけ入ることもできたであろうし、あるいは呉三桂、尚可喜、孔有徳、
清は北京に入って以降、最初の危機的な時期をまずは無難に乗り切ったのである。
北京で政争が行われている頃、広州にいる孔有徳の下に厦門での一件が伝わってきた。張学聖が派遣した軍が完膚なきまでに敗れたという報告に、孔有徳は驚きを隠せない。
「そんな馬鹿なことはないだろう。鄭成功は広州の近くに来ているというぞ。奴のおらぬ厦門がそんな頑強な戦いをしたというのか?」
「何でも、見たことのない兵に敗れたということです」
「見たことのない兵?」
孔有徳には伝令の言葉がなす意味が分からない。
「あやつ、失敗したから適当な言い訳をしているのではないか?」
「そうかもしれませんが、張巡撫が言うにはその兵士達は身が軽く、とてつもなく威力のある武器を振り回していたということです」
「信じられぬのう…」
とはいえ、張学聖が決して無能な人間ではなく、ありもしないことを報告するような人間ではないということも知っている。
「本当だとすると、厦門には鄭成功の海軍の他に、切り札となる軍がおるということか。それは厄介だな」
「雲南の李定国が援軍を送った可能性は?」
「援軍を送るなら、厦門より南寧であろう」
距離のこともあるし、皇帝でありながら擁している軍はもっとも弱い。厦門や雲南からの妨害がなければいつでも踏みつぶせるような状態であると言ってもいい。
「ああ、左様でございましたな。あ、報告が更にありまして、その軍は全く内容の分からない言葉を話していたということです」
「分からない言葉を話していた? いや、そういう情報は先に言わぬか」
そこまで具体的な情報がある以上、張学聖が適当なことを言っているとは考えづらい。実際にそうした援軍があったのだろうと考えざるを得ない。
「申し訳ございません」
「言葉が違うということは、異国から呼び寄せたということであろう。鄭成功の一味は海を広く支配しているし、シャムや琉球から援軍を呼び寄せたとしても不思議ではない。今後更に中国以外からの援軍が増えてくるとなると厄介だのう」
善後策を練っているうちに、北京からドルゴン没後に混乱が起きていることも伝えられてくる。
「こいつはいかぬのう。落ち着くまでは戦どころではないかもしれぬ」
孔有徳をはじめ、南方にいる以前明に仕えていた武将達は政変に伴う武官の扱いがどれだけ酷いかをよく知っている。明末の名将袁崇煥のように皇帝の機嫌を損ねたが最後処刑されたという二の舞を踏むことはあってはならない。
この年はしばらくの間、清の攻撃はやむこととなった。これにより永暦帝は一息つくことができ、また、鄭成功、李定国も勢力を少し拡大することができた。
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