第四章 南海の事情
第1話
厦門を出た鄭成功は、途中、遮るようなものもないまま南澳から、沿岸部を移動し、一月のうちに香港島を占領した。ここからは目指す広州は目と鼻の先であるが…
「清軍もかなりの数が展開しておりますな」
城内には清軍の旗が多数はためいており、相当な数の軍がいることが予想された。
「民が虐殺されたということは、軍しか駐在していないということもありえますな」
鄭成功の軍は、永暦帝の伝えた70万人という虐殺を真に受けていた。その計算からすると広州の城内には市民はほとんどいないことになるし、それだけの数を虐殺する清軍の数も相当なものになる。
「帝を迎え入れたいが、広州を落とすのは難しい…」
鄭成功が今回連れてきている軍勢は二万である。これでも海軍としては圧倒的であるが、陸地で戦うとなると厳しい。
「あいつらが協力してくれるのなら話は別なのですが…」
と、施琅が目を向けるのはマカオである。現在、ポルトガルの領土となっており、ポルトガル船団が停泊している。
鄭成功は腕組みし、施琅に尋ねる。
「見込はあるかな?」
「正直、大きな見込はありません。ただ、全くないというわけでもありません」
「聞かせてくれ」
鄭成功の言葉に「はっ」と施琅は説明を始める。
ポルトガルは16世紀にマカオを占領すると、ここを日本・中国との貿易拠点として使用していた。
しかし、1639年に江戸幕府が鎖国体制を確立し、ポルトガルを締め出したことで貿易の一角が崩れてしまい、以降マカオは苦しい立場に追いやられた。これに伴う軍費の不足はポルトガルの東南アジア経営にも影響し、2年後の1641年にマラッカをオランダに奪われる事態にも影響している。
「つまり、ポルトガルとしては日本貿易を復活させたいと…」
「しかし、日本はキリスト教の問題もありまして、ポルトガルに対しては全く妥協しない姿勢を見せております」
「それはそうだろう。日本はオランダとの貿易こそ認めているが、オランダにも一切妥協していないからな。うーむ…」
腕組みしながら説明を聞いていた鄭成功の表情は晴れない。
「俺達の貿易分をポルトガルに横流しすれば、可能性はあると言いたいのだな?」
「はい。可能性はあります」
「ただ、さすがにそれは出来ない相談だな。俺達がポルトガルに横流しするようになってしまえば、日本も本気で対策をしてきかねないし、オランダとの関係も最悪になる。マカオの力は欲しいが、失うものが大きすぎる」
「全くその通りでございます」
「いっそ、俺達でマカオを取ってしまった方がいいかもしれんか…。ゼーランディアのオランダと組めばどうだろう?」
「確か28年前に、オランダとポルトガルはマカオを巡って戦争をしていますな」
「ならば、不可能ではないのではないか?」
「ただ、当時と今とでは、日本が鎖国をして、ポルトガルと相手をしていないという違いがございますぞ」
「うーむ、そうか…」
1622年の段階では、ポルトガルと日本は貿易をしていた。そのため、オランダにはライバルであるポルトガルの影響力を削ぎたいという明確な動機があった。
今は、日本はポルトガルを相手としていない。である以上、オランダもポルトガルの行動に神経を尖らせる必要はないし、無理にマカオを奪う必要がない。
「無理だな」
「…はっ」
「マカオのポルトガル人に金を支払って、マカオまで何とか帝を逃がしてきて迎え入れるということもできるが…」
ポルトガル人が必ず約束を守るという保証がないうえ、永暦帝がそのようなことを受け入れるかという疑問がある。
そうなると、結局、広州をどうにかしなければならないことになるが、それは鄭軍の実力では不可能である。
鄭成功の忠義はゆるぎないものがある。
しかし、出来ないことを忠義で押し通そうとするほど、無謀ではない。
「どうしましょう?」
施琅が結論を求める。
「何とかしたいところであるが、広州の清軍を倒すのは不可能だ。このあたりをうろついて、清軍を広州に釘付けにすることで、陛下の安全を間接的に支えるしかない」
鄭成功が香港のあたりをうろついていれば、広州の防備を怠ることはできない。その分、南寧の永暦帝への攻撃は緩やかになるはずであった。
「あとは、ポルトガル人と交渉をして、こちらが問題なくできることについては手伝ってやろう。後々、何かしら必要となる事態が生じるかもしれないからな」
「分かりました」
「半分くらいは香港に残るといい。我々は一度厦門に引き返す」
鄭成功はそう宣言し、半分ほどの船を香港島に残し、施琅ら主だった者を引き連れて厦門へと引き上げて行った。
その途上で、厦門で戦闘があった顛末を聞かされることになる。
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