第8話
元々、相手を呼び寄せるということは計画になかった。
甘輝から任されたのは、厦門を守り抜くことである。清軍に打撃を与えることではない。正雪は予定通り、相手の騎兵が見えた時点で攻撃に移ろうとした。
それを戸次庄左衛門が止めた。
「敵は我々に気づいていない。敵が全軍入ってきたところで、一網打尽にすべきである」
そう主張したのである。
「しかし…」
正雪は逡巡した。
考えとしては間違いない。味方の被害を重くみて軽い勝ちで満足するか、味方に被害が出てもより大きな勝ちを求めるか、考え方の違いである。任されただけに正雪には「守らなければ」という意識が強かった。
その逡巡を止めたのは丸橋忠弥であった。
「正雪、ここは庄左衛門に従おう」
忠弥も相手への打撃を重視しようとしていた。
「分かった。従おう」
間違っていないことは正雪も承知している。味方の方針がそれであるならば素直に従うことにした。
清軍は次々と厦門に入城してくる。鄭氏の予想外の情けなさに「今こそ好機」と我先に雪崩れ込んできた。
もっとも、そう思わせるだけの情けなさが厦門の鄭軍にあったのは事実である。守りを任されていた鄭芝莞自身が我先にと逃げ出そうとしているのであるから。しかも、財宝の類を船団に乗せようとして、そのために鄭成功の正室の乗船要請を断るという有様であった。
清軍が勝ったと思うのは間違いではない。
しかし、この厦門に全く別の勢力がいるということには思いが至らなかった。
馬得功は全軍をまとめて、厦門の攻略にかかろうとしていた。
まさにその瞬間、浪人部隊が一斉に建物を出て、背後の城門を塞いだのである。そのまま後ろから清軍に襲い掛かった。
清軍にとっては、全く予想外の襲撃である。おまけに、今までに戦った鄭軍や南明とは明らかに違う敵であった。全く恐れを知らず、容赦がない。
「敵だ! 敵の援軍だ!」
急に後ろから声がしたのであるから、たちまち全軍が恐慌状態に陥った。一旦勝てると安心したところから奈落に落とされたのであるから、日ごろの勇猛さなどは関係ない。勇猛さだけを言うならば、鄭軍にしても鄭芝莞の無様なことがなければもう少しまともに戦えたはずである。
「こ、こら、逃げるな!」
必死に軍を制御しようとする馬得功であったが、止めようとしている間に回りに誰もいなくなった。そこに槍をもつ軽装の男達が迫ってくる。
「覚悟!」
と叫んだ言葉は馬得功には理解できなかった。発音だけは分かったが、何を意味するか分からない。ただ、いずれにしても、これが馬得功が聞いた最後の言葉となったのは変わりがないが。
逃げだした清軍であるが、すぐさま彼らは逃げる場所がないという事実に気づく。
一旦乱れた統率は戻らない。彼らを修正できる馬得功は既に死んでしまい、仲間は後ろから次々と斬られていく。後ろにいる者の方が命令権のある者が多いことから、統率の修正は不可能になっていた。
しかし、ただひたすらに逃げるというのも不可能である。逃げるための城門は浪人軍に塞がれている。そして、厦門を逃げ惑うには清軍の辮髪姿はあまりにも不利であった。
清軍が混乱している状況に、慌てふためいていた鄭軍の兵士が落ち着きを取り戻す。総大将の鄭芝莞こそ既に海に出てしまったが、多くの者はまだ残っている。浪人が優勢であることを確認すると、彼らも数名で組んで清軍への襲撃を開始した。
およそ二刻ほど、一方的な虐殺が続いた。数少ない生存者は一旦町中へ逃げた後、懸命に走り続けて門から出て行った者であるが、それは僅か百人に足りない。
厦門に向かった清軍三万人は二万人以上の犠牲を出し、ほぼ全滅してしまったのである。
泉州までたどり着いていた張学聖は、僅かに逃げ延びてきた兵から状況を聞いて仰天した。三万人いた兵士がほぼ全滅したというのであるから無理もない。
「相手には、全く見知らぬ兵士がおりました」
「見知らぬ兵士?」
「今までに全く聞いたことのない言葉を叫んでおりました」
「…厦門には外国からの援軍がいたと申すのか?」
張学聖は立腹すると同時に安堵もした。
派遣した軍が全滅したとなると、どんな問責を受けるか知れたものではない。下手をすると北京の市場で凌遅刑という恐れすらある。
しかし、相手に見知らぬ軍がいたとなれば、それは弁明の理由になるであろう。孔有徳ら、攻めることを勧めた者の発言がいい加減であったことになるのであるから。
「…いずれにしても、この状態では厦門に近づくわけにはいかぬ。福州に撤退しよう」
張学聖の部隊は全軍引き上げていった。その途上、皇帝に対しての言い訳と孔有徳らの非難を書面に仕上げていたのは言うまでもない。
梅州での戦い以上の戦勝をあげた浪人軍であったが、翌日も戦い続けなければならなかった。とはいっても、相手は生きている清軍ではなく、死んでいる清軍である。死体をそのままにしておくわけにもいかないので、処理することになる。こうなると相手の方が多いというのは厄介なもので片付けても、片付けても終わらない。
「勝った後がこんなに大変だとは思わなかった」
忠弥も庄左衛門も、この点に関しては弱気にぼやいているのであった。
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