第5話

 日本・江戸。


 寛永三年は特に大きな事件もないまま秋を過ぎていた。


 ただし、将軍家光の病状は次第に悪化しており、このことに幕閣は心を痛めている。


 当然、筆頭老中松平信綱も同じであった。


 そんな、浮かない状況が続く中で、遠い中国からの情報が朗報として伝わってきた。


「ほう…。清の軍にも勝ったのか」


 信綱は背中に冷たいものを感じた。今や日の出の勢いである清軍にも勝つような浪人。そういう者がこの日ノ本で不満を溜め、下手をすれば暴発していたかもしれないのだから。


(厄介払いという意味では、効果があったのう。後は、どれだけ予想外の事態をもたらしてくれるのか…)


 もちろん、一度の勝利だけで一喜一憂できるような話ではない、と思っていた。何といっても中国は広い。一度の戦闘に勝っただけで流れが変わるとは到底思えない。


 また、負けても困るのだが、勝てば勝ったでそれもまた困るという現実もあった。


 中国の地で日本の浪人が勝ち進んでいるということになっては、「幕府も本格的に乗り出すべきではないか」という声も出てくるかもしれない。ようやく軌道に乗ってきた鎖国体制をどうすべきか。


 信綱の脳裏に、出国前の正雪との会話が思い出される。


「最終的には台湾と呂宋の紅毛人を追放し、この海域を従来のようなアジアの海としたいと思います」


(アジアの海か…)


 そう。昔と同じ姿というのは望ましいことである。


 しかし、そこで徳川幕府がどのように絡むのかということについてははっきりと分からなかった。




 南寧に逃げた永暦帝の陣営に、更に広州も陥落したという情報が伝わってきた。


「広州では、清軍が70万もの民を虐殺したということにございます」


 という報告に多くの者が衝撃を受ける。


 実際には、広州がいかに大都市であるとはいえ、70万人という人数は人口的にもありえない。40万人ほどの人口のうち8万人程度が殺戮されたというのが実情に近いようであるが、それでも広州の人口の五分の一に及ぶ数字であり、座視できるものではない。


 誰しもが、もし、そのようなことがここでも起こったらという不安を抱く。


 今、彼らがいる南寧は決して堅固な場所ではない。清軍が接近してきたら、今度はベトナムやビルマの方にでも逃げるしかなくなってくる。


 そこまで逃げてしまえば明としての威光はなくなってしまう。


 それを避けるために彼らが頼れるのは、雲南にいる李定国か、厦門にいる鄭成功の二人しかいない。ただし、彼らも雲南近くの陸地を逃げているから、李定国が南寧まで救援することは厳しいだろうという事情を察していた。


「鄭成功に広州を落としてもらって、海の方に逃げるしかありません」


 幕僚が進言する。彼らも「清軍は陸が得意で、海は苦手」ということは知っている。何とか海側に逃げて、鄭成功とすぐに連絡を取れる状況にしたい。そのためには自分達が東に行く必要もあるが、出口となる広州を確保してもらわなければならない。


 翌日、決死隊の伝令数名が南寧の南にある欽州から、厦門方面へと向かうべく派遣された。



 しかし、密偵の一人は早々に捕まり、桂林の孔有徳の下に送られた。


「…厦門の鄭成功に、広州まで来てほしいということか」


「いかがいたしましょう? 他の密偵も徹底的に搾り上げましょうか?」


 孔有徳は少し考えて、「やめておけ」と指示を出した。


「えっ、いいのですか?」


「鄭成功が広州に来るということは、逆に厦門の防御が弱くなるであろう。厦門を攻めとるいい機会になるのではないか? 睿親王は鄭成功のことを恐れているという。恐れているからというだけで、我々の面子を一方的に潰されるのは論外であるが、今回のことなら誰も傷つかぬから問題ないであろう。福建の連中に教えてやれ」


 鄭成功が広州に来る前に厦門を攻撃させたら、拠点を奪われることを恐れて鄭成功は戻るであろうが、戻る前に厦門を奪うことができれば労せずして重要拠点を奪えることになる。それは悪いことではないと孔有徳は考えたのである。


(福建の連中に恩を売る事もできる。永暦帝を桂林から逃すこととは訳が違う)


 そう考えて、情報をそのまま鄭成功の下に伝えさせることにし、一方で福建にいる福建巡撫の張学聖ちょう がくせいに話が伝わるような措置もとった。




 十二月、鄭成功の下に永暦帝からの使者がたどりついた。


「何と!? 広州では70万人もの民が犠牲に?」


 鄭成功は使者の報告を真に受けて、その場で号泣せんばかりの衝撃を受ける。


「主上は是非とも漳國公(鄭成功の地位)に広州の回復を願わんと…」


「うむ、うむ…」


 鄭成功は立ち上がり、すぐに近侍の者に命令をする。


「者共、年が明けたら広州を奪いに行く。準備をせよ!」


「公。出陣は構いませんが、ここ厦門はどうするのですか?」


 甘輝が尋ねた。鄭成功の拠点は南澳、厦門と増えたが、任せるに足りる将が増えたとは言い難い。


「…そこは、我が叔父に任せようと思う」


 鄭成功が名前をあげたのは、鄭芝莞てい しかん鄭鴻逵てい こうきという二人の叔父であった。


「…左様でございますか」


 甘輝は従いこそしたものの、その表情には不安の色がありありと浮かんでいた。



 広州奪回を目指し、軍に動員をかける鄭成功の下に、程なく重大な情報がもたらされた。

 清の最高権力者・睿親王ドルゴンが急死したというのである。

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