第三章 順治帝

第1話

 西暦1650年は日本の寛永三年にあたり、明(南明)の永暦えいれき四年にあたる。


 と、同時に清の順治七年にもあたった。


 七年前、六歳で即位した愛新覚羅あいしんぎょろ福臨ふりんは十三歳。そろそろ分別もついてくる年頃ではあるが、依然として実権は睿親王えいしんおう多爾袞どるごんの手にあった。


 ドルゴンは今年三十九歳。清の太祖にあたるヌルハチの十四子であり、太祖の有力な後継者候補でもあった。しかし、太祖は母方ウラナラ氏の専横を恐れたか、自らの死後ドルゴンの母には殉死するよう言い残していた。


 その後、兄ホンタイジの御世には有力な一門として力を発揮し、ホンタイジの死後、その息子フリンを帝位に押し立てた。ほぼ同じ時期、北京が李自成によって落とされ、呉三桂ご さんけいからの援軍要請を受けたことに応じて、山海関さんかいせきを突破し、北京を陥れた。


 以降、摂政王としてフリンの後ろにおり、実質的な最高権力者として君臨している。



 梅州と潮州の間での、小さな戦いの情報は本来であれば、清の宮廷にまで届く類の情報ではなかった。出動していた軍勢は八千と小競り合いに等しいものであり、しかも現地の人間が多数含まれている。


 仮に明の時代であれば、現地で握りつぶされていたであろう。


 しかし、この情報は北京にまでもたらされた。


 理由はいくつかある。


 まず、清の内部事情であった。


 最高権力者ドルゴンの方針は全土統一である。しかし、これに対して満州族の間で反対する向きもあった。彼らの考えとしては、「満州族は漢民族と比べると人数が少ない。無理をして失敗した場合に漢民族による反発が出てくるのではないか」というものであった。そのため、彼らとしてみると「南の海岸沿いについては失敗した。このあたりで妥協してもいいのではないか」という思いがあり、ドルゴンに翻意させるべく清が不利な情報について積極的にもたらそうという意図があったのである。


 もう一つは清が飛躍への足掛かりをつかんでいる状態で、風通しが良かったことにもある。上り調子の国家では、下から上への情報伝達がそうでない国家よりもきちんと行われる。梅州の人間達も自分達の保身よりも、清の今後を考えてきちんと報告することを重視していた。


 最後に、海側からの情報もある。鄭成功をはじめ、海岸線の少なくない部分について海賊が影響をもっている。となると、仮に隠したとしても、海沿いに情報が伝わり、こちらの宣伝を通じて北京にもたらされる可能性がある。そうなった時に「何故隠していたのだ」と追及されるよりは素直に認めた方がいい。また、海を根城にしている鄭成功の部隊が陸地深くまで部隊を伸ばしてきたという違和感もあった。


 そうした理由で、小さな戦いの顛末が最高権力者ドルゴンにまで伝わったのである。



 紫禁城の太和殿でドルゴンは、報告を受けていた。


 彼も、陸地の深い部分まで鄭成功の部隊が活動していたという部分にけげんな顔をする。


「…これは、南方の軍に変化があったかもしれぬ」


 少し考えて、指示を出す。


同安侯どうあんこうを呼んでこい」



 同安侯・鄭子龍は鄭成功の父親であり、この年四十七歳。


 四年前に清に投降しており、その際に同安侯に封じられていた。とはいえ、実際に諸侯としての活動をすることもない。軟禁とまではいかないが、監視の目もついており、本人にとっては生活の不自由はないものの、色々窮屈な暮らしとなっていた。


「睿親王、お呼びでしょうか?」


「おまえの息子について聞きたい」


 鄭子龍の表情が曇った。


「睿親王、何度か申しておりますが、あれは私の息子ではありますが、海賊ではなく、明の硬骨漢でございます。私が説得しようとすれば、私は奴の剣の錆になることでございましょう」


「…降清を呼びかけたいのではない。手下について聞きたいのだ」


「手下?」


「おまえは潮州を知っているな?」


「もちろんですとも。あのあたりについては世界中誰よりも詳しいと自負しております」


「そこから梅州へと延びる街道がある。その街道を南下していた我らの軍が、貴様の息子の部隊にやられたらしい」


「は…?」


 鄭子龍の表情が変わった。


「そんな街道に、成功の軍が?」


「そういう報告が入ってきている。貴様も含めて、福建の海賊共は正面きっての戦い、陸地での戦いを一切しなかったが、今回のみやられたという。何か心当たりはないか?」


「いや、ありませんね…」


「何でも構わん。言いにくいことであっても申してしまえ。何もせん」


 ドルゴンの言い方には、「おまえが何かしら新しい連中の手引きをしているのではないか」というような疑いも含まれているようであった。


「今の私の状況でそんなことができるはずがありません。少なくとも私が従えていた手下は、陸地で清軍と真っ向から戦うようなことはないと思います。ありうるとすれば、陸地の南明勢力と結びついたか、あるいは周辺から援軍を募ったか」


「陸地の南明勢力はありえんな。雲南の方は釘付けにしてあるし、その他も大々的に奴らについた者達はいない。援軍というのは何だ?」


「いや、まあ、例えば、台湾とか越南とか…」


 鄭子龍の頭には日本はない。かつて、彼は日本に期待して援軍を要請したのだが断られた経緯がある。今はその時よりも不利な状況にあるため、日本が援軍を派遣したという発想はなかった。


「台湾…、奴ら、オランダと手を組んだとか?」


「ただ、オランダ人も陸戦はさっぱりです。奴らの強みは船の頑丈さと大砲ですからな。陸戦ができるなら、今すぐにゼーランディア城を占領することも可能です」


「…十日後、再度呼び出す。その時までに、何かないか考えてこい」


 ドルゴンは強い口調で言った。


 分からなければどうなるか分からない、かつての人脈を使って絶対に調べてこいという強い意図が含まれていた。


「御意のままに…」


 鄭子龍は平伏してそう答えた後、重い溜息をついた。

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