第8話
中秋節の前日。
鄭成功は、自らの徒党二十人ほどと共に厦門に到着した。その中には由井正雪、柳生十兵衛の二人もいる。また、別の交易船を装って三〇人ほどの戦闘員も別にやってきていた。
「おうおう、よく来たな。国姓爺」
鄭聯がにこやかに対応する。鄭成功らも笑顔で応じているが、暗殺という非常手段を考えているせいであろう。鄭成功の笑みは若干ぎこちない。もっとも、そうしたことに気づく鋭い感性は鄭聯にはないようであった。否、連日の酒でそうした感性が鈍っているようであった。
「既に準備は進めさせているぞ。こちらが会場じゃ」
鄭聯は上機嫌のまま鄭成功達を案内する。少し乱れた呂律や足取りを見る限り、前日も深酒をしていたらしいことが窺える。
それも鄭成功の狙うところであった。
夜になると、想像を超えるような大宴会で鄭聯は南澳の者達をもてなした。
この辺りは、鄭氏の中での面子の張り合い、「鄭成功が前回あのくらいの宴会で自分をもてなしたので、俺はもっとすごいのをしないと」というようなところがあるのであろう。
「どうだ、行けるだろう?」
鄭聯は早くも瓶の酒を空にする勢いで飲んでいる。
「いやいや、これは美味しいですな」
事実美味しいのではあるが、鄭成功達は味のことはほとんど意に介していない。いや、この後のことに意識が集中しているので、味のことなどまるで分からないし、酒も舌を湿らす程度でしか飲んでいない。もちろん、それだけでは疑われかねないので、何人か好きなだけ飲み食いできる要員もいるが。
「あれを見てください。少し前に日ノ本から来た戸次というものですが、もう楽しそうなことこの上ありません。厦門の宴会は遠い日ノ本の人間もあそこまで満足させるのですなあ」
と、鄭聯を上機嫌にさせるべく、庄左衛門らの一角を指さした。
「そうだろう、そうだろう」
鄭聯は満足そうであった。
およそ二刻ほど過ぎたであろうか。
「うー、飲み過ぎたのう」
と、鄭聯がふらふらとした足取りで進んでいる。
「大丈夫ですか? 少し歩きましょう」
そう言って、鄭成功がさりげなく近づいて鄭聯を介護するように付き添って歩く。
その姿を不思議と思う者はいなかった。
厦門の街中を鄭成功は鄭聯を伴って歩く。「大丈夫ですか?」と促していれば、鄭聯からは「大丈夫だ」という力ない返事が返ってくるだけで、自分がどこを歩いているかも把握していない。
次第に、街の中心から外れた場所にさしかかっていた。付近に人はいない。叫び声なども街には届かない場所である。鄭成功も何度も厦門に来ていることから、そうした地の利は心得ていた。
「このあたりで良かろう」
鄭成功が持っていた灯りを持ち上げて振った。
「うーん? 何が良いのじゃ?」
鄭聯は夢うつつの状態である。
その間に、一〇人の刺客が周囲を取り囲んでいた。
「ほら」
鄭成功は鄭聯の体を彼らの方に押し出した。
「や、や、や…?」
押し出されたことで、多少覚醒したのであろう、周囲を確認した鄭聯の目が驚愕に見開かれる。
それを合図に一〇人の刺客が一斉に飛び掛かる。必死でかわそうとするが、酒に酔ってフラフラとしているし、日々の不摂生もあり動作は鈍い。たちまち肩に一撃を受ける。
「くそっ! 謀ったな、
鄭森というのは鄭成功の古い名前である。酒でぼんやりしているとはいえ、この状況を作り上げたのが誰であるかは分かっているらしい。
「行くぞ!」
二回目の襲撃を受けて、鄭聯は転がるようにしてかわした。そのまま、道から外れたところへ落ちていく。執念の力とでもいうべきであろうか、必死の速度で走り出す。
「おのれ!」
刺客の攻撃をかわした鄭聯は近くの階段まで走る。そのまま態勢を崩し、転がり落ちていくが、頭を保護している。
「いかん!」
落下する速度が意外と早い。
このままでは逃げられるかもしれない、そう思われた瞬間、疾風のように階段を降りていくものがあった。両刀持ちの隻眼の男は、落下する鄭聯よりも早く階段を駆け下りていく。
「頼むぞ!」
誰かが福建語で叫ぶ。十兵衛は転がり落ちた鄭聯が何とか立ち上がろうとしたところに突っ込んだ。鈍い音と共に、十兵衛の刀が鄭聯の腹部を貫いた。
「おのれぇ…」
鄭聯が呪うような声を振り絞るように出す。それで力の全てを使い果たしたらしい。その場に倒れ伏した。
十兵衛は刀を抜いて、懐紙で拭きとる。
「よし。帰るぞ!」
目的は達成されたので、残る必要はない。刺客達は十兵衛にも伝わるように、合図を出した。十兵衛は飛ぶように階段を駆け上がり、そのまま去っていく。
後には何も残らない。
いや、物言わぬ体となった、鄭聯だけが残っていた。
翌日の朝。
「おのれ! 清め! こんなところまで刺客を送り込んでくるとは!」
屋敷の涼しい場所に台が設けられていた。その上に、物言わぬ鄭聯が横たわっている。
傍らでは鄭成功が涙を流し、呪詛の声をあげていた。
「天よ、地よ! ご照覧あれ! 私は、必ずやこの仇を果たすだろうことを!」
そう叫ぶ鄭成功に、鄭聯の家族が「ありがとうございます。どうか」と頭を下げている。部下の数人かが鄭成功に続くように「仇討ちを! 清に報復を!」と叫んだ。
雰囲気が完全に支配されていた。あるいは「いくら何でも清兵が入り込んでくるのは怪しいのではないか?」と思っている者、あるいは「昨日、鄭聯様を最後に見た時に共にいたのは国姓爺ではなかったか?」と思う者もいるかもしれないが、とても声に出せるような雰囲気ではない。
かくして、厦門の街は反清一色となった。
福建に出かけていた鄭彩の下に翌日には情報が届いた。
「…鄭聯が……」
鄭彩は足を震わせながらつぶやいた。
「厦門では国姓爺に従おうという声が多数出ておりますが…」
「う、うむ…。俺は隠居する」
「は?」
「俺は隠居する。もう歳であるし、反清活動をおおっぴらにやる気力はない。後のことは国姓爺に任せよ」
そう言って、それを裏付ける手紙も書きつけた。
「本当によろしいのですか?」
「当たり前だ。俺も海の男だぞ。手紙を書いて、やっぱりやめたみたいな恥ずかしいマネが出来るか!」
「分かりました」
使者が戻ると、鄭彩は身震いした。
「やはりこうなってしまったか…。鄭聯は恨まれていたからのう」
鄭彩は誰が犯人であるか分かっていたのであるが、対決するだけの気力を持たなかった。この日を境に鄭彩は隠居し、厦門の戦力はほぼそっくり鄭成功のものとなったのである。
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