第2話
中国南部、南澳。
鄭成功はこの年、二七歳。四年前、鄭子龍の降伏によって分断された鄭氏政権の一角を受け継いでから四年が経過していた。
この四年、鄭成功の視線は北を向いているかに思われた。国姓爺の異名ももつ男である、復明を掲げて北の方を向くのは自然なことである。
実際はそうではない。北東の方、厦門の方を向いていた。一門の鄭彩と鄭聯の兄弟が治めているところである。軍の勢い、数ともに鄭成功を上回っていた。この海軍を丸々吸収することを考えていた。
どうやってそれを成し遂げるか、その方法について煮詰まっていた頃に、東の方から予期せぬ来訪があったのである。
「何、本当に来たのか?」
東の方、日本からの援軍が来たという報告を受けた時、鄭成功はむしろ驚いた。
もちろん、連絡は来ていた。鄭成功自身、日本人の血を引いていることもあるから、長崎には知っている者も少なくない。軍備での連絡ではなく、交易のための連絡役は多数いる。そうした者から、どうやら日本からある程度の援軍が来るらしいという報告は来ていた。
とはいえ、鄭成功には「今更、来るのだろうか?」という疑念があった。
今更、というのは理由がある。鄭氏政権が日本に援軍を求めたのは今が初めてではない。最初に求めたのは父親の鄭子龍であった。その時代には、鄭氏は福建におり、明の遺臣の勢力圏も広かった。
しかし、その時期、日本は全く動かなかった。それは客観的には正しかったのだろうということを鄭成功は理解している。彼は自らが失敗するとは全く思っていないが、情勢が清に優位と見て取られるのはやむをえないことと考えている。
それが今になって何故という思いはある。もちろん、日本の情報について多少は理解しており、浪人問題なるものがあることは知っているが、実際に派遣してくるほど切実だということはさかずに知らなかったのである。
「…何も、この一番忙しい時に来てもらわなくてもいいのに」
と舌打ちしたい側面もあるが、とはいえ、政治的な部分では日本からの援軍を受け入れたということは大きい。受け入れないわけにはいかない。
「しばらくの間、歓待するだけで事がなってからお会いしますか?」
側近の
しばらくして、港から「五千人ほどが先遣され、更に五千人が来る」という報告を受けた。
その人数に驚いた鄭成功は、港に行って降りてきた日本人を見て更に驚く。
(これが、日本の武士だというのか…?)
鄭成功自身、七歳までは日本で育っていたこともあり、若干の記憶はある。しかし、長崎は海外との入り口ということもあり、外国人も多かったし、そこにいる武士も江戸幕府の役人が全員であった。少なくとも命を捨てる覚悟を有した武士ではない。
今、ここに来ているのは「いつ死んでも構わない」と考えている武士である。その並々ならぬ覚悟のほどは、遠目に見ても肌をちりちりと焦がすかのような勢いで伝わってくる。
「一度に五千人全員を迎え入れるのは難しい。代表を何人か派遣して…ああ、いい。私が行く」
鄭成功は指示を出そうとして、すぐに翻意した。
港に向かい、代表者らしい男に話しかける。もちろん日本語で、だ。
「遠路はるばるよくお越しいただいた。私が鄭成功です」
「これはかたじけない。それがしは由井正雪と申します」
「これほどの援軍、真に心強いですが、当方も場所に限りがありますので、まずは代表者数人と話をしたいのですが、どうでしょうか?」
「承知いたしました。しかし、日ノ本で生まれたと聞いておりましたが、ここまで見事な日本語を話されるとは驚きでした」
「何、こういう仕事をしていると、日本人と会うことも多いものでして、陣営の中にも話せる者は結構おりますぞ」
その夜、鄭成功の幕舎には四人の日本人が招かれた。
由井正雪、柳生十兵衛、加藤明成、戸次庄左衛門である。
生駒高俊、丸橋忠弥の二人は、残りの兵士をそれぞれの宿舎に割り当てるために残っている。
「改めて、遠路はるばるようこそ」
鄭成功の音頭で、酒杯が振舞われ、料理が運ばれる。
「今や、日ノ本からの援軍を得て、百万もの援軍を得た思いですぞ」
と一度、上に持ち上げてから、現状の説明をする。
「ただし、現状、我々鄭氏は一門が二つに割れておりまして、な。これをまず一つにまとめて、それから復明活動を行うことになります。この件について片がつくのは夏くらいになりましょう。それまでは英気を養っていただき、来たる日に備えていただければ。そう思っております」
「左様でございましたか。ただ、我々は戦うために来たのでありまして、遊びに来たわけではありません。しばらく待機していよというのであれば、別のことを行いたいのですがよろしいでしょうか?」
正雪の答えに、鄭成功は首を傾げる。
「構いませんが、どのようなことをなされるおつもりか?」
「はい。現状を見ますに、明は衰え、清は旭日のごとき勢いにございます。これにまともに当たることは賢明ではないと考えております」
「ほう…」
鄭成功は内心に嘲りの感情を抱いた。
(清のことを内心で恐れているのか。ま、仕方ないことではあるが…)
当初、日本人武士を見て戦慄したことを思い出した。その恐怖がどうやらたいしたことないものであると分かり、安心した思いにもなる。
「まともに当たるわけにはいかないと申しますが、ではどうされるのですか?」
意地の悪い問いかけを投げかけるが、正雪は平然と答える。
「はい。我々の方で、台湾、呂宋(ルソン)を占領いたします。鄭氏は既に日ノ本、中国、台湾と股にかけておられますが、それを更に拡大したうえでルソンにまで広げてしまえば、いかな清もそこまで手を出すことはできません。我々は安心して清と対することができます」
「な…」
乾いた音がして、冷たいものを感じた。
ハッとなって確認すると、思わず酒杯を落としてしまい、それが自らにかかっていた。
改めて日本武士を見た。
全員、平然とした顔をしていた。
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