暴君ディオニス

逆塔ボマー

王は人の心が分からぬ

 ディオニスは嘆息した。必ず、この危うき国を守り抜くと誓った。ディオニスには人の心が分からぬ。ディオニスは、一国の王である。贅沢もせず、重税も課さず、他国に舐められない程度の豪華さを保った王城で暮らして来た。けれども貴き者の責務ノブレス・オブリージュに対しては、人一倍に敏感であった。

 王であるからには、この身は自分ひとりのものにあらず。日々の食事も、うやうやしく仕える臣下たちも、すべてこの国を支えるために賜っているもの。そんな自覚をもって国を運営する、善良な王であった。

 彼の支配するシラクスの市は、夜になっても皆が歌などを歌って賑わいをみせる、誰もがうらやむ繁栄を謳歌していた。


 始まりは王の毒見役の一人が泡を吹いて倒れたことだった。警吏たちによってすぐに捜査が行われ、検出された毒物から、王の妹の婿である男が容疑者に挙がった。この国では限られた場所にしか生えぬ毒草であり、その地の管理を任されていたのが彼だった。

「王よ、いや我が友よ、慈悲深き我が義兄あによ。私は君に嘘をつきたくはない。しかし同時に、私にも守りたいものがあるのだ。」

 それだけ言って、妹婿は黙秘を貫いた。それは千の言葉よりも雄弁な自白であった。

 王にとって数少ない、友と呼ぶことのできる相手だった。幼いころから共に過ごしてきた仲だった。大切なたった一人の妹を、この男になら預けられると見込んだ相手だった。

 拷問も取り調べのうちに入る時代だった。王の立場が、そして過去に縁を結んだ相手だったことが、かえって手加減を許さなかった。

 厳しい尋問の果てに、意識朦朧とした義弟の口から、共犯者として王の世嗣である息子の名が吐き出された。

 地下牢から出ることなく、男は死んだ。


 王は息子を呼びつけた。面と向かって否定してくれたのであれば、それで済ませることもできた。責めの苦痛から逃れんと、ありもしないことを言う者は少なくなかったのだ。ただし、そうとするためには証人が必要であった。

 臣下の者たちが見守る中、叛意の有無を問われた世嗣はやおら短剣を抜き放った。後継者といえども玉座の前では許されない暴挙だった。「父上こそ私を殺そうとしているのでしょう。」世嗣の子はそう叫んで実の父親に飛び掛かった。

 正義感の強い若者だった。行動力に長けた若者だった。民からも期待されていた王子だった。たまに短慮が目立つこともあったが、いずれ経験がそれを補ってくれるはずだった。

 刹那、そのまま殺されてやろうかとも思ったディオニスだったが、しかし見渡してみても伏兵の用意もない。明らかに反乱の用意がない。根回しも準備もしていない。こんな形で王位を簒奪しても、民も臣も納得せず、その後の国は荒れに荒れるだろう。咄嗟に助太刀する者も出てこないこの人望では、内乱は抑えきれず、他国の侵攻を許し、国は滅び去ることだろう。無辜の民草は自由を失いその身を奴隷に落とすことになるだろう。

 人一倍、貴き者の責務ノブレス・オブリージュに敏感な王だった。私情を、当たり前の親子の情を、わずかに責任感が上回った。

 腰の剣を抜くのと斬り返すのがほぼ同時だった。血を分けたはずの息子は悲しいほどに弱かった。避けることも、短剣で受けることもできず、致命の傷を負った。

「やはり父上は、私のことを。」我が子に残された時間は少なかった。悔いる間も、誤解を解く間も惜しかった。王は代わりに問うた。

「いまたしかに、やはり、と言うたか。誰に聞いた。」

「叔母上が。」

 妹の名を遺して、息子は息絶えた。


 名が挙がってしまったからには、対処しない訳にはいかぬ。王は喪に伏していた妹を召喚したが、妹は登城することなく、それどころか自らの子を連れて郊外の別荘へと退去し、そこで兵を挙げた。次なる正当な王を僭称したのは、まだ幼い、妹の息子だった。

 にわか仕立ての反乱軍は、あまりにも簡単に制圧された。王は生かしたまま捕らえるよう命じていたが、包囲の中、焼け落ちる館の中で母と子は自刃して父親の後を追った。

「国が丸ごとお前の支持に回るなら、この首などくれてやっても良かったのに。なぜ逃げた。なぜこんなにも無謀な挙兵をした。」王は深く悲しんだ。

 同じ母の腹から生まれた妹だった。誰よりも心にかけていた相手だった。子供が生まれた時には、王は我がことのように喜んだ。

 その甥は、幼いながらも利発な子だった。いずれ国の要職を担う人材になると期待していた。世嗣である王の息子亡きいま、何もしていなければこの国を継ぐことになるはずの子だった。

 国を守るためにも、反逆者には相応の報いを示すことが必要だった。悲しみを表に出すことは出来なかった。焼けただれた母と子の亡骸を、王は命じて罪人として高く吊るして晒した。誰もがその苛烈な扱いに恐怖した。


 そうこうしているうちに、二人目の毒見役が倒れた。今度はありふれた毒だったが、一回目の時よりも遥かに雑な陰謀だった。問われる前に逃げ出そうとした料理人が捕らえられ、あっさりと首謀者の名を吐いた。王の正妻だった。

「何か申し開きはあるか」王は皺の増えた顔をしかめて尋ねた。

 縄をうたれたまま、女は人目も構わず夫を罵った。人殺し、親が子を殺すなんて、あの子を返して、いっそお前が死ねば良かったのに。だいたいそんなようなことを、文字にするのも憚られるような、口汚い言葉で吐き散らかした。

 政治的な婚姻ではあった。愛のない結婚ではあった。しかしそうであればこそ、深く気遣ってきたつもりであった。立ち振る舞いに気品があり、言葉遣いも穏やかで、今まで一度だって怒った姿を見せたことのない女だった。

 即日、処刑が行われた。苦しみが少ないとされる斬首に処すのが王に出来る精一杯の慈悲であった。落とされた首は凄まじい形相を保ったまま転がって、見た者を震え上がらせた。


 人一倍、貴き者の責務ノブレス・オブリージュに敏感な王だった。悲嘆に暮れることも、足を止めることも、できなかった。

 中途半端に終わった反逆の数々は、膨大な数の協力者を後に残した。

 淡々と捜査が進み、関与の程度に応じて淡々と処罰が進む。様々な書類も積み重なり、王が夜遅くまで仕事をすることも増えた。

「お疲れですかな。」深夜の執務室に労いに訪れたのは、二十年来の腹心ともいえる忠臣だった。ディオニスは小さく笑った。

「そうだな。しかし私にはまだまだやらねばならぬことがある。」

「王よ、楽にして差し上げようか。」アレキスが指を鳴らすと、息を潜めていた完全武装の兵士が十数人、執務室に雪崩れ込んできた。そして迷うことなくアレキスを床に押し倒して締めあげた。思わずアレキスは叫んだ。

「何をしている。違うぞ私ではないぞ。おまえたちが捕らえるべきはそこの暴君だ。」そこまで言ってしまってから、奸臣は自分の間違いに気が付いた。兵士たちの顔を見渡して驚愕する。「おまえたちは誰だ。私の兵はどうなった。」

 兵士たちは何も言わなかった。王はひどくくたびれた顔で裏切り者を見下ろした。

「疑うのが正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。いつも通りの政務なら、いつも通りの調査なら、アレキス、すべておまえの手を通してわしに届いていただろう。けれど、ふと気になって、おまえにも内密に、おまえも知らぬ者たちを並行して動かしていたのだ。おまえが握りつぶした証拠も、おまえが破り捨てた手紙も、彼らが見つけてくれたのだ。妹婿も、世嗣も、妹も、妻も、すべておまえがこっそりと会い、色々と吹き込んでいたことは分かっている。」

 アレキスはむかしディオニスがその才を見出し、低い身分から引き上げてやった男だった。長年苦楽を共にした相手だった。賢臣と呼ばれ、またそう呼ばれるに足る貢献を重ねてきた男だった。

「言い逃れも弁解も聞かぬ。もはや何もかも覆らぬ。おまえは明日にも民衆の前ではりつけになる運命だ。だがまだ分からぬことがある。おまえほどの男が、なぜこんなことをした。」

「おまえの下に居たのでは、おまえの上には行けぬのだ。最初からそのつもりで仕えていたのだ。」

 王も初めて見る、下卑た笑みを浮かべて、男は吐き捨てた。「ああ口惜しい。あと少しだったのに。あいつらの誰かひとりでも、おまえを殺すことが出来ていたなら、今頃そいつも俺が殺して、この国は俺のものになっていただろう。」

 王は憐れむような目でかつての忠臣を見た。アレキスはなおも言った。

「誰にも認められぬ賢王よ、人の心なき、無慈悲なる支配の権化よ。おまえこそ何を望むのだ。全てを失ってなお、なぜこうまで足掻くのだ。」

「わしが望むのはただひとつ。平和だけだ。」

 アレキスは弾けるように笑い出した。息も絶え絶えになりながら、笑い続けた。王はもはや語る言葉もないとばかりに、身振りだけで兵たちに引きたてさせた。

 王が告げた通り、翌日、市民の見守る中でアレキスの処刑が行われた。十字架の上で、長く長く苦しんでの死だった。しかし最後の一息を吐くその時まで、賢臣と呼ばれた男は笑い続けていた。市民たちはさぞかし凄惨な拷問を受けて狂ったのだろうとおののいた。


 ほんの一年も経たぬ間に、激動が駆け抜けた。王は一気に老け込んだ。

 それでもまだ倒れる訳にはいかぬ。急ぎ遠縁の子供を迎えて後継者に定めたが、まだ若く、何も教えることが出来ていない。後を継がせるにはまだ時が要る。最低でもあと十年は、妻も、子も、妹も、友も、甥っ子も、腹心の部下も失った孤独な身で、この玉座を守り抜かねばならぬ。

 それが叶わなければ、この国は千々に乱れた内乱の果てに、他国の侵略を許し、歴史から地図から消滅することだろう。下々の民は殺され、あるいは奴隷と化すだろう。そういう時代であった。

 歴史に暴君として名を遺すことになろうとも、それだけは避けなければならなかった。迂闊に死ぬことすら、もはや出来なかった。

 王は謀反の徒を粛清し続けた。残党の検挙を続けた。国を守るためにも、甘い顔を見せる訳には行かなかった。

 内乱に乗じて蜂起する計画を立てていた有力者の一族に、人質を出せば許してやると持ち掛けたこともあった。それは他国からの視線も考えれば、最大限の譲歩であり慈悲だった。しかし、なればこそ、拒まれればみなごろしにするほかなかった。

 未だにアレキスを賢臣だったと信じて慕う、何も知らない市民たちもいて、これらに対する対処にも悩まされた。

 屍の山だけが積まれ続けた。市の賑わいが失われていくのに気づきつつも、打てる手などなかった。


 王にはもはや人の心が分からぬ。

 もはや信じることもできぬ。人の心はあてにならぬ。

 だが人一倍、貴き者の責務ノブレス・オブリージュに敏感だった。


 ある夜、一人の兵士が王の執務室に慌ててやってきた。

「夜分に失礼致します。暗殺者を捕らえました。いかが致しましょう。」

「暗殺者、だと? 反乱軍の残党か? それともアレキス派の連中か?」

「いずれでもありませぬ。本人の弁によると、片田舎の村に住む牧人だということです。このシラクスの市にいる知り合いは石工がひとりきり。他国との縁もなく、背後関係はなさそうです。」

「なんだそれは。本当に暗殺者か。」王は首を捻った。

「大荷物と共に、懐中に短刀が一本、ありました。」

「大荷物とな。」

「身なりには似合わぬ豪勢な食材に酒。女物の綺麗な新しい服。田舎の庶民であれば結婚式でも挙げられそうな品々でした。それでどう致しましょう。身ぐるみ取り上げて牢にでも放り込みましょうか。それとも処刑してしまいましょうか。」

 王は、らしくもなく興味を持った。何か微かな予感のようなものがあった。手元の書類を置いて立ち上がり、そして言った。

「わしが直々に話を聞こう。連れてまいれ。そうだ、そやつの名はなんという。」

 兵は答えた。

「メロス、と名乗っております。」


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