四十九 忌み名

 ——―げぇええぁああああああああっ!


「ひっ……!」

 悍ましい叫び声が、川津屋敷に、朽無村に、ビリビリと響き渡った。

 六年前の夜、お社の中から響いた――得体の知れない化け物が怒りに震えながら、顎が外れんばかりに大口を開け、そこから喰らった者の血を滴らせながら轟かせたかのような、そんな見たことがないはずの恐ろしい光景を幻視させられる、今まで聴いたことがない種類の、汁っぽく濁った、不協和音の絶叫。

 いや、得体の知れない化け物ではない。幻視させられもしない。

 もう、その正体は分かっているのだから。目の前にいるのだから。

 これは――シラカダ様の声。

 絶叫が終わると、義則さんはガクンッと俯いた。面紐など無いというのに、なぜか白蛇の面は落下せず、顔に張り付いたままになっていた。

 と、突然、義則さんはぐにゃりと首を捻じるようにして、後ろを――村の人たちの方を見遣った。

 誰もが、ヒッと喉を鳴らして身じろいだ――かと思うと、目を見張ったまま、微動だにしなくなった。小さく震えてはいるが、まるで、呼吸すらしていないのではないかと思うほど。

 まさか――と、その時、義則さんの身体に異変が起きていることに気が付いた。

 こちらに向けられている後頭部の髪が、みるみる伸びていく。それだけではなく、根本の方から、じわじわと白く染まっていき――あっという間に、黒い短髪だった髪型が、真っ白い、腰ほどまでもある長髪へと変貌を遂げた。

 あれが、この朽無村で、年に一度、逢魔が時を契機に、男の身体を依り代にして、この世に顕現する悪霊——シラカダ様の姿なのか……!

「ぐっ、ぐぶっ……」

 突然、妙子さんが口から泡を吹いた。と思うと、他の人たちも次々に口から泡を吹き、立ったままガクガクと震え始める。

「クソッ!」

 鳳崎が足を引きずりながら、義則さんへ近付こうとした瞬間、


 ——―げぇえあああっ!


 グルンッ!と、首を不自然にくねらせて、義則さんがこちらを向いた。

 白蛇の面——まるで、蛇が睨んでいる顔を模したような面の、縦に入った細長い切れ目のような覗き穴から、目が覗いていた。

 それは、カッと大きく見開かれ、黒目が白く濁った、凄まじい殺気をぬらぬらと放つ、だというのに生気というものが微塵も感じられない、悍ましい目だった。

「ひっ……ぐっ……!」

 それに射抜かれた瞬間、未経験の感覚が全身を襲った。

 喉を強く締め上げられたような、心臓を直接握りしめられたような、太い縄でぐるぐると身体中を縛り上げられたような――息が、できない。動けない。指の一本も、動かすことが―――、

「真由美っ!見るなっ!」

 鳳崎が身をかがめ、視線を遮るように間に立った。途端に、ひゅうっと喉が動き、息を吸い込めるようになる。

「うっ、ぐっ……はあっ、はあっ……!」

 身体中が、ガクガクと震えていた。ついさっきまで、支配されていた身体が。

 あれが、シラカダ様の力……!

 目を見つめただけで、あんなにも悍ましく、恐ろしい―――。

「俺のサングラス、まだ持ってるかっ」

「う、うんっ」

「掛けてろっ。でも、なるべく見るなっ!」

 言われた通りに、ポケットから鳳崎のサングラスを取り出し、掛けた。怖々と、目線を下げたまま、辺りを窺う。

 薄暗くなった視界の中、義巳さんが泡を吹いて辰巳の亡骸に折り重なるように倒れている。いつの間にか、村の人たちも倒れていて、地面によたよたと這いつくばっている。

 まともに立ち上がっているのは、鳳崎と―――、

「ゆ、優一くんっ……!」

 やや離れたところにいた優一くんは、やはり動けないでいるのか、その場に立ち尽くしていた。が、その顔は、まったく苦し気ではなかった。

 口を微かに開き、目を見張り――幽鬼そのもののような表情になっている。

 六年前に、自分の大切な家族を奪った悪霊を前にして。

「クソがっ……」

 鳳崎が、ゆっくりと立ち上がり、前に向き直った。あの白い目に睨まれても平気なのか、平然と――だが、苦しそうに、柄シャツの袖を捲っている。

 恐る恐る視線を上げ、義則さん――シラカダ様の方を窺った。シラカダ様は、しげしげと手に握っている拳銃を見つめていた。首をぐねぐねと捻りながら、これは何だと、物珍しそうに。

 恐らく、義則さんの身体は、完全にシラカダ様の支配下にあるのだろう。悪霊に魅入られ、つけ込まれ、肉体を、精神を、乗っ取られているのだ。

 だが、話に聞いた通り、あの白蛇の面を外すことができれば――と、その時、シラカダ様が、ぐにゃりと顔をこちらに向けた。

「ひあっ……!」

 あの悍ましい視線を向けられ、ビクッと身体が跳ねる。が、サングラスの力なのか、さっきと違い、ガタガタと震えこそすれ、どうにか動けるようになっていた。

「チッ……!」

 鳳崎が、撃たれた足を庇いながら身構える。瞬間、シラカダ様は、ゆっくりと首を傾げた。

 見てはいけないと分かっていながらも、その面の向こうの白い目を窺うと――それには明らかに、憎悪が宿っていた。

 顔が覆われているというのに、覗いている目だけで感情が伝わってくる。


 ―――なぜ、お前たちは動いている。なぜ、自分の前に屈しない。なぜ、倒れない。なぜ、死なない。


 シラカダ様が、ゆらりと近付いてきた。手には拳銃を持っていたが、こちらに向けて構えず、背中を曲げ、首を、肩を、腕を、人間離れした不気味な動きで、グネグネと蠢かせながら。

 それは、人が歩いてくるというよりは、蛇がぬらぬらと這い寄ってくる様を連想させた。

「クソがあっ!」

 鳳崎が、足を引きずりながら迎え撃った。刺青だらけの腕を振り上げ、勢いよく殴り掛かる――が、あっという間にぐねりとした奇怪な動きで絡めとられたかと思うと、腹に膝蹴りを入れられた。

「がっ……」

 そのまま、身を丸めた鳳崎の頭に、拳銃が振り下ろされた。前のめりに倒れかけたところを、髪を掴まれて無理矢理持ち上げられ、腹に拳を入れられる。何度も、何度も、何度も、何度も。その末に、負傷している太腿を横から勢いよく蹴り上げられ、鳳崎の身体はこちらへ吹き飛んできた。私と、倒れている辰巳と義巳さんの間を通り過ぎ、ズザザッ!と転がっていく。

「ぐああああっ……!」

「鳳崎さんっ!」

 へたり込んだまま、倒れた鳳崎の下へ駆け寄る。長髪が荒れ、額から血が流れ、縛っていた太腿の傷からも、また血が滲んでいた。よろよろと身体を起こしたが、息をするのもままならないのか、「ぐうっ……」と、呻いて、くずおれてしまう。

「真由美……逃げろっ……」

「で、でもっ……」

 シラカダ様が、ぬらぬらと身体を蠢かせながら、ゆっくりと迫って来ていた。その手には、拳銃。手前には、倒れている辰巳と義巳さん。向こうには、へたり込む村の人たち。

 ―――為す術がない。

 怖い

 怖いっ、

 怖いっ……。

 でも――逃げる?また、あの時のように?六年前のように?

「ううっ……」

 それしか、ないのか。

 私は、また、シラカダ様から、逃げるのか?

 怯えることしか、できないのか?

 怒りも、悲しみも、恐怖も、何もかも受け入れて、戦うと誓ったのに。

 私は―――、


 ——―ザリッ……


 不意に、砂利を踏みしめる足音と共に、目の前の地面に影が差した。

 顔を上げると、

「……鳳崎さん」

 優一くんがいた。例の安全圏を守りつつ、ギリギリまで近付いて、私たちを見下ろしている。

 そんな、まさか、動けないはずなのでは―――。

「やめろっ……」

 鳳崎が、必死に声を絞り出しながら、

「それだけはっ……やめろっ……!」

 と、手を伸ばした。が、長いようで短いような沈黙の後、優一くんは、意を決したように、

「……ごめんなさい」

 とだけ、力なく呟いた。そして、私を、どこか悲し気に一瞥した後、目を瞑って、シラカダ様の方へ向き直った。

「やめろっ!優一っ!」

 鳳崎に呼ばれても、優一くんは振り返らなかった。私は、何が起きているのか、まったく分からず、呆然と優一くんの背中を見つめて――いや。

 私は、何が起きるか分かったような気がした。

 ついさっき、私を一瞥した優一くんの、恐ろしいほど澄み切った黒い目には――あの、妖しい危うさを感じさせる、冥い意志がまた宿って―――。

「ゆっ、優一くんっ!」

 慌てて呼んだが、優一くんは、やはり振り返らなかった。

 その向こうには、シラカダ様が立ちはだかっている。その、面の向こうの目は、やはり憎悪と怒りに満ちていた。自分の支配に応じない、優一くんに対して。

 だが――その眼力に負けないほど、優一くんの背中は、物語っていた。

 幽鬼めいた、妖しく、危うい、覚悟を。

 ―――沈黙が、訪れる。

 微かに聴こえるのは、砂利が鳴る音と、人の呻き声と、どこか遠くで鳴いているヒグラシの声。

 怪異の力が強まるという逢魔が時の、薄暗く白み始めた空気が漂う中、夜の気配が長い影となって滲み始める中、怪異に取り憑かれた者同士が、対峙していた。シラカダ様と、シラカダ様に……え?

 違う。

 おかしい。

 この状況は、おかしい。

 だって、


 シラカダ様は、優一くんに取り憑いているはずではないのか。


 六年前の、あの夜から、ずっと――いや、違う。

 思い返してみれば、それも、おかしい。

 鳳崎は、こう言っていた。


「——―酷く衰弱してる上に、ほとんど半狂乱の状態になってるガキが運び込まれてきた。よく見ると、悪霊の穢れが染み付いてて、そのせいでヤバい状況に陥ってるってことが分かったから、医者に事情を説明して、急遽祓いを行って、難なく成功したが―――」


 ……そう。悪霊に取り憑かれた、という言い方はしなかった。穢れが染み付いていた、としか言っていなかった。

 それは、子供に対して強く及ぶという、シラカダ様の穢れ。シラカダ様は弱体化していたが、当時、優一くんは、まだ子供だったから、危険な状況に陥って。

 だが――それは、難なく祓われたという。

 つまり……。

 六年前、シラカダ様は、優一くんに取り憑いてなどいなかった?

 でも――シラカダ様は、お社にいなかったではないか。御神体として祀られていた、あの白蛇の面を前にしても、サングラス越しに何も視えなかったし、鳳崎から託されていた、怪異を感知する霊虫も無反応だったではないか。

 それは、シラカダ様が優一くんに取り憑いていたからなのでは―――、


「中に入ったところで、死にはしねえ。っつうより、何も危険はねえが、あそこには――」


 鳳崎も、そう言っていて―――、


「——―まあ、復活するのは年に一回。それも、怪異の力が強まる夕刻——逢魔が時から晩にかけての間だけな上、面を着けた依り代を介さないと、まともに顕現することもできない―――言ってみりゃあ、力を得ても、その程度のケチな悪霊に過ぎなかったってことだ―――」


 ……年に一回?夕方?

 あの時は、まだ昼間だったから、シラカダ様は、復活していなかった?

 禁忌とされるほどのモノが、〝その程度〟のケチな悪霊?

 あれは、私と鳳崎の感覚の齟齬によるものではなかった?

 禁忌——とんでもなく、ヤバいモノ。世間に広められない、名前も、特徴も、何もかも、口にすること自体が……。

 口にする?


「言うなっ!」


「……分かってるよ。言ったら、どうなるのかは」


「いいか、絶対に口走るなよ。忌み名の方も、あだ名の方もだ」


「シラカダ様に、操られているだけなのかも」


「大した悪霊じゃねえからな。手間はいるが、俺にできねえことじゃねえ」


 鳳崎と優一くんの言葉が、交互に蘇る。

 忌み名、あだ名の疑問はともかく、優一くんは〝シラカダ様〟と口にしていた。

 鳳崎は、シラカダ様のことを大した悪霊ではないと、自分にも祓える存在だと言い切っていた。


「……何言ってんだ、お前?勘違いすんなよ」


 勘違い?

 何かが、脳裏に引っ掛かっている。

 シラカダ様……シラカダ様……。

 この村に巣食う、色素欠乏症の人間の悪しき魂が元となった悪霊。

 頭沢で優一くんと再会した時、私はその片鱗を垣間見た。

 優一くんを愛おしそうに抱きしめる、不気味なほど白く、細く、艶めかしい二人分の腕と、背後に浮かぶ無数の視線——二人分の?無数の?

 ……あれは、シラカダ様ではなかった?

 それが、勘違い?

 いつから?

 ……最初から?


「あいつが、とんでもなくヤバいモノに魅入られてる可能性があるんだ!」


「無理もねえ。魅入られてるどころじゃなくて、取り憑かれてんだからな。感情なんか、表に出せるはずがねえ」


「言っただろうが。とんでもなくヤバいモノだ。その中に封じ込めてたが……クソッ……もう、手遅れかもしれねえ」


 ……そうだ。

 

 それは、そのモノが、禁忌とされるほど、危険な存在だからで。

 シラカダ様は……違う?

 今、まさに、シラカダ様は、義則さんに取り憑いている。

 じゃあ……。

 優一くんが持っていた、それが開いたと分かった瞬間に鳳崎が驚くほど狼狽えていた、あの巨大な竹筒に封じ込められていたのは?

 優一くんに取り憑いている存在とは、一体——―、

「優一っ!よせっ!それだけはやめろっ!どうなるか分かってんのかっ!」

 鳳崎が、鬼気迫った様子で叫び、我に返る。

 嵐の前の静けさのような、不気味なほどヒリついた沈黙が場を支配する中、


「…………


 ―――優一くんが、その忌み名を口にした。

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