五十 オウマガ
キン――と、空気が張り詰めた。
元より緊迫していた空気が、より一層——と、その瞬間、全身に、氷点下の冷気を浴びせられたような感覚が伝った。
まるで、大気そのものが氷のようになったかのような、
——―パキンッ
という音と共に、突如として、薄暗かった視界が色彩を取り戻す。
慌てて下を見ると、掛けていたはずのサングラスが、真っ二つに割れて落ちていた。
一体何が―――、
「ぐっ……」
突然、優一くんが呻き、背中を丸めた。力んでいるかのように、痛みに耐えているかのように、ぶるぶると震え出して、
「……え?」
優一くんの背中、着ている白いシャツの、肩甲骨の辺りが、不自然に盛り上がっていた。まるで、何かが内側から押しているかのように。
その隆起は、ゆっくりと大きくなり、シャツの生地がメリメリと軋みながら突っ張っていって――ついに、ビリッと縦に裂けた。
「……っ!?」
そこから現れたものに、目が釘付けになった。
不気味なほど白く、細い腕が、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……。まるで、花弁が開くかのように、ゆらりと伸びていた。
その四本の腕は、やけに艶めかしい動きで、それぞれ、優一くんの肩と、脇腹の辺りを掴んだ。
あれは、頭沢で見たのと同じ―――。
何が起きているのか分からず、息を呑んでいると、優一くんの背中、縦に裂けたシャツが、また盛り上がった。
―――何かが、出てこようとしている?
メリメリ……と、シャツがさらに縦に裂けていく。より大きなものが、優一くんの背中から生えるかのように、ずるずると出でて。
初めに現れたのは、茶色——というよりも、鮮やかな赤褐色をした何かだった。それが、衣服を纏った人の背中だと理解できたのは、先に現れていた二対の腕が、肩の部分——赤褐色の袖口に集約されていたことと、上から長い黒髪を伴った頭が、ずるっ……と、現れたからだった。
呆然と、だが、息を呑みながら見入っていると、とうとう下半身までもが出で始め、白いシャツが真っ二つに裂け、はらはらと抜け殻のように除けられ――それは、身をのけぞらせながら、飛び立つようにして、完全に姿を現した。
——―女の人……?
そう。確かに、それは人間だった。
だが、明らかに、命あるものではなかった。
全体が鮮やかな赤褐色で、腰から下が染め抜かれたかのように黒褐色の、ボロボロの着物を纏った、小柄で細身の身体をした女。よく見ると、その着物の腰から下は、ジトジトと血が滲んでいるから黒褐色に染まっているのだと分かった。撒いている擦り切れた帯も黒いせいか、その二色のコントラストは、酷く不気味な妖艶さを表していた。
帯だけではなく、裾もズタズタに擦り切れていて、袖口に至っては、破かれたかのように、二の腕の辺りまでしかなかった。そこから、不気味なほど白く、細く、艶めかしい腕が、二本ずつ伸びている。
四本腕、としか言い様が無かった。他に例える言葉が見つからない。ひとつの身体に、二人分の腕が、四本の腕があるのだから。
そして、裾から覗く小さな、やはり不気味なほど白い裸足の足は、地に着いていなかった。女の身体は、のけぞるような姿勢で、まるで水中に漂っているかのように、ゆらゆらと宙に浮いていた。腰ほどまでもありそうな長い長い黒髪も、重力に逆らい、上向きに揺蕩っている。それは、振り乱すというよりは、それ自身が伸び動いているかのように映って……。
——―羽化だ。
その一連の光景は、羽化を連想させるものだった。
優一くんに取り憑いていた怪異なるモノが、内側から、繭を破るかのように出でて、
「はあっ……はあっ……」
優一くんが、肩で息をしながら、ぐったりと項垂れた。その拍子に、両肩に引っ掛かっていたシャツが、役目を終えたかのようにするすると地面に落ちた。下に何も着ていなかったのか、優一くんの華奢な半身が露わになる。
すると、ゆらゆらと漂っていた女が、ひらりと宙を舞ったかと思うと、優一くんの正面に回り、支えるかのように、介抱するかのように、抱きすくめた。
「……っ!?」
女は優一くんを、四本の腕を使って、首を、胴を、愛おしそうに抱きすくめていた。その顔が、肩越しにこちらを向いている。
それは、手足と同様、不気味なほど白い肌をしていたが――完全に、人のそれではなかった。
ゆらゆらと上に揺蕩いながらも、いくらか前に垂れた長い黒髪。その隙間から覗いていたのは、小さな顔に不釣り合いな、ぎょろりとした大きな目だった。が、それは全体が、まるで底が無い虚穴のように、真っ黒だった。白目も黒目も無く、ただひたすらに冥い闇が、何の感情も湛えていない深淵が、そこにあった。
薄い眉も、小ぶりな鼻も、緩く結ばれた口も、まともにあった。が、異様な目のせいか、その顔は、明らかにこの世のものとして映らなかった。
怪異、モノ、妖異、異形、魔物、化け物……。
しかし、それらに位置付けるには、アレは、あまりにも、恐ろしいほどに美しく、妖しく、艶めかしく、蠱惑的で―――、
「ひっ……!」
突如として、悍ましい感覚が、全身を支配した。
これは、頭沢で優一くんと再会した時に、近付いた時に、味わった感覚。
目を背けなければならないと、見てはならないと分かっていても、引き寄せられるかのように、惹き付けられるかのように、私はそれを見た。
優一くんを愛おしそうに抱きすくめている女の背後。そこに、凄まじい量の強烈な視線が浮かんでいた。
ギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロと、頭沢の時の比ではないほど無数の、憎悪を滲ませた悍ましい視線が。
それは、女の背後一帯の虚空に、ぞわぞわと群れていた。まるで、女が憎悪を滲ませた視線の軍勢を、従えているかのように。
「あ……ああっ……」
気が付くと、口から絶望が、声にならない声となって漏れていた。
身体が、動かない。シラカダ様に睨まれた時とは違う。その比ではない。あんなものではない。
絶対的な恐怖という概念に、肉体が、精神が、芯から蝕まれ、隷属させられている―――。
遠のく、というよりは、奪われそうになる意識の底で、私は頭沢でアレの片鱗を垣間見た時のことを思い出していた。
白く細く艶めかしい二対の腕に、無数の悍ましい視線。
それらを見て、感じて、私はこう考えていた。
アレは絶対に、個の存在ではないと。無数の、得体の知れない何かが寄り集まり、恐ろしい存在に成り果てているのではないかと。
だが、違っていた。ある意味、的を得てはいたが、根本から違っていた。
あれは絶対に、個の存在だ。無数の存在を内包してはいるが、ひとつの強固で絶対的な存在が、それらを束ね、隷属させているのだ。
それが、あの、赤褐色の着物を纏った、四本の腕を持つ、髪の長い女。
女は無表情に、こちらを見つめていた。しかし、それは人の――例えば、優一くんの無表情とは、確実に違う種類のものだった。
その顔には、大きく異様な目には、何の感情も宿っていなかったのだ。
どれだけ窺おうとも、何も汲み取ることができなかった。背後に従えている憎悪を含んだ視線の群れと違い、その目はただただ、冥い闇のような虚無を湛えていた。まるで、そういったものを持たないという昆虫のような――いや、命あるものとは決して相容れない、霊感による知覚など微塵も関係が無い領域にいる、まったく別次元の計り知れない存在であるかのようだった。
……なのに。
なぜだ、なぜなのだ。
なぜ、私は今、そんな存在に、惹き付けられているのだ……!
怖い。
恐ろしい。
悍ましい。
なのに、目が離せない。
見たくないのに、見てしまう。
引き寄せられてしまう。
惹き付けられてしまう。
それがまた、怖くて、恐ろしくて、悍ましい。
アレは、何なのだ。
人じゃない。
人の形をしてはいるが、人であるはずがない。
アレが、あんなモノが、あんな理解が及ばないモノが、あんなこの世の理から外れた領域にいるモノが―――、
——―げぇあああっ!
響き渡ったのは、別の怪異なる存在——シラカダ様の声だった。
それに呼応するかのように、女がひらりと舞うように動き、また優一くんの背中に回った。宙に浮き、優一くんを後ろから、四本の腕で愛おしそうに抱きすくめる。瞬間、無数の悍ましい視線の気配が消えて、
「はっ……はあっ……はあっ……!」
ようやく心と身体が、隷属せざるを得なかった絶対的恐怖から解放される。
「がはっ……!」
横で咳き込む声がして、そちらを向くと、鳳崎がよろよろと上体を起こしていた。かと思うと、
「げ、げえっ……」
と、血の混じった胃液を吐いた。ひゅうひゅうと息を荒げながら、顔を苦痛に歪めている。
「……っ!」
それを見て、私は自分の置かれている状況を、否が応でも理解させられた。
さっき、シラカダ様による暴力に蹂躙された時でさえ、鳳崎はあんな表情をしていなかった。どれだけ傷だらけの痛々しい面をしていようと、不利な状況にあろうと、その猛禽類のような鋭い目には、揺るぎない闘志とでも言うべき覇気がギラギラと宿っていたのだ。
だが、今の鳳崎からは、完全にそれが消え失せていた。いつも飄々として、鉄面皮を保ち、鋼のように動じていなかったはずの鳳崎が、これから殺されるのを待つ手負いの獣のように、追い詰められている。
それが意味するものは、アレが、あの女が―――、
「ぐうっ……がっ……!」
突然、鳳崎の身体がビクンッと跳ねた。背中を丸め、地面を掻き毟るようにして砂利を握りしめながら、必死に痛みに耐えるかのように、ブルブルと震え始める。
「ほ、鳳崎さんっ……!」
「がああっ……!」
こめかみに青筋を浮かばせながら、鳳崎が唸った。かと思うと、震える腕でポケットに手を突っ込み、あの香水を取り出すと、自分の鼻に押し当てて噴射し、思いきり吸い込んだ。まるで、水中で酸素を欲しているかのように。
それを繰り返した末、
「げほっ……ぐっ……」
鳳崎の呼吸が、不規則にだが、段々と落ち着き始める。
「な、何が――」
「真由美っ!タオルを当てろっ!」
「えっ?」
「口と鼻に当てろっ!早くっ!」
言われるがままに、首に掛けていたタオルを押し当てた。布地に染み付いていた刺々しいミントの香りが、鼻から抜けて肺に満ちる。
「クソッ……クソッ……!」
鳳崎は、鬼気迫った様子で、私たちの周りに香水を撒き散らし始めた。
「鳳崎さんっ、一体何がっ――」
「いいか、絶対にタオルを離すなっ!」
「な、なんでっ」
「アレの穢れを吸い込んだら終わりだ!もう間に合わねえかもしれねえがっ……ともかく、息を深く吸い込むなっ!」
アレの穢れ?
吸い込む?
もう間に合わない?
どういうことだと疑問に思っていると、
「……え?」
手前にいたはずの辰巳と義巳さんが、いなくなっていることに気が付いた。
先程まで、折り重なるように倒れていた二人の姿が、消え失せている。だが、そこには、赤い染みの浮いた白い法被と、ヨレヨレの作業着が、何か、灰のようなものにまみれて落ちていて―――。
「いやああっ!」
村の人たちの方から甲高い悲鳴が上がり、そちらを見遣ると、女の人たちがよたよたと地面に這いつくばっていた。母は呆然と下を向いていて、妙子さんは地面に倒れていて、幸枝さんはガクガクと震えていて、文乃さんは白い法被を手に狼狽えている。
……男の人たちは?
父の姿が無い。同じように、地面にくずおれていたはずの、雅二さんや秀雄さんの姿も消え失せている。が、そこには、白い法被や、見覚えのある作業着が落ちていて、文乃さんの手にしている法被からは、煙のようなものがモワモワと漂っていて―――。
限りなく馬鹿げた、且つ恐ろしい想像が頭をよぎった時、
——―げぇああっ!
シラカダ様が、叫んだ。いつの間にか、優一くんと義則さんは、互いの間合いを取りつつ、じりじりと円を描くように移動していた。私たちの間に、怪異に取り憑かれた者同士が、横向きに対峙している。悍ましいモノとモノとが、睨み合っている。
が――両者には、決定的な違いがあった。
シラカダ様は、ぬらぬらと憎悪を放っていた。グネグネと蠢かせる身体から、振り乱す長い白髪から。そして何より、面の向こうに見える白い目から。自身の支配に応じない者に対して。
だが、あの女は、やはり何の感情も放っていなかった。四本の腕は愛おしそうに優一くんを抱いていたが、その無表情の顔は、冥い闇のような目は、虚無を表しているだけだった。
そして、それは優一くんも同様で、その顔には、目には、何の感情も―――、
——―げぇえええああああああああっ!
シラカダ様が、威嚇するかのように絶叫した。そのまま、不気味な動きで優一くんにぬらぬらと迫っていく。
あの悍ましい視線を向けながら、自身の支配に応じない者の命を、六年前に唯一取り逃がした者の命を、奪おうとして。
―――瞬間、優一くんに捕まっていた女の背中から、無数の悍ましい視線がブワッと湧き出るかのように現れた。それは、放射状に散らばったかと思うと、ぞわぞわと波打つように左右に分かれ、ひとつひとつがギョロギョロと規則的に蠢き――不気味なほど美しい超自然的幾何学模様を作り出した。
その様はまるで、翅を広げたかのようだった。憎悪を滲ませた無数の視線によって構成された、巨大な翅を。
その時、
「うっ……」
私は、目に視えない何かが、その翅からブワッと発せられるのを感じた。
風——ではない。だが、それに近い、臭気のような、冷気のような、気配のような、粒子のような―――。
「ぐうっ……」
横を見ると、鳳崎が柄シャツの襟で口と鼻を覆っていた。私がタオルでやっているように。まるで、何かを吸い込まないようにして――吸い込む?
何を?
アレの……穢れ?
「ほ、鳳崎さんっ……」
「喋るな!完全には防げねえっ……!」
「で、でもっ、優一くんがっ――」
「もう手遅れだっ!」
鳳崎が、苦痛を押し殺すように叫んだ。
「……え?」
慌てて、優一くんの方を見遣った。すると――ぬらぬらと迫っていたはずのシラカダ様が、いつの間にか動きを止めていた。身をかがめて、首をすくめ、何かを見上げている。
何か――それは、あの女の、巨大な視線の翅。
——―げっ、げぁああっ!げぇあああああっ!
シラカダ様が、また叫んだ。が、その汁っぽい声には、怯えの色が混じっていた。よく見ると、ぬらぬらと蠢かせていた身体がガクガクと震えていて、自ら動きを止めたのではないと分かった。
動きを、止められたのだ。あの女が翅から放つ、絶対的恐怖によって。
——―ザリッ……
ガクガクと震えながら、身を伏せることしかできずにいる中、優一くんが、一歩踏み出した。それに応えるかのように、女は抱きすくめていた四本の腕のひとつを、優一くんの右腕に艶めかしく絡ませた。手首を掴むと、操るかのように持ち上げ、力なく開いている右手を掲げさせる。
そのまま、ザリッ……ザリッ……と、優一くんはシラカダ様に迫っていった。
その身に、悍ましいモノを宿して。
「クソッ……!」
横で、鳳崎が呻いた。くぐもった声には、慟哭と、悔恨の念が滲んでいる。
「な、な、何が起きてるのっ!?アレはっ……アレは一体何なのっ!?」
目に視えない恐怖に煽られながら、必死にそれを堪えながら、訊いた。
すると、鳳崎は、絞り出すかのように、
「アレはっ……うちの寺で封印してた禁忌霊虫だっ……!」
―――禁忌。
その言葉が、脳裏にジリジリと焼き付く。
つまり、それが意味するものは、
「とっ、止めなきゃ――」
「無理だ!オウマガをっ……クブラバリのアラヒトガミを止められる奴なんかいねえっ!アレは現象の領域にいるモノだっ!現象に、人間の感情なんか通用しねえっ!依り代が耐えられなくなるまでっ――」
そこまで言うと、鳳崎はゲホゲホと激しく咳き込んだ。
まくしたてられた言葉の意味を理解する間もなく、またあの感覚が全身を襲い、「ひっ……」と、息が止まる。
恐る恐る前を向くと、女を宿した優一くんとシラカダ様が、互いに手を伸ばせば触れられるほどの至近距離で対峙していた。
シラカダ様は身を縮め、首をすくめ、震えながら、見上げている。
目の前の絶対的恐怖——禁忌の存在を。
それを身に宿した、優一くんを。
その白い目には最早、憎悪や怒りなどという感情は映っていなかった。代わりに映っていたのは、絶望と恐怖だった。
不意に、女がゆらりと視線の翅を震わせた。超自然的幾何学模様に象られた無数の目が、ギョロギョロとシラカダ様を射抜く。
——―げっ、げぁああっ!
それは最早、六年前に私を恐怖に陥れたモノの声ではなかった。
まるで、これから殺される小動物が上げるような、か弱いものの悲鳴だった。
それに一切構う様子もなく、女は視線の翅をはためかせた。無数の目がぞわぞわと蠢き、また波動のように、目に視えない穢れが襲ってくる。
それを必死に耐えていると、二人の向こうで、女の人たちがバタバタと倒れていくのが見えた。母が――だが、立ち上がるどころか、動くことすらままならなかった。
ただ、無力に、目の前の光景を、見つめることしか―――、
——―げぇええええええあああああああああああっ!
古来より朽無村を支配していた悪霊が、凄まじい断末魔の叫びを自身の領地に響かせた。視線の翅がはためく度に、無数の目で構成された超自然的幾何学模様が、禍々しい悪夢を閉じ込めた万華鏡の内部のように、妖しく、悍ましく、艶めかしく、蠕動する。高次元の存在が、小さな蝋燭の火を吐息で弄ぶかのように、目の前の下等で脆弱な怪異なるモノを、吞み込もうとしている。
そんな中、優一くんが、女に操られるようにして掲げていた右手を、ゆっくりとシラカダ様の顔面に向かって伸ばした。瞬間、
——―バキンッ!
と、白蛇の面が、粉々に割れて落ちた。
覆われていた義則さんの顔が露わになり、振り乱していた長い白髪が、霧のように溶けて消え失せる。眼も、元通りの黒さを取り戻していたが―――、
「うあああああああああああああっ!」
そこから、絶望と恐怖の色は消え失せていなかった。悲鳴を上げながら、尻もちをつくようにへたり込むと、ガタガタと震え、狼狽え始める。
何が起きたのかは、理解できていた。
その身に憑依していた、シラカダ様という存在が、消え失せたのだ。顕現の為の道具を、復活の足掛かりにしていた呪物を、自身の顔を砕かれたことにより。
そして、その行く末は、恐らく——―、
「うっ、うあっ、うああああっ!」
突然、取り残された依り代——義則さんが、泡を吹きながら悲鳴を上げたかと思うと、右腕を突き出した。
その震える手には、ずっと握られたままだった拳銃が―――、
——―パァンッ!
あの渇いた轟音が響き渡る。続けて、何度も、何度も、絶え間なく。
だが、どれだけ胸を凶弾に貫かれようとも、優一くんの華奢な身体は――その後ろにいる女も——微動だにしていなかった。傷口から血が噴き出しても、怯むこともなく、苦痛に悶えることもなく、虚無の表情を保ち続けながら、義則さんを見つめている。
まるで、痛みという感覚など、持ち合わせていないかのように。
生という概念から、命あるものの領域から、逸脱しているかのように。
やがて、拳銃はカチンッ、カチンッ、と軽い音を響かせるだけになった。それでもなお、義則さんは「あっ……ああっ……」と、震える手で引き金を引き続けていた。
そんな渇いた静寂の中、
「……っ」
優一くんが、掲げていた右手を、さらに義則さんへと近付けた。瞬間、手首に添えられていた女の指が、優一くんの指に艶めかしく絡んだかと思うと、視線の翅が、またギョロギョロと妖しく、悍ましく、艶めかしく、蠕動を始めた。
「がっ……」
憎悪の視線の群れに囲まれ、義則さんは窒息したかのように顔を強張らせた。絶対的恐怖を前にして、逃げることも、動くことも、悲鳴を上げることすらできないようだった。
さながら、自身が命を奪ってきた者たちのように―――。
そして、その絶望と恐怖に歪んだ顔を、優一くんが、伸ばした手で――女の手が艶めかしく重なり合った指先で、すらりと撫ぜるように触れた瞬間、
「ぁ……」
義則さんの身体から、急速に血の気が、生の色が失われていき――顔面から、下へ伝うかのように、もろもろと崩れ始めた。頭が、首が、燃え尽きていく線香のように崩壊していく。まさしく灰になったそれらが、下に落ちては舞い散り、持ち主を失った拳銃がガチャンと地面に落ち、中身を失くした衣服がヘナヘナとくずおれて――あっという間に、一人の人間が小さな灰の山と化した。
あれが、禁忌級の怪異の為せる業なのか……!
「ぐうっ……」
突然、優一くんが苦し気に呻いたかと思うと、ぐったりと下を向き――血を吐いた。すると、絡みついていた女が、ゆらりと首だけをこちらに向けた。
「ひっ……!」
視線の翅が、ギョロギョロと妖しく、悍ましく、艶めかしく、蠕動している。その群れの中に――見覚えのある、白い目があった。
やはり、取り込まれて――だが、それよりも恐ろしかったのは、それを従えている女の、冥い闇のような虚無を湛えた目だった。
ヨナグニサマ。
優一くんは、そう言ってあの女を顕現させた。
オウマガ。
クブラバリのアラヒトガミ。
鳳崎は、女のことをそう呼んでいた。
それらが何を意味する言葉なのかは分からないが――まさか、アレが、あんな恐ろしいモノが、神だとでもいうのか。
女は、じっとこちらを見つめている。意志の通じない、感情を宿していない、何も汲み取ることができない顔で。
「ひっ……ぐっ……」
ああ、きっと、今度は私たちが――と、その時、
「ぐううっ……!」
優一くんが、また苦し気に、だが、何か明確な意思を感じさせる声で呻いた。
瞬間、女は僅かに首を傾げた後、不意にざわざわと視線の翅を虚空へ雲散霧消させた。そのまま、優一くんをまた抱きすくめたかと思うと、その華奢な身体の中へ、スウウッ……と、沈み込んでいく。
まるで、元いた場所に潜り込むかのように、宿り主に回帰するかのように。
最後に、ゆらめきながら放射状に伸びていた長い黒髪がしゅるしゅると背中へ溶け込んでいったかと思うと――優一くんは「はあっ……」と息を吐き、ぐらりと後ろへ倒れ込んだ。
「ゆっ、優一くんっ!」
いつの間にか動けるようになっていた身体を逸らせ、優一くんの下へ駆け出す。
「お、オイッ!よせっ!」
鳳崎の声が背中越しに聴こえたが、構わなかった。口と鼻にタオルを当てるのも忘れて、私は優一くんの傍らに着いた。優一くんは目を閉じ、眠っているかのように倒れている。撃たれた胸と肩は血だらけで、口からも血の筋が垂れている。
「ゆ、優一くんっ!優一くんっ!」
必死に呼びかけたが、優一くんは目を開かなかった。
「優一くんっ……!」
慌てて、抱き起こすように肩を抱えた。が、再会して初めて触れたその華奢な身体は、やけに軽く、氷のように冷たく、酷く空虚な手触りをしていて、まるでそこに存在していないかのようで―――。
「いやっ……いやあっ……!」
そんな、そんなっ、嫌だ、嫌だっ。
辰巳の時のように、また目の前で、手に触れた先で、ひとつの命が、失われて―――。
そんなの、嫌だ……!
視界が滲み、目から涙が零れ落ちそうになった――瞬間だった。
優一くんの目が、ゆっくりと開いた。
「ゆっ……優一くんっ……」
涙声で呼ぶ。
私の傍に、ずっといてほしかった人の名を。
心の奥底で、ずっと想っていた人の名を。
優一くんは―――、
―――ごめんね。
それは、声ではなかった。
だが、優一くんの目は、確かに、そう言っていた。
澄んだ瞳の中に、私を映して―――。
突然、優一くんの身体が、サラサラと崩れ始めた。白い肌から、きめ細やかな砂が零れ落ちていくかのように、灰になっていく。
「い、いやっ……ダメッ……いかないでっ……!」
呼び止める声も虚しく、優一くんの身体は、静かに、そして緩やかに――すべて、灰と化した。
手の中に虚しく残ったそれらが、指の隙間からサラサラと地面に零れ落ちていく。
「いやあっ……!」
優一くんという存在が、完全に消失し、後には、一山の灰と、衣服と、靴と、灰にまみれた何か――心臓の形に似た、小さな茶色い塊が残っていた。
「いやあああああああああああああああっ!」
私の泣き叫ぶ声が、静寂に包まれた朽無村に、夜の気配を漂わせる夕暮れの空に、響き渡った。
その場にへたり込んだまま、私は子供のように、声を上げて泣いた。
怒号を飛ばす鳳崎から引きずられるようにしてその場から引き離されても、いつの間にか降り出した強い雨に打たれても、陽が完全に暮れて夜が訪れても、声が枯れても、私は絶えず、ずっと、ずっと、泣き続けていた―――——。
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