三十二 垣間見る
「えっ?」
慌てて頬に触れると、私はいつの間にか、涙を流していた。
「……顔、汚れてる。腕も、服も……何があったの?」
続けて、そう訊かれた瞬間、
「そっ、それはっ、こっちの台詞だよっ!何があったの?六年前、急にいなくなったと思ったら、今になって、それっぽい人影を見かけてっ……変な人が来て知らないかって訊いてきたから、もしかしたらと思って家に行ってみたら、怖い目に遭うしっ、なぜかその変な人がいるしっ……その人と一緒に色々調べてたら、村のみんなが酷い人たちだったって分かってっ……逃げ出して泣いてたら、ここにいるしっ……!」
堰き止めていた思いが、言葉となって、涙となって、激流のように溢れた。とても、抑えられるものではなかった。私ひとりで、受け止められるものでもなかった。いや、受け止めたくなかった。誰か一緒に受け止めてほしかった。
ありとあらゆる疑問も、この恐怖も、悲しみも。
えぐえぐと嗚咽混じりに泣きながら、肩で息をしていると、
「……知ってるの?その……六年前、何があったのか」
やはり無表情で、優一くんが訊いてきた。
「……うん。知ったのは、ついさっきのことだけど」
「……そっか」
優一くんは、視線を落とした。悪いことをしたのは私たちの方なのに、まるで自分が悪いことをしてしまったかのように。
「ごっ、ごめんなさいっ……優一くんのお父さんもお母さんもっ……陽菜ちゃんまでっ……村の人たちがっ……」
状況のおかしさに気が付いて、慌てて謝った。
そうだ。本来ならば、泣きたいのは優一くんの方なのに。
こんな村に越してきたばっかりに、悍ましい因習に巻き込まれて、家族を殺されて。
私は、まだ奪われたわけではない。でも、優一くんは既に奪われているのだ。村の人たちによって、自分の平穏な人生を。
「ううっ……ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……」
泣きながら、謝り続けていると、
「……真由美ちゃんは、何も知らなかったんでしょう?」
「うっ……うんっ……」
「じゃあ、泣かないで」
「でっ、でもっ、だけどっ……」
「真由美ちゃんは、悪くないから」
そう言われた瞬間、また涙がどっと溢れてしまった。
優一くんは無表情のままだったし、本音ではないのかもしれなかったが、それでも、私を気遣ってくれたことが、許してくれたことが、嬉しかった。こんな悍ましく汚らわしい村の一員として、そう感じてはいけないと分かっていても、嬉しかった。
「ゆっ……優一くんっ……」
気が付くと、私は一歩踏み出していた。胸の奥が寂しく疼いていて、拠り所を欲していた。
そのまま、歩み寄って、優一くんに―――、
「待って」
突然、優一くんが呟いた。
「えっ?」
「それ以上、近付いたら――」
その瞬間、
——―キイインッ!
ポケットの中で、霊虫が突然、一際強く鳴いた。かと思うと、
「うっ……」
優一くんが苦し気に呻き、下を向いてぶるぶると震えだした。肩を強張らせて、拳を握り込んで――まるで、必死に痛みを耐えているかのように。
「ゆ、優一くん?どうし――」
「離れてっ……!」
振り絞るように優一くんが言ったが、
「で、でも――」
「早くっ……!」
そのあまりに鬼気迫った様子に、私は慌てて後ずさった。霊虫は、先程までとは比にならないほど強い鳴き声を発し続けていた。
「ぐうっ……」
とうとう、優一くんの膝が折れそうになった時、
——―キイイイイッ!
霊虫が、絶叫するかのように鳴いた。と思うと、それっきり、うんともすんとも言わなくなってしまった。
何が起きているのか分からず、おろおろと困惑していると、
「……え?」
目の前の光景に、不可解な点があることに気が付いた。
―――優一くんの左肩に、手が乗っている。
まるで、誰かが後ろにいるかのように――そんなはずはない。優一くんの背後には、誰もいないのだから。
不意に、その手がするりと、優一くんの胸元に伸びた。かと思うと、右肩の方から別の腕が現れて、優一くんの首を抱きすくめて――いや。
首だけではなかった。優一くんの脇の下からも、一対の腕が伸びている。それは、後ろから抱き着いているかのように、優一くんの胴に手を回していた。
その不可解な光景に、目が離せなかった。主が不在の、不気味なほど白く、細く、艶めかしい動きをする四本の、二人分の腕が、優一くんを抱きしめている。愛おしそうに。離さない、逃がさない、とでも言いたげに。
一体、何が起きて――と、その瞬間、
「ひっ……!」
身体から一気に力が抜け、へなへなと地面にくずおれてしまった。
―――見られている。
この世のものではない、悍ましいモノに。
優一くんの背後、肩の上辺りから、強烈な視線を感じた。ギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロギョロと、憎悪を滲ませた無数の視線を。
それは、目には視えなかった。そこにあるのは、あくまで虚空だった。だが、そこに無数の目が並んでいるのを、ひしひしと感じた。尋常ではない恐怖と共に。
その感覚は、霊感の有無など、まったく関係が無いように思えた。
私のような人間にすら知覚できるほどの、強大で異様な、この世の理から外れた存在。
それが今、私を見つめている。無数の視えない目から、一方的に憎悪を向けられている。
「あ……ああ……」
へたり込んだまま、ザリザリと後ずさりをしていると、
「ぐっ……」
優一くんが、ブルッと身を震わせた。途端に、無数の視線の気配が少しずつ消えていくのを感じ――優一くんを抱きしめていた腕たちが、するすると背後へ引っ込んでいった。
視界から異様なモノが消え失せたことにより、場にキリキリと張り詰めていた緊張の糸が切れた。恐怖によって麻痺していた感覚が元に戻り、水の音や竹のさざめきがまた耳に入って来たが――霊虫の鳴き声だけは、いつまで経っても聴こえなかった。
「はっ、はっ、はあっ……」
優一くんはしばらく、膝に手を突いて息を整えていたが、やがて、
「……ごめん」
と、無機質に呟いた。
「……い、今の……何?」
呆然としながら訊いたが、
「……なんでもないよ」
それだけ言うと、優一くんは伏し目がちに黙り込んでしまった。
……今のは、まさか。
私は、優一くんに取り憑いている、とんでもなくヤバいモノの片鱗を、垣間見たのだろうか?
だとしたら……一体、アレは――いや、アレらは、何だ?
二人分の腕に、無数の視線。今までに体感したことのない、強い憎悪。
とんでもなくヤバいモノ――シラカダ様は、一体どういう存在なのだ……。
鳳崎が言うには、シラカダ様は五穀豊穣の神ではないらしい。村の守り神と呼べる存在でもないらしい。はっきりとしているのはそれだけで、依然として何なのかは謎のままだ。
だが、ひとつだけ、確信した。
あれは絶対に、個の存在ではない。もっと無数の、得体の知れない何かが寄り集まって、ずっとずっと恐ろしく、悍ましい存在に成り果てているのではないか。でなければ、あれほどの憎悪を含んだ視線を―――。
「……真由美ちゃん、大丈夫?立てる?」
「う、うん……」
よろよろと立ち上がると、足元でコトンと軽い音がした。見遣ると、ポケットから零れ落ちたのか、竹筒が転がっていた。震える手でそれを拾い上げると、
——―パキン
「あっ……」
何の前触れもなく、竹筒が真っ二つに割れた。かと思うと、中からひとつまみほどの灰が溢れ、指の間をサラサラと零れ落ちていった。
……中にいた霊虫が、死んだ?
確かに、さっき、断末魔の叫びのような鳴き声を上げていたが、陽の光にも大気にも触れていないのに、なぜ―――。
わけも分からず、呆然としていると、
「……ごめん、僕に近付かないで。……抑えつけられないから」
優一くんが、また無機質に呟いた。
何を、とは怖くて訊けなかった。一定の距離——三メートルほど――を保ったまま、無言で頷く。
理屈は分からないが、従うしかなかった。あんな恐怖を味わうのは二度とごめんだったし、何より、優一くんを苦しめたくなかった。あんなにも辛そうに……え?
優一くんは、汗ひとつ掻いていなかった。さっきまでの苦悶が嘘のように、平然としている。不気味なくらいに、無表情で。
それだけではなかった。さっきまでと違い、優一くんは、纏っている雰囲気がどこか……冷たく艶めかしいものになっていた。
容姿は変わっていないのに、物憂げな目が、白い肌が、細い腕が、妙に妖しく、それでいて冷ややかで―――。
少しだけ、怖くなった。今、目の前にいる優一くんは、本当に優一くんなのだろうか?
もしかしたら、とっくに優一くんは、シラカダ様に―――。
「……真由美ちゃん」
不意に、優一くんが私を見据える。無意識に、こくりと喉が鳴った。
「その竹筒……さっき言ってた変な人って、もしかして……鳳崎さんって人じゃない?」
「え?う、うん」
「ああ、そっか。やっぱり……」
優一くんは変わらず無表情だったが、何かを納得した様子だった。そのまま、足元に置いていた黒いリュックを拾い上げて背負うと、
「えっと……その鳳崎さんって、今どこにいるか、分かる?」
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