三十一 再会

「はあっ、はあっ……」

 沢沿いに、雑木林の中を進む。村の反対側の斜面にあるゼンマイ道と違って、誰も通った跡のない鬱蒼とした未開の藪を、掻き分けるようにして。

 生い茂る草や蔦、低木の茂み、苔むした岩、ぬかるむ地面が、幾度となく行く手を阻んだ。服が汚れて、靴に水が滲み、あちこちを引っ掛けて剥き出しの手足は傷だらけになったが、それでも進むのを止めなかった。

 あのシダの葉が挟まった笹舟は―――。

 あれが意味するもの。それは、きっと、きっと。

「はあっ……」

 顔を上げる。目の前には、鬱蒼とした竹林の斜面。沢の方は岩だらけで足場が悪過ぎて、これ以上、沿うように登るのは無理だ。

 竹の幹を掴み、身体を引き上げた。隙間なく伸びている竹を取っ掛かりと足場にして、合間を縫うように斜面の方を登っていく。

 激しい運動に悲鳴を上げる身体を黙らせながら、息を切らしながら、必死に上っていると、やがて終わりが見えた。最後に、枯れた笹の葉が降り積もった柔らかい地面を這うようにして上ると――懐かしい道に辿り着いた。

 ここは、頭沢へと続く小道。

 紅葉原から直接ここに登って来たのは初めてのことだった。子供の頃にだって、こんな無謀な冒険はしたことがない。

 子供の頃——そうだ。ここに来るのは、いつぶりのことだろうか。中学に上がった途端に、外で遊ぶことをやめたので、小学生ぶりか。

「はっ、はっ……」

 どうにか息を整えると、泥や枯葉だらけの服を掃いながら、小道を進んだ。靴が水を吸っていて、ぐじゅぐじゅと気持ち悪かったが、構わずに歩いて行く。

 相変わらず、ここは薄暗くて、空気がひんやりとしている。竹林が、空を覆い隠しているせいだ。時折、ひらひらと笹の葉が舞い落ちてくる。あの頃と、何も変わらない光景。


 ——―キンッ、キンッ……


 突然、ポケットの中で霊虫が小さく鳴き始めた。が、それを気にしている余裕は無かった。逸る気持ちを抑えて、歩く。

 もしかして、もしかしたら、いや、そうであってほしい。

 やがて、ちょろちょろという水音が聴こえてきて――とうとう、頭沢へと辿り着いた。

 紅葉原と同じ、子供の頃の遊び場。懐かしい、思い出の場所。

 その水辺に佇んでいたのは――黒髪に、白い半袖のシャツと黒いズボンの後ろ姿。足元には、黒いリュックが置かれている。

 息を呑んだ。

 恐る恐る、近付いて、

「……優一くん?」

 声を掛ける。

 すると、後ろ姿は、ゆっくりと振り向いた。

「…………真由美ちゃん」

 聞き覚えのある――けれど少しだけ低くなった落ち着きのある声で名前を呼ばれた瞬間、私の心臓はドクンと高鳴っていた。

 白い肌に、目鼻立ちが整った中性的な顔立ち。やや長めの、柔らかそうな髪。背が高く、スラリとした細身の佇まい。鳳崎が持っていた写真を見た時と、同じ印象。あの頃の思い出が、そのまま成長したかのような姿。

 紛れもなく、優一くんだった。途端に、心がズキズキと疼き始める。

 夢を見ているのだろうか。それとも、幻影を見ているのだろうか。

 あの優一くんが今、ここにいる。

「あ、あの……」

 感情がぐちゃぐちゃに乱れて、喉が震えた。伝えたいことも、訊きたいことも、山ほどあるというのに、上手く話すことができない。

 そんな私を、優一くんはじっと、物憂げな目で見つめていた。何を言うでもなく、眉一つ動かさずに。

 長い沈黙の後、

「ね、ねえ。さっき、笹舟を流したのって……優一くん?」

 ようやく私の口からおずおずと飛び出したのは、そんな六年ぶりの再会の一言目に相応しくない末梢的な言葉だった。

「……うん」

 頓珍漢な問いかけに困惑しているのか、優一くんは無表情のまま、小さく頷いた。

「や、やっぱり、そうだったんだ。シダの葉が挟まってたから、そうじゃないかと思って……」

 優一くんは、無表情のままだった。

「む、昔さ。ここで、みんなで笹舟レースして遊んだよね?他にも、スイカ割りとかしたの、お、覚えてる?」

 取り繕うように、他愛もない話を続けたが、

「……うん」

 優一くんは無表情のまま、また小さく頷いた。

「えっと……あの……いつからいるの?いつ、村に来たの?」

 ようやく、実のある問いを投げかけたが、

「……一昨日」

 優一くんはやはり無表情のまま、答えた。

「尾先の……前に住んでた家に、泊まってたの?」

「……うん」

「で、でも、昨日の夜はいなかったよね?」

「……昨日は、ここにいたから」

「え?……ここで、夜を明かしたの?」

「……うん」

 会話が途切れてしまい、再び沈黙が訪れた。

 ——―なんだか、現実感が無い。

 まるで、幻影を相手にしているかのようだった。

 六年ぶりに再会したというのに、私が誰だか分かっているというのに、私がこんなにも頭の中を、心を、ぐちゃぐちゃにさせているというのに―――。

 優一くんは、やけに無表情で、無感情だった。


 ——―キンッ、キンッ……


 控えめな水音と、柔らかな竹のさざめき。それ以外の音を持たない静かな頭沢に、ポケットの中の霊虫の鳴き声が小さく響いていた。

 と、その時、ふと脳裏によぎるものがあった。

 ……霊虫が鳴いているということは、まさか、優一くんも―――。

 いや、そんなはずはない。現に、私は今、サングラスを掛けていないではないか。鳳崎の気に中てられたという、あの家の化け物の場合はともかくとして、霊感の無い私に、幽霊が視えるはずがない。

 だというのに……。

 この違和感は、何なのだろう?

 無表情で、無感情で佇むその姿は、どこか人間離れしたものを感じさせた。まるで、何か別次元の存在が憑依しているかのような……。

 ―――あっ。

 不意に、思い出す。優一くんが、とんでもなくヤバいモノに魅入られている可能性があるということを。

 そして、それは、それこそが、この朽無村に巣食う、シラカダ様。

 鳳崎は、お社には何も危険は無いと言っていた。それは、お社にはシラカダ様が存在していないということを指していたのではないか。故に、陽菜ちゃんの影が現れるまで、霊虫は鳴かなかったのではないか。

 となれば、幻影で見た六年前の夜に、山賀家の中で唯一生き残った優一くんは、その時からシラカダ様に魅入られて――いや、取り憑かれていて、霊虫は、それに反応して―――、

「……泣いてるの?」

 突然、優一くんが口を開いた。

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