三十 紅葉原

「うっ……ううっ……」

 気が付くと、私はしゃがみ込んで泣いていた。

 ここは、どこだろう?まばらに草が生えた地面に、まだ青い紅葉の葉が落ちている。水のせせらぎが聴こえる。

 顔を上げると、ゆるゆると穏やかに流れる沢があった。辺り一帯が、木陰になっている。生えているのは、悉く紅葉の木。

 ここは……紅葉原だ。公民館の裏手。子供の頃の、遊び場。

 なぜ、ここにいるのだろう。

 逃げろと言われて、スニーカーを突っ掛けて、掃き出し窓から外へ飛び出して――それからのことを覚えていない。無意識に、ここへ来たのだろうか。

 ふと、背後、公民館の方を窺ったが、誰の姿も無かった。準備が終わって、一旦解散したのだろうか。人がいるような気配も、来るような気配も無い。

 よく誰にも見つからずに、ここまで来れたものだと思った。辰巳が未だに母を押さえつけているのだろうか。

 ある意味で、村の人たちにとって私は大切な存在だ。逃げ出したと知れたら、総出で探し出すだろう。

 逃げろ――そう言われたのに、村を出ず、逆に坂を上ってここに来るとは。無意識とはいえ、随分と馬鹿なことをしたものだ。

 そういえば、子供の頃に一度、父と母から酷く叱られた時に、ここへ逃げ込んで泣いたことがある。もしかしたら、その時の心理が働いたのかもしれない。親から逃げた時に行く場所、という心理が。

 まあ、坂を下って村を出たところで、どうしようもなかっただろう。こんな時間にバスは来ないし、走って逃げたって車で追いつかれるのがオチだ。別の民家がある集落までは距離があるし、街はそのさらに遠くだ。

 携帯は……無いのだった。恐らく、警察に連絡すると思われて、気を失っている間に取り上げられたのだろう。ダメ元でポケットを探ってみたが、鳳崎のサングラスと竹筒しかなかった。

 万事休す……なのだろうか。

 いずれ見つかって、連れ戻されて、サトマワリに参加させられて、宵の儀で、私は―――。

「……いやっ……ううっ……」

 肩を抱えながら、ギュッとシャツの袖を握りしめた。

 母の言う通り、私はもう逃げられないのだろうか。この村の因習の餌食になり、人生を犠牲にするしかないのだろうか。

 悔しくて、情けなくて、腹が立った。こんな場所で座り込み、惨めにぐすぐすと泣くことしかできない自分に。

 でも、そうするしかなかった。

 私の生まれ育ったこの朽無村は、悍ましい場所だった。村の大人たちも、悍ましい人間ばかりだった。

 そう考えると、そう突き付けられると、何もかも嫌になっていた。自分が、悍ましいモノが根ざした土地で、悍ましい因習の下、悍ましい人間たちによって誕生させられていたことが、耐えられなかった。

 嫌だ。何もかもが嫌だ。この村も、大人たちも、サトマワリも、家も、田んぼも、私自身も、何もかも、悍ましくて、穢れていて、嫌だ。

 ……いっそのこと、死んでやろうか。

 私の人生を、汚らしい大人たちによって勝手に決められるくらいならば、この手で終止符を打ってやる。それが今、無力な私にできる、唯一の反抗なのではないか。

 泣くのをやめて、立ち上がった。が、死ぬにしても、手段が無いことに気付く。

 目の前を流れる沢を見つめる。

 これがもし、深い谷底だったのなら、飛び降りて楽に死ねるというのに―――。

 そんな荒みきった感情で、立ち尽くしていた時だった。

「…………え?」

 ふと、沢の上流から流れてきたものに目が留まった。

 穏やかに流れる沢の水面を、さらさらと滑るように流れてきたそれは―――。

 シダの葉が挟まった、笹舟だった。

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