二十九 目覚めても尚

 目が覚める。

 見覚えのある板張りの天井に、紐がぶら下がった蛍光灯。ここは……。

 むっくりと身体を起こすと、そこはやはり、自分の家の和室だった。隣には祖母が寝ていて、私は折り曲げた座布団を枕にしていたようだった。

 ……昼寝をしていて、嫌な夢を見たのだろうか。

 だが、違和感を感じてポケットから取り出した物が、その願望を打ち破った。

 ―――鳳崎のサングラス。

 いつの間にか、ポケットにねじ込んでいたらしい。もう片方のポケットからは、竹筒が出てきた。が、そこに一緒に入れていたはずの携帯が無い。

 その時、するる、と襖が開き、

「よかった、真由美、起きたとね」

 母が顔を覗かせた。麦茶の入ったコップが乗ったお盆を手に入ってきて、傍らに着く。

「いきなり倒れたき、心配したあ……。公民館に寝かせるのもあれやから、辰巳くんに、ここまで運んでもらったとよ。はい。大丈夫?気分は悪くない?」

 心配そうにコップを差し出されたが、大丈夫でも、いい気分でもなかった。頭も身体も落ち着いていたが、平静というよりは、ありとあらゆる気力を奪われて絶望に浸りきったような気分だった。

「……ごめんね、真由美。いきなりのことで、わけが分からんかったんやろう?」

 コップを受け取らないでいると、母は静々と語り出した。

「そうよねえ。まだ分からんやろうねえ。お母さんもね、最初はそうやった。ちゅうても、お母さんの時は、何も知らせてくれんやったんやけどね。それは妙子さんも同じみたいやった。ちょうど同じ年に、余所からこの村にお嫁に来てね。宵の儀は、この村なりの婚礼の儀式みたいなもんっち言われて、一緒に参加してみたら、御神酒を呑みなさいっち言われて、気が付いたら、もう事が終わっとってね。妙子さんは辰巳くん、私は真由美を身篭ったと。お父さんは、男の子やないき跡取りにならんとか言うてガッカリしちょったけど、私はそうは思うちょらんよ。例え女ん子でも、ちゃんと私の大切な子供やけんね……。周りからは色々と思われたやろうけど、文乃さんも絵美ちゃんと由美ちゃんの女ん子二人やったし、幸枝ちゃんはそもそもできもせんやったから、みんな似たようなもんよ。男ん子を産みきったのは妙子さんだけ。やっぱり、さすが川津屋敷に嫁いだ人やねえ。シラカダ様の御加護を一等に受けちょう一族だけあるよ。まあ、その辰巳くんと一緒になるんやから、真由美も跡取りになる男ん子を立派に産みきるんやないかなあ」

 母は柔らかく微笑むと、一息ついて、

「……本当はこういう風に、前もってちゃんと言うべきやったかもねえ。今日の夜、宵の儀に参加してもらうっち。でも、言うたら真由美、出たがらんやったやろう?やから、みんなで黙っとったと。夕の儀の後の打ち上げん時に、みんなで説得すれば出てくれるやろうと思うてね。分かっちょうよ、不安なんやろう?でも、大丈夫。心配せんでも、あの御神酒を飲んだら、後は何にも覚えとききらんから。男ん人たちに囲まれて見られるのは辛いやろうけど、あれはね、ちゃんと役割があるき、仕方がないことなんよ。六年前の山賀さんたちん時は失敗して、久巳さんも死んでしもうたけど、今度は大丈夫。なんせ、朽無村の存続が懸かかっちょるんやから。今度失敗したら、いよいよまともにお米が獲れんようになるやろうからねえ。お父さんたちも大層、気を入れちょるはずよ。ふふ、お怒りになっちょるシラカダ様も、川津屋敷の辰巳くんが依り代役っちなれば、喜んでくれるやろうねえ。そしたら、六年前からずっと続きよる田んぼの凶作の災いも終わって、豊作続きになるはず。ここんとこ落ち込んじょった村のみんなも、元気になるはずよ。……やからね、真由美、何も心配せんでいいとよ」

 母が私の手を取り、コップを握らせてきた。瞬間、

「……っ!」

 思いきり振り払った。コップが転がり、びしゃびしゃと畳が麦茶で濡れる。

「な、何を――」

「何なんっ!?私のことを、何と思うちょるとっ!?」

 絶望しつつも、変に冷静になっていたせいで、母の語ったことが――理解したくもない悍ましいことが、するすると頭の中に入って来ていた。それにようやく意識が追い付き、怒りが爆発する。

「辰巳と一緒になるとかっ、男の子を産ませるとかっ、何で勝手に決められなとっ!?何でっ……私、まだ十七なんにっ……高校生なんにっ……村の為?田んぼの豊作の為?何なんっ……シラカダ様がどうとかこうとか、意味が分からんっ!私のことを、何とっ……!」

「何とっち、自分の大切な子供と思うちょるよ。やから――」

「なんで私の人生を、お母さんたちに勝手に決められなとっ!?こんな村の田んぼの為に、私の人生壊されなとっ!?大学に行こうと思っちょったのにっ、出て行こうと思っちょったのにっ……私のこと、生贄みたいに扱うつもりやったとっ!?」

「そ、そんな風には思うちょらんよ。真由美、大学に行くつもりやったと?でも、無理に大学に行ったって、女ん子は結局、結婚したら何も意味無くなるんよ?村の人たちも、みんなそう。いくら一生懸命勉強して良い職に就いても、結婚して子供産んだら、もう終わりなんやから。確かに真由美はまだ高校生やけど、もう立派に大人の身体をしちょるんやし……。ほら、この間テレビで現役女子高生ママっち特集がありよったやろ?ああいう人たちと同じと思えばいいし……。ほら、昔ありよった、十四歳の母とかいうドラマ覚えちょらん?女王の教室と同じ子が出とったドラマ。あれよりはゴタゴタしとらんき、よっぽどいいやろう?高校卒業するまで待とうっちいう案もあったんやけど、絵美ちゃんと由美ちゃんみたいにどっか行ったまま帰って来んかもしれんし、村のみんなの暮らしがもう限界やから、一年繰り上げて早めにやることにしたと」

「なんでっ……なんで、そんなっ……」

 あまりの話の通じなさに、目眩がしてきた。

 自分の大切な子供?

 自分の大切な子供を得体の知れない神様に捧げて子供を産ませるなんて、人生の筋道を勝手に決めるなんて――親が子供に対してすることでは絶対にないはずだ。

 だというのに、なぜ、母はなぜ、駄々っ子を見つめるような目で私を―――。

「そんなん絶対に嫌だっ!こんな村の為に自分の人生犠牲にするとか、絶対に嫌だっ!」

 いつの間にか、涙声になっていた。喉が熱く疼いて、焼け爛れてしまいそうだった。

「真由美、我儘言わんと。子供やないんやから。もう決めたことなんやし、村の人たちの為にも――」

「お母さんは、何も思わんやったとっ!?勝手に決められて、子供作らされて、言いなりになってっ……!私が産まれんやったら、こんな村で、ずっと奴隷みたいに田んぼの仕事ばっかりするんやなくて、もっと別の人生もあったかもしれんのにっ……!」

 酷く乱暴な言葉だと、母を――私自身も――傷付ける言葉だという自覚はあった。それでも、言わざるを得ないことが悲しくて、苦しくて、悔しくて、熱い涙が頬を伝った。

「……あんたに、何が分かるとっ!」

 突然、母がパンッ!と私の頬を張った。

「何にも分かっとらん癖に、ガタガタ言わんとっ!そげなことっ……できるわけなかったやろう!いい!?こん村に嫁いだ女はね、学も何も無いバカでいいとっ!子供産んで、田んぼ手伝うて、男ん言うことを黙って聞いちょけばいいんやからっ!女は所詮、そげんやって生きていくしかないとっ!」

 肩を掴まれ、揺さぶられながら、顔前で怒鳴りつけられた。

 母の顔が、今までに見たことがないほど怒りに歪んでいた。が、吊り上がった目には、私と同じように涙が滲んでいるように見えた。

 私と同じように——母も、被害者なんだ。

 母もきっと、私と同じ思いを、過去に―――。

 でも、だとしても、だったら尚更、

「離してっ!」

 精一杯の力で、母を振り払おうとした。が、揉み合った末にバランスを崩して、ドタリと倒れ込んでしまう。

「ううっ……」

 顔を上げると、目の前に祖母の横顔があった。口をわずかに開いて、ぼんやりと虚空を見つめている。

「……おばあちゃん。おばあちゃんも、そうやったと?」

 ぐずぐずと泣きながら、祖母に問いかける。

 シラカダ様はこの朽無村ができた時から、既に存在していたという。だとしたら、その頃から、この村は悍ましいことをずっと、脈々と続けてきたのではないか。

 それは、祖母へ受け継がれ、母へ受け継がれ、そして今、私へ。

「なんでっ……どうしてっ……」

 祖母の布団の端に顔を埋めて、啜り泣いた。

 得体の知れないモノの為に、こんな寂れた村の為に、田んぼの為に、女の人たちは、延々と犠牲になり続けて、人生を奪われ続けて―――。

「そんなんっ……嫌っ……」

 小さな子供のように、身を震わせながら泣きじゃくっていると、


「……真由美」


 耳元で声がした。

 ぐちゃぐちゃになった顔を上げると――祖母が私を見つめていた。その、しょぼくれた目から、つうっと一筋の涙が零れていた。

「逃げえ……真由美……逃げえっ……」

 祖母が、精一杯の力を振り絞って、私に促していた。悲愴に、悔恨に、自責の念に濡れた顔で、声で。

 祖母は、私のことを―――。

「おばあちゃんっ……」

 私はよろよろと立ち上がると、和室から出て行こうとした。

「真由美っ!」

 へたり込んだまま、母が取り縋ってくる。その手を、

「嫌っ!離してっ!」

 思いきり、振り払った。突き飛ばされた母が、先程の私のように倒れ込む。

 瞬間、ギュッと胸が痛んだが、

「真由美っ、どこに行くつもりっ!」

 母は倒れ込んだまま、キッと私を睨み、

「どこにも逃げ場なんか無いんよっ!この村にはっ……どうせこの家で、生きていくことになるんやからっ!どげえ言うたって、結局、家族以外は誰も助けてくれんのやからっ!私がそうやったようにっ……!それに、私がばあちゃんみたいになったら、誰が面倒看てくれるとっ!真由美以外に、誰がっ!」

 母は、タガが外れてしまったようだった。今まで、ずっと心の奥底に秘めていたであろうものが、どす黒い言葉になって、涙と共に溢れ出していた。

 突き飛ばした時とは違う種類の痛みが、胸を締め付ける。憐れみと憎しみ。どちらも母に対する思いなのに。

 でも、それでも、手を差し伸べるわけにはいかなかった。

 拳を握り込み、踵を返すと、頭上、襖の上に並んでいる祖父らの遺影が目に付いた。瞬時に、憎しみが湧く。

 この人たちも、悍ましいことを―――。

 その血が私にも流れているかと思うと、吐き気がした。

「真由美っ……!」

 背中に母の悲愴な声が突き刺さったが、振り返るのを必死に堪えて、襖に手を掛け、スパッと開け放した。すると、

「……っ!」

 外に、辰巳が立っていた。

 ——―ずっと聞かれていたのか。さっきの言い争いを。

 私をここまで運んだのは、辰巳だと言っていた。そのまま、ここに残っていたのか。

「……真由美——」

「嫌っ!」

 咄嗟に、身を跳ねのける。突き飛ばそうとしたが、触れるのも悍ましかった。

 辰巳も、共犯者だったのだ。大人たちの思惑を知っていながら、それを黙認していたのだ。もしかしたら、それは六年前から、ずっと、今まで。

 なんとなく、辰巳が私に好意を抱いているのは察していた。だが、今となっては、それはグロテスクで汚らしい欲望にしか思えなかった。

 何も知らないままでいたら、今夜、私は辰巳に―――。

「真由美っ!」

 立ち尽くしていたせいで、涙声の母が腰に取り縋ってきた。

「嫌っ!やめてっ!」

 逃れようとしたが、母はガッチリと手を回して離さなかった。

「離してっ!」

「……おばさんっ!」

 不意に、辰巳が割って入って来たかと思うと、私から母を引き剝がした。

 呆然としていると、辰巳は母を押さえつけながら、

「真由美っ、行けっ!……逃げろっ!」

「何するとっ!辰巳くんっ、真由美をっ!」

「早く逃げろっ!靴はそこにあるっ!」

 辰巳が、開け放たれていた掃き出し窓を顎でしゃくった。

「……っ!」

 言われた通りに掃き出し窓へ向かうと、私のスニーカーが沓脱石に放り出されていた。急いでそれを履き、庭先から外へと飛び出す。

 どうするつもりだったのか、真意は知らない。でも、辰巳は今―――。

「真由美ぃいいっ!ああああっ!」

 背中越しに、母のヒステリックな声が聴こえた。それをなだめようとする辰巳の声も聴こえた。

 そんな喧騒の中、祖母が悲し気に啜り泣く声も、小さく聴こえたような気がした。

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