二十八 逃げた先に

 息を切らしながら、走った。

 目眩と、吐き気と、感じたことのない恐怖が私を襲っていた。

 お社の中で陽菜ちゃんと手を繋いだ時に見た、あの悪夢的幻影。あれはやはり、六年前のサトマワリの夜、陽菜ちゃんが実際に体験したこと。

 優一くんに追われながら夜道を走り、お社に辿り着き、中に入ると、そこには――何かを飲まされて倒れたらしき山賀さんと、同じく何かを飲まされて服を脱がされ、筵の上に寝かされていた奥さんと、原因は分からないが泡を吹いて倒れていた久巳さんと、それを囲んで狼狽えていた父と、雅二さんと、秀雄さんと、義巳さんと――お社に祀られていた白い仮面を着けた義則さんがいた。なせが、髪が真っ白で腰ほどまで伸びていたが、あのがっしりとした身体つきは、確実に義則さんだった。

 その義則さんが、得体の知れない叫び声を上げて睨むと、陽菜ちゃんが倒れて、ミルクが倒れていて、義則さんが義巳さんを突き飛ばしながら歩み寄って来て、奥さんの頭を踏み砕いて、お膳を蹴散らして、山賀さんの首を踏み折って、最後に、陽菜ちゃんを―――。

「ううっ……あああっ……!」

 悪夢だと思った。あり得ない、そんなはずがないと思った。

 でも、でも。

 あの実感を伴った生々しい幻影と、焼却炉の中にあったものが、最悪の現実を私に突き付けていた。

 六年前の、あの日の夜に、山賀さんも、奥さんも、陽菜ちゃんも、みんな死んでいた。

 いや、殺されていた。

 サトマワリの宵の儀の際に。

 白い仮面を着けた義則さんによって。

 なぜ、どうして、山賀家は、引っ越したのだと聞かされたのに。

 ……誰から?

 ……父からだ。

 〝お前たちは何も知らんでいいき黙っとれっ!〟

 あの日の夜、父は母と祖母に対して、そう怒鳴りつけていた。

 それが意味するものは、つまり……。

 あの場にいた、村の男の人たちは、山賀家を殺したという事実を、隠蔽した。

 手に掛けた義則さんも、義巳さんも、雅二さんも、秀雄さんも、そして父も。

 あの焼却炉の中には、きっと山賀さんと奥さんの骨も―――。

 ……嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!

 村の男の人たちが――父が、殺人に加担していたなんて、そんなっ……。

「う、げええっ……!」

 鳥居を飛び出た瞬間、堪え切れずに吐いた。膝に手を突き、そのままくずおれそうになるのを必死に耐えた。涙で、視界が滲んでいく。

「ううっ……」

 父が、父たちが、山賀さんたちを、殺した、殺した、殺した。

 何の理由があって、あんなことを。

 奥さんは、服を脱がされていた。みんなが、それを囲んでいた。

 まさか……。

 最悪の想像をして、また胃が震えたが、もう何も出てこなかった。脂汗をだらだらと流しながら、また走り出す。

 逃げなきゃ、逃げなきゃ、悍ましいことが起きたこの場所から……!

 石段を転びそうになりながら下り、坂道を駆けて―――、

「ひっ……!」

 折り返し、川津屋敷の前に差し掛かった時、敷地内に男の人たちが集まっているのが見えた。あの夜、あの場にいた、山賀さんたちを殺した、男の人たちが―――。

「う、ああああっ……!」

 か細い悲鳴を漏らしながら、坂道を全力で駆け下った。

 あの人たちから、逃げなきゃ、人殺しから、逃げなきゃ……!

 誰か、誰か、あの人たちを……!

 と、その時、公民館の扉が開いているのに気が付いた。思わず立ち止まると、中から女の人たちが楽し気に談笑している声が聴こえる。

 お母さん……!

 そのまま玄関に向かい、中に入り込んだ。靴を脱ぐ余裕も無く、土足で上がり込むと、よろよろと炊事場を目指す。

「お母さん……お母さんっ!」

 炊事場に辿り着いて、母の姿を認めた瞬間――足腰から力が抜けて、ドタッと床にへたり込んでしまった。

「真由美っ!?どうしたと!」

 シンクでアルミのボウルを手に作業していた母が、慌てて駆け寄ってくる。周りにいた妙子さんや、文乃さん、幸枝さんも、何事かとこちらへ顔を向けた。

「お、お母さんっ……お、おやっ、お社っ……」

 走ってきたこともあって、過呼吸気味になっていた。その上、どう説明すればいいのか分からず、上手く喋ることができなかった。パクパクと、口から空気だけが逃げていく。

 それを見かねたのか、

「真由美っ!」

 母が私の肩を強く掴み、一喝した。

「落ち着きなさい。ほらっ、しゃんとしてっ」

 エプロンのポケットから取り出されたミニタオルで、口元を拭われた。瞬間、荒かった呼吸が、肩の震えが、段々と治まっていった。

「真由ちゃん、どうしたと?」

「何か、あったんね?」

「服が汚れちょうばい、転んだと?」

 女の人たちに顔を覗き込まれて心配され、自分が今、どういう状況にあるのかを、やっと理解する。

 大丈夫……ここは、ここなら、ひとまず大丈夫……。

「どうしたの。家におりなさいっち言うちょったでしょう。まさか、おばあちゃんに何かあったと?」

「ち、違う、おばあちゃんのことやないけど……」

 途端に、母はほっと息をつき、

「ほら、とりあえず立って。ここに座りなさい」

 肩を抱えられて、よろよろと立ち上がった。炊事場の長机に備えられていたパイプ椅子に、なんとか腰を下ろす。

「真由ちゃん、ほら、お水」

 幸枝さんからコップを差し出され、両手で受け取った。ごくごくと飲み干すと、口の中にこびり付いていた胃液の味が洗い流されて、多少気分が良くなった。

「大丈夫?」

 こくこくと頷き、長机にコップを置く。夕の儀の後の打ち上げの準備をしていたのだろう。お膳用のお椀や平皿、寿司桶などが、ずらりと並んでいる。

「何があったとかい。いきなり駆け込んできて」

 母が心配そうに、私の顔を覗き込む。どうにか、まともに喋れるように気を落ち着かせて、

「わ、私、さっき、お社に行って、そこで――」

 ありのままに、見たことを話した。陽菜ちゃんのこと――非現実的な事象——は省いたが、藁焼き場の焼却炉で見つけたもののことも、六年前の宵の儀の際に、村の男の人たちが山賀家にしたことも。時折、言葉に詰まりながら、語る内容の悍ましさに打ち負けそうになりながら。

「はあっ、はあっ……」

 休むことなく、まくし立てるように話したせいで、息切れを起こしていた。が、話したら話したで、いてもたってもいられなくなってしまった。

「は、早く、警察に連絡してっ!よ、義則さんじゃダメ、あの人は、あの人が山賀さんたちをっ――」

「ま、真由ちゃん。何を言いよると?」

 文乃さんが――いや、他の人たちもみんな、怪訝な顔で私を見つめていた。

「骨があったとか、何かの見間違いやないの。男ん人たちが、山賀さんたちをどうこうしたとか、そげな――」

「で、でもっ、私、その時、六年前のあの時、陽菜ちゃんたちを追いかけて、お社まで行って、外から……み、見たとっ。奥さんが、裸で筵に寝とって、それでっ……」

 正しくは、先程お社で見た幻影の中でだが――と、その時、全員の表情が凍り付いているのに気が付いた。怪訝な表情を浮かべていたのに、一変して能面のような顔になっている。

「……真由美、見たとね?」

 沈黙の中、口を開いたのは母だった。

「で、でも、見間違いっちことも――」

「文乃さん、もうよかよ」

 慌てた様子で喋り出した文乃さんを、母が制した。何が起きているのか分からず、思考が硬直する。

「……はあ。本当やったら、ちゃんと家族で話さんといけんことやったのかもしれんけどねえ」

 母が、また肩を掴んできた。細い指が、肩にぎゅうっと食い込む。

「あのね、真由美。この朽無村ではね、あれは当たり前んことなの。真由美が見た六年前、山賀さんたちん時は失敗してしまったみたいやけど、朽無村に来た人はね、ああせんといけんの。やないと、まともに生きていかれんの」

 優しく言い聞かせるような口調で、母が言う。

 とても、意味の分からないことを。

「あれはね、宵の儀っちいうよりも、シラカダ様の施しっちいって……まあ、詳しいことは言わんけど、私たちはね、みんなあれを経験してきたと。サトマワリの日の夜の、宵の儀でね。みんな、ああやってシラカダ様に、村におってもいいっち認めてもらうと。そうやって、真由美も生まれてきたとよ」

「……な、何を言いよると?」

 声が、震えていた。母の言葉が、頭の中で幾度も反響していたが、その意味を理解することができなかった。

「やからね、この朽無村にお嫁に来た人は、あそこでしか子供を作ることを許されんと。シラカダ様の施しの下に、子供を作らんといけんのよ。そうせんと、この村でまともに生きていかれんからね。やから、新しゅう越してきた山賀さんたちにも、宵の儀に参加してもろうたと。でも、やっぱり余所から来た人たちやったからかねえ。失敗してしもうて……。本当、いい迷惑よ。おかげで、シラカダ様がお怒りになって、田んぼの調子が悪くなってしもうたんやから……。まあ、話に聞くには事故が起きたみたいなことやったらしいんやけど、ともかく、あれは何も変なことじゃないと」

「そうそう、恒例行事みたいなことよ」

 文乃さんが、口を開いた。母と同じ、優しく諭すような口調で、

「うちの絵美と由美も、辰巳くんも、ああやって生まれてきたと。この村で生まれた子はみんな、シラカダ様の施しを受けて授かったとよ。そしたら、シラカダ様も喜んで、田んぼを豊作にしてくれると。昔ほどじゃないみたいやけどねえ。あっ、別に幸枝ちゃんのことを悪く言いよるんやないよ。別に、今みたいに田んぼが凶作続きになったわけやないし」

「……うん。うちん時は、良くも悪くも、何も起きんやったねえ。子供ができんと、ああなるんやねえ。でも、早苗ちゃんと妙子さんが二人で宵の儀をやった時は、えらい豊作になったんやろ?なんせ、本家の辰巳くんと、真由ちゃんができたんやから」

「そうそう、あん時は大変やったねえ……。でも、うちは女ん子やったから、やっぱり本家に嫁いだ妙子さんはようできちょるよ」

「そ、そんな……私は、何も……」

 みんなが口々に、わけの分からないことを――悍ましいことを言う。まるで、世間話でもしているかのように。

「真由美、分かった?」

 母が、私の頭を優しく撫でながら、

「山賀さんたちは可哀そうやったけど、当たり前んことなの。この村で、ずうっと昔からやってきたこと。やから、何も心配することはないと。それにね、真由美も今日――」

「おーい」

 不意に、玄関の方から声がした。

「例のやつはもうできちょうかい。今日の宵の儀の分。辰巳の晴れ舞台の為の、特別製御神酒は」

「うるせえっ!黙っちょけっ!」

 二つの声色。冷やかし混じりの秀雄さんの声に、それを突っぱねる辰巳の声。

 二人が、ドタドタと短い廊下を歩いてくるのが分かった。全員がそちらへ顔を向ける中、私はなぜか無意識に、反対の方を向いていた。

 長机の上。並べられているのは、お膳用のお椀や平皿に、寿司桶。その向こうにあるのは――変なぐるぐる模様の、まるで蛇が這い回っているかのような意匠の、白い土瓶。

 あれは、幻影の中で見たものと同じ。

 あれを呑んで、山賀さんたちは。

 そういえば、お社には、お膳と、筵と、藁座布団と、燭台があった。

 いや、用意されていた?

 不意に脳裏に、お社で義則さんが辰巳に言った言葉が蘇る。


「もしかして、辰巳。お前がここに呼び出したんか?ハハハ!こげな人気のねえ所で何するつもりやった?まさか、たまらんようになって――」


 私も、今日?

 今日の、宵の儀の分?

 辰巳の、晴れ舞台?

 特別製御神酒?

 シラカダ様の施し?

 お社で、子供を作る?

 それが、当たり前のこと?

 村で、ずっとやってきたこと?

 何が、

 何で、

 嘘、

 嫌だ、

 そんな、

 母も、

 女の人たちも、

 いや、

 この村の人たちは、

 みんな、

 みんな、

 おかしい。

「真由美?大丈夫?」

 母の声が聴こえた、気がした。

 ぐにゃりと、天地がひっくり返ったような感覚があって、

 私は、目の前が真っ暗になった―――。

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