三十三 土蔵へ
それから私は、頭沢の水辺で汚れた手足と顔を洗い、服もある程度綺麗にしてから、優一くんを連れて頭沢を後にした。笹の葉がひらひらと舞い落ちてくる小道を、何度も何度も振り返りながら。
優一くんは私の後方を、一定の距離——三メートルほど――を保ちながら静々と歩いていた。先程のような、得体の知れない危機を回避する為に。
あれが何なのかは分からないし、どういう原理で陥るものなのかも分からないが、ともかく近付いてはいけないのだというのならば、そうする他なかった。
途中、ちゃんと優一くんがついてきているか、心配で仕方がなかった。振り返る度に、消え失せてしまっているのではないかという不安に駆られた。
それほどまでに、優一くんの姿が希薄なものに思えたからだ。物も言わずに、無表情で無機質に歩くその姿は、まるで影のような……陽炎のような……。
——―幽鬼。
ふと脳裏に浮かんだのは、そんな言葉だった。
つい最近、ホラー小説を読んで知り、辞書で引いて調べてみた言葉。
死者の霊魂。また、幽霊、亡霊。
そういった意味があったが、今の優一くんの佇まいは、幽霊よりも、亡霊よりも、幽鬼という表現が似合っている気がした。
そんなことを考えている内に、小道を抜けた。身をかがめて、そろそろと村の方を窺う。
九十九折りの坂道に、村の人たちの姿は無かった。母がみんなに知らせて、総出で村中を探し回っているのではないかという懸念があったが、そういった気配は感じられない。未だに、辰巳が母を押さえつけているのか、それとも……諦めてくれたのだろうか。そうであってほしいが、分からない。
そういえば、今一体何時なのだろう。携帯を奪われているので、時刻が分からない。太陽は既に真上から傾いた位置にあるが……。
後ろを振り返ると、
「優一くん、今何時か分かる?」
「うん。えっと……」
優一くんは、ポケットから白い携帯を取り出した。
「け、携帯持ってたの?だったら警察に電話をっ――」
「……ごめん、ずっと圏外なんだ」
「えっ?もしかして、ドコモじゃないの?」
「うん」
そんな……。
がっくりと、肩を落とした。朽無村は、ドコモしかまともに電波が入らないのだ。auやソフトバンクでは、携帯を持っていないも同然の有り様になってしまう。
「……ごめん」
「い、いや、大丈夫だよ」
無理もない。都会の人からしたら、思いもしないことなのだろう。一社しか携帯の通信ができない土地があるなんて。
気を取り直して、
「それで、今何時?」
「えっと……」
優一くんが、パキンと携帯を開いて眺める。その姿は、やはりどこか冷たく、妙に艶めかしく、幽鬼じみていたが、同時に、とても身近な存在にも感じられた。
白い半袖のシャツに、黒い無地のチノパン。飾り気のない黒いリュック。運動靴っぽいタイプの白いスニーカー。
「四時四十一分だね」
登校中の学生と言われても、違和感が無い格好だ。実際に、クラスメートの比較的真面目な男子たちも、似たような装いで登校している。
「……真由美ちゃん?」
六年前の夜に何も起きなかったら、この村に忌まわしいモノが巣食っていなかったら、今もこんな感じの優一くんと毎日会って、一緒に学校に通っていたのだろうか?あの楽しかった頃の延長線のような青春を、送れていたのだろうか?
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
無意味なことを考えるのをやめて、向き直った。
虚しくなるだけだ。悲しくなるだけだ。
改めて、村の方を窺う。
もう五時前なのか。気を失っている間に、随分と時間が経っていたらしい。まだサトマワリ――夕の儀が行われる六時まで時間はあるが、問題は村の人たちがどこにいるかだ。公民館にはいないようだったが、各々の家にいるのか、お社に集まっているのか、それとも―――。
これから向かわなければならない、川津屋敷に集まっているのか。
もし、そうだったとしたら、鳳崎に会うという目的が達成できない。
優一くんが何を考えているのかは、分からなかった。会って、何が起きるのか。その予想もつかなかった。
だが、優一くんが鳳崎に会うことを望んでいるのなら――外部に連絡するという手段が無いのなら尚の事——それに従うしかなかった。
それに、もう鳳崎以外に頼れる者がいなかった。村の外の人間であり、私を取り巻くこの一連の異様な状況にも、理解がある人間。
そして何よりも、鳳崎が優一くんに取り憑いているシラカダ様をどうにかできるのならば――と、その時、不意に石段の上、頭原の方から、微かに喧騒が聴こえてきた。
耳を澄ます。……どうやら、お社に何人かが集まっているようだ。声色からして……きっと、男の人たち。
準備でもしているのだろうか。あの、考えるのも悍ましい、宵の儀とやらの準備を。
ぎゅっと拳を握り込み、奥歯を噛み締める。
「えっと……私が先に行くね。門の所で中の様子を見るから、安全だって分かったら、合図する」
「分かった」
「その……走るのは大丈夫だよね?」
「うん、問題ないよ」
ほっと胸を撫で下ろす。なんてことのない距離だが、もたもたしていて見つかったら、元も子もない。
再度、耳を澄まし、人が来るような気配がないか確認してから、サッと飛び出した。なるべく足音を立てないようにして、坂道を駆け下りる。
「ふうっ……」
川津屋敷の門まで辿り着くと、こそこそと中の様子を窺った。敷地内には誰の姿もない。屋敷の中にいるのかまでは分からないが、昼一番に忍び込んだ時のように、インターホンを鳴らすのは躊躇われた。
別に屋敷の中に侵入するわけではない。用があるのは、あの土蔵の方だ。屋敷に人がいようと、あそこまで気が付かれずに行くことができればいいのだから。
下方に見える村の家々——特に自分の家――を気にしながら、優一くんに合図を送った。軽やかな足取りで駆け下りてきた優一くんと、お互いの距離を気にしながら合流すると、中に入り込み、敷地の縁を沿うようにして土蔵へと向かう。
敷き詰められている砂利が派手な音を立てないように気を付けながら、土蔵の横面まで辿り着くと、壁の影から屋敷の方を窺った。窓から内部の詳しい様相は見えないが、シンとしていて、人が大勢集まっているような気配は感じられない。
優一くんに目配せをすると、サッと飛び出て土蔵の入り口に向かった。屋敷の正面にまともに躍り出ることになる為、焦燥に駆られる。
早く、早くっ。
重たい木の引き戸をギイイッと半分開くと、するりと中へ入り込んだ。すぐに顔を出し、また目配せで優一くんに合図を送る。
距離を取らなければならない為、扉を開けたまま、後ずさるようにして離れた。安全圏を確保し、ふうっと息をついて中へ向き直ると、相変わらず柱に縛られたままの鳳崎が、ぐったりとこちらを睨んでいるのに気が付いた。
「……行ってきたのか」
無言で頷くと、鳳崎は私の渇いた顔色を見てすべてを察したのか、俯き気味に小さくかぶりを振った。
きっと、鳳崎は危惧していたのだろう。六年前の真相——この村の悍ましい真実を知ったら、私がどうなってしまうのかを。
だからこそ、お社で暴れた時、咄嗟に私を見て、真相をつまびらかにすることを躊躇ったのだろう。
今にして思えば、あの暴力行為には正当な理由があったと分かる。山賀家の殺害に加担した義巳さんたちと、実行犯でもある義則さんを、怒りのままにぶちのめそうとしたのだ。
そう考えると、より一層、鳳崎が信頼に足る人間だと思えてきた。粗暴で、野蛮で、激情的だが、他者を思いやる心はきちんと持ち合わせている。他者の人生を自分たちの都合で平気で捻じ曲げようとする村の大人たちとは違って。
「……あなたも、手を繋いだの?」
「……ああ、小さいのがいただろ。あいつが、全部教えてくれた。その時、俺の気に中てられて、姿が濃くなったはずだ。お前みたいな奴にもグラサン越しに視えて、自分の思念と記憶を伝えられる程度にはな」
原理は分からなかったが、否が応でも理解するしかなかった。実際に、その通りのことを経験したのだから。
「あいつの魂は、この世に留まれる素質があったんだろう。死後も、影になって、ずっとあそこにいたんだ。その鎖になっていたのは、恐らくだが、知ってほしいという感情だろうな。自分たちの身に起きたことを」
「陽菜ちゃん……」
目に涙が滲む。
六年もの間、ずっとあんな場所に留まり続けていたなんて。
どうして気付いてあげられなかったのだろうと、強く後悔した。
山賀家は引っ越したものだと思っていた。理由はどうであれ、朽無村を出ていったのだろうと。
だが、違ったのだ。優一くんを除いて、山賀さんも、奥さんも、陽菜ちゃんも、ずっとこの村に存在していたのだ。骨となり、灰となり、影となり。
あの夜、私が陽菜ちゃんたちを止められていたら、恐怖に駆られてお社から逃げ出していなかったら――最悪の事態は避けられなかったかもしれないが—―また別の未来があったのかもしれない。少なくとも、あんな汚い焼却炉の中に埋もれているようなことは……。
「……オイ。色々と思うことはあんだろうが、とりあえず解け」
鳳崎に言われて、溢れそうになった涙を拭った。
「ちょっと待って。その前に……」
横に身をずらすと、入り口の方を向く。すると、私たちの会話が終わるのを待っていたかのように、優一くんが土蔵の中へと入って来た。
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