四十三 土蔵の残滓
「な、何?」
「どけ」
言われた通りに横へ移動すると、鳳崎は首をパキッと鳴らし、柄シャツの袖を捲くった。奇怪な文字——梵字の刺青だらけの両腕が露わになる。
そして、私がいた方——中央に、水墨画風の大蛇が描かれた白幕が張られている、入って左側の壁に向き合うと、両腕の甲を見せつけるように顔の前に掲げて構え、
——―バチンッ!
と、打ち合わせた。力が込められているのか、拳は硬く握られ、ぶるぶると震えている。その動きを、バチンッ!バチンッ!と、何度も繰り返した。
あまりの気迫に、私は声も出なかった。鳳崎が何をやっているのかは分からなかったが、邪魔をしてはいけないということだけは、鬼気迫るものと共に、十分に伝わっていた。
やがて、鳳崎は打ち合わせるのをやめて、腕をグッと胸の前に構えたまま動きを止めた。力んだ両腕をぶるぶると震わせたまま――と、その時、背筋にひやりと冷たいものが走った。
……この感覚は、味わったことがある。尾先の、優一くんの家で、和室に入った時と同じ。あの化け物が現れた時のもの。
一体、何が起きようとして―――、
「……あっ」
白幕の壁の前に、滲み出るかのように、影が現れた。それは、段々と濃くなり、存在感を増していき―――、
「……おっ、親父?」
義巳さんが、驚嘆の声を上げる。
その影の主は、確かに久巳さんだった。格好はなぜか、サトマワリの祭事衣装である白い袴姿で、こちらに背中を向け、目の前の壁に張られた白幕を見上げている。
「……こ、こげな、こげなことがっ」
義巳さんは、声を震わせて狼狽えていた。
「い、一体何をしたの?」
鳳崎に訊くと、
「俺の気を中てたんだ。お前らにも視える程度に、存在を濃くしてやった」
とだけ言い、ポケットからあの香水を取り出したかと思うと、シュッシュッと手にしていた大鉈に振りかけ始めた。
そういえば、すっかり失念していたが、久巳さんは死後、この土蔵に囚われている、ということだった。鳳崎はそれを、ここで死んだせいではないかと言っていたが―――、
「親父っ……!」
義巳さんが、感嘆とも憤りとも取れる震え声で、久巳さんを呼んだ。すると、久巳さんはゆっくりと、こちらに振り向いた。
その顔は、まるで首でも絞められているかのように苦し気で、ぎょろりと目が剥かれ、大口が開けられていて、
——―げぇあああ……
あの夜に聞いたのとまったく同じ、気味の悪い声がそこから漏れて――と、その時、鳳崎がゆらりと歩み寄ったかと思うと、久巳さんに向かって、大鉈を勢いよく振り下ろした。
——―ガキンッ!
と、大鉈の刃先がコンクリートの地面を叩いた。瞬間、脳天から真っ二つに引き裂かれた久巳さんの影は煙のようにゆらめいて輪郭を失くし、みるみるうちに虚空へと溶け入ってしまった。後ろで、「ああっ……」と、義巳さんが息を呑む。
「お前が正しかったな。確かに、クソジジイはあの社で死んでいた。だが、その魂はここに留まってやがった」
鳳崎はチラリと私を見遣った後、ツカツカと壁に歩み寄ると、中央に張られていた大蛇の白幕を掴み、ブチブチッ、バサッ!と、留め具ごと力任せに取り去った。
「その理由が……これか」
そこにあったのは、奇妙な彫り物だった。白漆喰の壁に、うねうねと枝分かれした縦向きの線がのたくり、それに沿うように文字が彫られて―――、
「……家系図?」
そうだ。あれは、家系図だ。きっと、この川津家の血筋を記したものなのだろう。
だが、それは随分と一本調子なものだった。左右に枝分かれすることなく、下へ下へ、夫婦から夫婦へと降りていくだけの単調な家系図。
それは、一人しか子供を作れないという村のしきたりのせいなのだろうが、遠目から見ると、まるで一匹の蛇がうねうねと這っているようにも見て取れた。
「フン。この彫り物も、由緒ある川津家の伝統とやらか?やけに仰々しく飾り立ててるが、見た感じ、大した歴史じゃねえようだな」
鳳崎は白幕を放り捨てると、こちらに向き直り、
「クソジジイは、よっぽど固執していたんだろうな。自分の血筋を絶やさないことに。だから死後、ほとんど間もねえのに、ここに現れた。血筋の証明ともいえる家系図がある場所に、魂が囚われたわけだ。六年前の夜、子供のお前にも姿が視えたのは、恐怖に駆られていたからか、それとも、シラカダの邪気に中てられていたからか……。まあ、祓い殺した今、んなこたあどうでもいいがな」
祓い殺したという、矛盾を含んでいるような清濁入り混じった言葉の意味は、すぐに理解できていた。それは義巳さんも同じようで、
「親父……親父……」
と、虚ろな声で力なく繰り返していた。が、それには目もくれず、鳳崎は捲くっていた柄シャツの袖を戻しながら、優一くんの方へ向き直ると、
「これで、終わりだ。何もかもな」
と、諭すように言った。
「……ありがとう、鳳崎さん」
優一くんが、ポツリと呟く。
恐らく、鳳崎は優一くんの為に、わざわざ久巳さんを視えるようにして祓い殺したのだろう。少しでも、六年前の遺恨を晴らそうとして。
だが、優一くんの無機質な声色からは、感情を汲み取ることができなかった。唯一、その糸口となる目も、虚ろに閉じられていて――と、その時、土蔵の外から、ガヤガヤと人が集団でやってくる気配が伝わってきた。
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