四十二 本当の過去

「確かに、ここに引っ越して来てから、陽菜の喘息は少しずつ良くなってたみたいだった。発作も、滅多に起こさないようになってた。多分、ここの空気が綺麗だったからだと思う。でも、僕は、それはお医者さんが決めることだからって、取り合わなかった。そしたら、陽菜は意地になって、お父さんとお母さんに今すぐミルクを飼ってもいいか相談するって言って……目を離した隙に、オモチャのペンライトを持って、一人で出て行ったんだ。慌てて追いかけたけど、喘息が本当に治ってたのか、陽菜は走れるようになってて……」

「そんな……」

 お社で幻影を垣間見ていた時、私の中には、陽菜ちゃんの感情も流れ込んできていた。

 陽菜ちゃんが坂道を駆けながら感じていたのは、問題なく走れていることへの自負と、後ろから聴こえる――優一くんの呼びかけに対する、分からず屋には答えてあげないという反抗心だった。

 あれは、ミルクを飼うことに対してのものだったのか。

 あの日、私が、良くなってるならいいんじゃない?と言ったばかりに、陽菜ちゃんは……。

「お社に追いついたら、わけの分からない状況になってて、白い仮面を着けた人が奥にいて、その人が叫んだ瞬間、身動きができなくなって、隣にいた陽菜が倒れて……仮面を着けた人が、父さんと母さんを踏み殺しながら、こっちに来た。そして、陽菜も――」

「優一、無理すんじゃねえ」

 鳳崎が、諭すように言う。が、優一くんは大丈夫といった風に、小さく頷くと、

「……僕も、殺されるんだと思った。でも、直前で、仮面の人が後ろから殴られて倒れて、その瞬間、動けるようになって……怖くなって、叫んだと思う。それから……僕は、逃げた。全部を置き去りにして、逃げたんだ。お社から飛び出して、見つかっちゃいけないと思って、咄嗟に真っ暗闇だった裏手の方に逃げ込んで、そのまま山の中に入り込んで、右も左も分からない暗闇の中を、滅茶苦茶に走って、走って、転んで、走って……気が付いたら、海の見える病院で寝てた。どこかの山道で、泥だらけで倒れてる所を見つかって運ばれてきたらしいけど、その時のことは何も覚えてない」

 海の見える、ということは、優一くんはいくつもの山を越え、途方もない道程を走ったに違いない。村の人たちの魔の手から、家族を殺された恐怖から逃げる為に、こんな内陸の地から、遠い遠い海岸沿いの地まで―――。

「……宇田川のハゲからはこう聞いてる。たまたま祓いの仕事で九州に行ってた時、怪我をして病院の厄介になってたら、酷く衰弱してる上に、ほとんど半狂乱の状態になってるガキが運び込まれてきた。よく見ると、悪霊の穢れが染み付いてて、そのせいでヤバい状況に陥ってるってことが分かったから、医者に事情を説明して、急遽祓いを行って、難なく成功したが、なぜかガキは呆けたようになっちまった。ものも言わねえし、まともな所持品も無くて身元も判明しなかったが、その後の経過が心配だったから、話を付けて病院から引き取って連れて帰って来たってな」

 ズンと、胸が痛んだ。魔の手から逃れられたとはいえ、優一くんは壮絶な経験をしていたのだ。私なんかとは比べ物にならないほど、凄惨な目に遭っていたのだ。

「……先生が愛知の人だったから、僕は偶然にも、元々住んでた馴染みのある土地に戻れた。それだけじゃなくて、どこにも行き場のない僕の面倒まで見てくれて……。本当に運が良かった。奇跡だと思う。色んな幸運がいくつも重なったおかげで、僕は今日まで生き延びられたんだ。その内のひとつでも欠けていたら、今頃……とっくに野垂れ死んでたと思う」

 優一くんがそういうと、場に重苦しい沈黙が訪れた。とても、軽々しくものを言える雰囲気ではなかった。が、

「縁起でもねえこと言うんじゃねえ、タコ」

 それを打ち破るように、鳳崎がぶっきらぼうに――だが、どこか親しみの籠った声で、吐き捨てた。

「そう思ってんだったら……分かってるな?」

「……うん」

 また二人だけの会話が行われた後、

「話を戻すぞ。それから、何があったんだ。ちゃんと最後まで話せ」

 と、鳳崎が向き直り、睨みを利かせると、義巳さんはすべてを諦めたような表情を浮かべた後、重々しく口を開いた。

「……シラカダ様が取り憑いた義則が入り口ん近くまで行った時、視線から逃れて動けるはずの連中は、誰一人として立ち上がらんやった。無理もねえやろう。宵の儀が失敗して人死にが出るのは、俺たちの代では初めてのことやったからな。どうにもできんのも分かる。そんな中、倒れちょった俺は、どうにか立ち上がって、棚の藁打ち木槌を手に取って、後ろから義則ん横っ面をぶん殴った。そん拍子に面が外れて、義則からシラカダ様の御霊が抜けて……義則は、自分が何をしたか、分かっちょるようやった。俺も経験したき分かるが、面を着けてシラカダ様を降ろしちょる間も、意識はある。身体の自由は効かんが、自分が何をしよるかはちゃんと分かるのよ。まるで、夢を見よるみたいに」

「周りにいた村の連中が真っ先に襲われなかったのは、お前らが奴の施しを受けて生まれてきた人間だからか?」

「恐らく、そうやろうが……もしかしたら、シラカダ様は、山賀さんたちに重ねたのかもしれん。遠い昔、自分を殺した余所者の行商一家に」

 義巳さんの口から語られた話を思い出す。まだ人間だった頃のシラカダ様を殺したのは、偶然村を訪れていた一組の夫婦と二人の子という四人家族の主人だったという。山賀家に、そのまま当てはまる構成だ。

 その一家は村の人間たちによって惨たらしく殺されてしまったらしいが、遥かな時を経て、また同じことが繰り返されてしまった。ただ――優一くんだけが、生き延びて。

「義則が元に戻った後、緊張が解けて全員が騒ぎ出した。みんなでわあわあ狼狽えよったら、そん子が叫んで出て行った。義則は慌てて追いかけて、カズも後を追おうとしたが、俺はもうどうにもならんっち思うて呼び止めて……そして、マサが逃げていった。あん奴は元々気が小せえで、酒の力を借りんと参加しきらんっち言うくらいでな。一升瓶を持ち込む始末やった。そんなんやから、目の前で起きたことに耐えきらんやったんやろう」

 十分に納得できた。その様を、私はほとんど目の前で目撃したのだから。

 あの時、雅二さんは〝こげなこと、元から俺は……〟と言いながら、涙していた。もしかしたら、雅二さんは内心、宵の儀を行うことに反対していたのかもしれない。その後、アルコールに溺れたのも、山賀家の殺害に加担したという現実から逃げる為だったのだろうか。

「そん後、みんなして途方に暮れちょったら、義則が戻って来た。逃げ出したそん子を捕まえてきたんかと思うたら……なぜか、引きずってきたのは、辰巳やった」

「あ……」

 そういえば、すっかり失念していたが、辰巳はあの夜、あの場に。

「後から聞いたが、辰巳はお社ん裏の薪置き場によじ登って、上の格子から全部覗き見よったらしい。やが、中で起きよることを見て、怖くなって逃げようとした時、足を滑らせて落ちて……地面で動けんくなっちょったのを、追いかけるのを諦めて戻ってきた義則が見つけてな」

 ……そうだったのか。

 私はてっきり、宵の儀に参加していた辰巳が悲鳴を上げて逃げ出した末、連れ戻されたのだと思っていた。

 だが、あの甲高い悲鳴は優一くんのもので、辰巳はそもそも宵の儀に参加していなかったのだ。

「まったく……なんであげなことを……」

 それは、きっと、ムキになっていたからだ。

 あの日、辰巳はむくれていた。夕の儀が終わった後、義巳さんに対しても、私と優一くんに対しても。

 〝俺は子供じゃねえっ〟

 〝優一ん方が頭も良いし、背も高えし、大人っぽい都会もんやもんなっ〟

  自分も、もう立派な大人なのだ。この朽無村の、一人前の男なのだ。そう考えて、こっそりとお社へ宵の儀を見に行ったに違いない。

 その結果、辰巳は悍ましい真実を目の当たりにすることになった。

 夏休み明け、快活だった辰巳があんなにも大人しくなっていたのは、惨劇の一部始終を目撃していたせいで。

「……仕方なく、辰巳にはそん場で全部話した。ちゅうても、あん奴はずっと泣き喚きよったから、何も考えきらんやったやろう。それでもどうにかして口留めさせて、妙子を呼んで帰らせて、俺たちは山賀さんたちの死体と、いつの間にか転がっとった野良猫の死体を裏の焼却炉まで持って行って、ありったけの薪と一緒に放り込んだ。それから、山賀さん家に行って、服やら鞄やらを回収して、燃やせるもんは何でも運んで放り込んで……」

「失踪したと見せかけようとしたのか」

「そうや。警察ん仕事をしよるだけあって、そういうことに詳しいんか、義則が全部、俺たちを指揮した。生活必需品と貴重品を家ん中から持ち去って、必要最低限の荷物だけ持って夜逃げしたっちゅう風に偽装したのよ。山賀さんの車も、義則が呼んだどこのもんともしれん胡散くせえ連中が持って行った。北九州の知り合いとか言いよったが、どげえ処理したかも知らん。一週間もせん内に警察が来て話を聞かれたが、義則から言われた通りに、父親の様子がおかしかったとか、来た時から態度が余所余所しかったとか、不満ばっかり垂れて人付き合いをせんやったとか、そういう証言をした。身内である義則の力もあったか知らんが、警察も会社から左遷された末の田舎暮らしに嫌気が差して夜逃げしたんやねえかっち結論付けたみたいで、俺たちが怪しまれることはねかった。そん間も、俺たちはずっと薪を運んでは焼却炉で延々と燃やしよった」

「どうして、死体をそのままにしてやがった。言ってみりゃあ、一番見つからねえようにすべきものを、どうしてほったらかしたんだ」

「……誰も、手を付けようとせんやったからよ。義則の指示で、火の番はサトマワリの夜から三日三晩の間、ぶっ通しで続けた。交代制で、俺も、義則も、カズも、ヒデも、逃げ出したマサにもやらせてな。それが過ぎて、村に警察が来た後も、俺たちはずっと火を絶やさんやった。ひたすら燃やして、燃やして、灰の中に埋もれさせて……。今にして思えば、誰も見たくなかったんやろう。自分らが人殺しをしたっちゅう証を。やから、誰も中にあるもんをどうこうしようとは言い出さんやった」

 無気力に語る義巳さんを見つめながら、私は思い出していた。窓という窓が塞がれた家に軟禁されて過ごした、奇妙な夏休みの日々を。

 私は薄々、こんなことを考えていた。

 宵の儀が失敗したせいで、シラカダ様がお社の外に解き放たれた為に、子供である私は外に出ることを、窓から外を見ることを、禁じられたのではないかと。

 だが、違っていた。本当の理由は、山賀家の存在をこの村から消し去る為の、一連の証拠隠滅活動を、私に見られないようにする為だったのだ。シラカダ様が外にいるから危険だと嘘を吹き込み、ほとぼりが冷めるまで家の中に閉じ込めたのだ。

 いつしか、父が野焼きの季節でもないのに、煙の臭いを作業着に纏わせて帰って来たのは、焼却炉で火の番をしていたからだろう。山賀さんたちを焼き尽くして、存在を無かったことにする為に。

 祖母が玄関に塩を盛ったり、外に出て行く父に線香を持たせようとしていたのも、嘘の一環で――いや、あれだけは、信心深い祖母の良心による行動だったのかもしれない。盛り塩は、ある意味本当に、家の外で起きた悍ましいことに対する厄除けの意味で。線香は、山賀さんたちに対するせめてもの贖罪——供養の意味で。

「クソジジイの死体はどうしたんだ」

「……親父の死体は、家まで運んで、寝間着姿にして布団に寝かせた。次ん日の朝、起きてこんから様子を見にいったら死んじょったっちゅうことにして、かかりつけの医者を呼んだ。どげえなるもんかとビクビクしよったが、親父の死因は心不全やったみたいで、無事に自然死っちことで片付けられた。後は、村に人が寄り付かんように、身内だけで通夜やら葬式やらを済まして……」

「ケッ、てめえの親父だけ、立派に葬式上げやがったってのか」

「……どげえ言うたって、俺たちの親父であることに変わりはねえ。他んもんがどれだけ悪く言おうが、俺たちにとっては……。親父にしたら、寂しい幕切れやったかもしれんが、どうにか成仏してくれちょるやろう。なんせ、最後はシラカダ様に殺してもろうたんやからな」

 そう言うと、義巳さんは力なく、皮肉っぽい笑みを浮かべた。言葉とは裏腹に、死んでも尚、久巳さんのことを恨んでいるのだろう。

 と、その時、

「……成仏なんかしてねえよ」

 不意に、鳳崎が私の方を向いた。

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