十二 違和感のある家

 ……ああ、どうしよう。まさか、開くなんて思ってもみなかった。どうせ閉まっているから、気休めに外からパッと見るだけで終わるだろうと考えていたのに……。

 中に入ってみようか?しかし、これは不法侵入ではないか。ボロボロの空き家といえど、持ち主がいるはずなのだから。だが、まともに管理されている様子は無いし……。

 躊躇っていたが、フウッと短く息を吐き、覚悟を決めた。

 ここまで来たのだ。とことん確かめてみようではないか。

 どうせ誰も来やしないと、扉は開け放したままにして、スッと中へ入り込んだ。じっとりと暑かった外とは違う、妙にひんやりとした空気が身体を包む。おじゃまします、と心の中で呟くと、埃っぽい臭いがふわりと鼻先を撫でた。

 ―――ああ、そうだ。こんな感じだった。

 黒いタイル張りの三和土に、上に壺型の花瓶が飾られている造り付けの焦げ茶色の靴箱。板張りの玄関から、廊下がまっすぐに伸びていて、左手には開き戸。右手には襖。

 全体的に薄暗く、埃にまみれていたし、花瓶に挿されていたのはカラカラに萎れた茶色い植物の残骸——恐らく向日葵——だったが、在りし日の光景が記憶に残っていた。ここはかつて、山賀家が暮らしていた家だ。

 三和土には、靴が見当たらない。空き家だから、当然の事か――と、その時、上の板張りの床を見て、思わず、あっ!と声が出そうになった。

 足跡がある……!

 背後から陽の光が差したことと、一面に薄く埃が積もっているせいで、はっきりと視認することができた。玄関の板張りの床に、靴の足跡が残っている。

 かがんで、よく観察してみる。恐らくは……運動靴っぽいタイプのスニーカーのものだ。サイズは、私より少し大きい。

 驚きを抑えながら目を凝らすと、その足跡が廊下の奥の方へと続いていることに気が付いた。いや、それだけではない。こちらへ引き返している足跡もあるし、左手の開き戸の前や、襖の前にも、来訪したらしき足跡がある。

 誰かが土足で家に上がり込み、中を探索した……?

「あ……あの……」

 誰かいるんですか?と続けようとして、喉が詰まった。いざ家の中に入ると、雰囲気に呑まれて、身も心も縮み上がってしまい、声を張り上げることができなくなっていた。〝無人の廃屋〟という、独特の雰囲気に。

 いや、もしかしたら、ここは〝無人の廃屋〟ではなく、〝何者かが潜んでいる廃屋〟なのではないか……。

 この、私より少し大きい足跡。その何者かは、もしかすると……。

 神経を研ぎ澄まし、耳を澄ましてみる。が、不気味なほど何の物音も聴こえてこない。

 やはり、誰もいないのだろうか?

 少し躊躇ったが、先客に倣って、土足のまま玄関へと上がった。ギシ……と、床が軋む。

 この家に上がるのは、初めてのことだった。西島さんが一人で住んでいた頃も、山賀家が住んでいた頃も、中に入ったことが無かったので、家全体が未知の領域だ。

 とりあえず、左手の木の開き戸を開けてみると、そこは八畳ほどの板張りの部屋だった。恐らく、山賀さんと奥さんの寝室だったのだろう。同じ型の木製ベッドが並んでいて、その間にはサイドテーブル。窓辺には籐椅子。隅には、扉が開きっぱなしで中が空っぽの古びた洋服箪笥が置かれていた。

 薄暗かったので、壁のスイッチを探して押してみたが、電灯は点かなかった。どうやら、電気は通っていないようだ。

 仕方なく、カーテンの掛かった窓から差す陽の光だけを頼りに、床の足跡を辿っていくと、部屋の中央——ベッドの手前で立ち止まったような形跡があった。

 顔を上げる。ベッドのマットレスはびっしりと埃を被り、茶色くくすんで腐っていた。上には、同じように腐った枕とタオルケットがのたくっている。

 サイドテーブルの上には、やはり埃を被ったスタンドライトに、針の止まった目覚まし時計。そして、徳利型の小さな花瓶があった。玄関の花瓶と同じく、向日葵の残骸が挿さったままになっている。

 特に目を引くものもなく、また下を向いた。足跡は、ここで踵を返している。

 追いかけるようにして、部屋を出た。扉を閉めると、今度は反対側の襖へ手を掛けてみる。が、右も左も家が古いせいで立て付けが悪いのか、引いてもビクともしなかった。ガタガタと揺らしてみても、開く様子がないので諦める。

 となれば……。

 廊下の奥の方を見る。陽の光が届かないからか、今いる場所よりもずっと暗く、まるで洞穴のように思えたが、迷うことなく足を踏み出した。ゆっくりと、足跡を追いかけるように奥へ進んでいく。

 ふと、自分は一体何をしているのだろうと我に返った。空き家に侵入し、中を土足で歩き回るなど、まるで泥棒ではないか。まだ未成年といえど、これは単なるイタズラでは済まされない、立派な犯罪行為だ。

 しかし、そうだと分かっていても、足を止められなかった。心の中で疼いている何らかの感情が、私の身体を逸らせていた。

 それは好奇心に似ているが、根本的には違う、何か。恐らくは―――。

 気が付くと、左手に開き戸。右手には磨りガラスが一面にはめ込まれた引き戸があった。

 とりあえず、左側の開き戸を開けると、そこは六畳ほどの板張りの部屋で、物置のようだった。奥の窓から差す陽の光が、何も掛かっていないハンガーラックや空の衣装ケース、古めかしい書棚、積まれたダンボール箱などを弱々しく照らしている。

 ごちゃごちゃとしていて中に入る気にならず、扉を閉め、向き直って引き戸の方をスルスルと開くと、そこは広々とした板張りの部屋だった。

 左側に脚の高い、ビニールクロスが掛かった食卓テーブル。右側に脚の低い、冬には炬燵になるのであろうテーブルがあった。食卓テーブルの向こうには銀色の流し台とガス台があり、左の壁には食器棚や冷蔵庫が並んでいる。炬燵テーブルの向こうの角にはテレビ台と、今となっては懐かしい箱型のブラウン管テレビが置かれている。左手は台所、右手は居間といったところか。

 中に入り込むと、ひとまず足跡は気にしないことにして、台所の方を物色してみた。食器棚の中には皿やコップが一通り揃っていて、炊飯器や電子レンジなども定位置であろう場所に収まっていた。埃を被っていたが、今すぐにでも使えそうなほどに。流し台にも、洗剤やスポンジ、三角コーナーが備わっている。

 さすがに冷蔵庫の中を検める気にはならなかったので、そのまま居間の方へと向かった。炬燵テーブルとテレビ以外には、電話台や籐編みの棚、黄ばんだ扇風機などがあった。テーブルの上には、リモコンに、ペン立て、爪切り、綿棒、ティッシュの箱。ブラウン管テレビの上には陶器製の小さな猫の置物とポストの形をした貯金箱。電話台にはメモ用紙や筆記具類、電話帳が備えられていて、籐編みの棚はどれも中途半端に開いている。

 と、その時、電話台の上の壁にカレンダーが留められているのが目に付いた。近寄り、見てみると、2005年の八月のままで止まっていて、八日の欄には〝村のお祭り〟と小さく書き込まれていた。

 六年前の今日——あの日……。

 思わず、視線を逸らした時だった。電話台の横に、小さなサイドテーブルが置かれているのが目に付いた。上には、ラッパ型の花瓶が置かれていて、向日葵の残骸が挿さっている。

 奥さんの趣味だったのだろうか。家の至るところに花が飾られて―――。

 ……?

 ふと、違和感を感じた。

 何だ?何かがおかしいような気がする。

 辺りを見渡す。黄ばんだカーテンが掛かった窓越しに差す陽の光が弱々しく照らしている、やけに生活感の残された空虚な空間……そう、そうだ。

 なぜ、こんなにも生活感がある?

 ここに住んでいた山賀家は、引っ越したのだと聞かされた。元いた愛知県に、急に戻ることになったと。

 だが……私自身は引っ越しなど経験したことがないが、普通はある程度、家の中を片付けていくものなのではないだろうか。

 それがどうして、こんなに家電製品や日用品が残っているのだ?

 引っ越す際に、荷物になるから大きな家具や家電製品は置き去りにしていったのかもしれない。だが、いくらなんでも、この日用品の有り様は妙だ。

 寝室のベッドの上でのたくっていたタオルケットや、揃い過ぎているキッチン用品、居間のあちこちに置かれている生活用品。

 そして、何よりも――家のあちこちに置いてある花瓶がおかしい。

 普通、引っ越すのなら、花瓶に生けてある花くらい片付けていくものだろう。それがなぜ、そのままになって、朽ち果てているのだ?

 しかし、山賀家が引っ越したという点については、偽りは無いように思えた。

 なぜなら、この家には衣類や貴重品の類が一切見当たらないからだ。

 寝室の洋服箪笥は空っぽだったし、物置のハンガーラックには服が掛かっておらず、衣装ケースも中身は入っていなかった。鞄やバッグなども、ひとつとして目にしていない。

 引っ越した、というのは紛れもない事実なのだろう。

 だが……だとしたら、これではまるで……。

 必要最低限の物だけ持って、バタバタと出て行ったようではないか。花瓶に生けてある花を、処分する暇も無く。

 ……それほどまでに急いでいた理由とは、一体——―。

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