十三 家にいたモノ

 ―――ふと、我に返った。

 ……何をやっているんだろう。こんなこと、今更考えたって仕方がないのに。

 ふう、と息を吐いて、気を取り直した。そうだ、足跡を探らねば。

 薄暗い中、目を凝らして床を確認する。先客の足跡は、まず台所へ向かった後、居間を歩き回っていたようだった。

 それから……台所の反対側、壁一面が襖になっている方へ向かっている。

 位置的に恐らくは、と襖を開けてみると、やはりそこは和室だった。玄関の右手にあった開かなかった襖は、ここへ続いていたのだ。

 下を見ると、フローリングと違って畳のせいで、足跡がよく分からなくなっていた。一応、中を確認してみようと踏み込んだ――瞬間、不意に背筋に冷たいものが走った。

 ……何だ?

 家に入った時とは違う種類の、何か言い様のない雰囲気に呑まれたような気がした。ここだけ空気の温度や、漂っている臭いが違うような……。

 ―――濁っている。澱んでいる。

 強いて言うなれば、そんな表現が似合う、どろりとした不気味な空間に思えた。

 ……気のせい。きっと、気のせいだ。

 そう思い直すと、中を見渡した。右側には開かなかった襖があり、正面には掃き出し窓があった。ヨレたベージュ色のカーテンが掛かっていて、陽の光がぼんやり透けている。敷き詰められた八枚の畳は、どれもカビが生えて所々黒ずんでいた。

 そして、左側を見た瞬間、私はあるものに目が釘付けになった。

 自分の家にある和室と似た構造で、左側に押し入れ、右側に床の間があったのだが、その真ん中の空間に、大きな黒い箱が鎮座していたのだ。

 何だ、これは?

 ……仏壇?

 そうだ。和室なのだし、位置的には仏壇があるはず……ああ、扉が閉め切られているのか。

 扉が閉まった仏壇というものを見慣れていなかったせいで、理解するのに時間がかかった。が、正体が分かったと同時に、別のことに気が付いて、薄気味が悪くなった。

 空き家に仏壇が放置されている……。

 この家は、普段からまともに管理されている様子は無い。ということは、この仏壇は、ずっとここに放置されたままになっているのか。本来なら、きちんと人の手で管理されるべきものが。引き取り手が無いのなら、供養をするなどして処分すればいいのに……。

 不意に、放課後洒落怖クラブでいつしか読んだ話を思い出した。きちんと仏壇を供養しなかったせいで、持ち主である一家が祟られたという内容の怖い話。

 とりわけ恐ろしさを感じた話ではなかったが、この仏壇も、もしかしたら―――。

 ブルッと身が震えて、思わず腕を抱えた。

 ……もう出よう、こんな薄気味の悪い場所。

 入って来た襖の方を向くと、

「ひっ……!」

 あるものが目に入り、ビクッと身体が跳ねた。

 襖の上に、遺影の額縁がずらりと並んでいたのだ。陰影の濃い白黒写真の中から、見たこともない老人たちが、真っ黒な目で私をじっと無機質に見下ろしていた。

 ―――見られていたのか。入った時からずっと。

 思わず、ジリリと後ずさりをした瞬間だった。右の方から、


 ——―キィィ……


 と、木が軋むような音が小さく聴こえた。恐る恐る、そちらへ顔を向けると、仏壇の扉が片方、開いていた。

「……え?」

 なぜ――さっきまで閉まっていたのに、と思ったのも束の間、もう片方の扉がキィィ……と開き、中からヌウッと何かが伸びた。

「……っ!?」

 それは、腕だった。血の気が失せ、肉が垂れた生白い腕が一本、仏壇の中――絶対にあり得ない場所から、現れていた。

 その生白い腕は、だらりと力なく下に垂れると、真下の畳をザリザリと撫ぜた後、ベタッ!と手を突いた。そして、もう一本が、同じようにヌウッと現れて、仏壇の真横にあった木の柱をベタッ!とはたいた。

 突然の、あまりに非現実的な出来事に動けないでいると、今度は二本の腕の間から、ズルッ……と、生白い塊——頭が現れた。 

 それは、まるで水を吸ったようにブヨブヨと膨れていて、頭髪は無く、肉が垂れ、目も鼻も埋もれて、大きな口だけが、どろどろと、糸を引きながら開いて、


 ——―ごぉおお……げぇ……げぁああっ!


 汁気を含んだ声で叫んだ。と同時に、その何かが仏壇からズルルッ、ベチャッ!と這い出てきた。人の形をしているが、確実に生きている人間ではない、何か。それが畳の上でぬらぬらと蠢き、私の方へ、ベチャベチャと這い寄ってきて―――、

「ひあああっ……!」

 悲鳴を上げたつもりが、喉が強張って、まともな声にならなかった。瞬間、ようやく身体が動き、弾かれたように和室から飛び出した。

 な、何だ、あれは!?——幽霊!?——いや、化け物!?——始めて見た――まさか――そんなはず――本当にいるなんて――でも――そんなことはいい!——とにかく――逃げなければっ!

 転がるようにドタドタと居間を駆け抜けると、開け放していた引き戸から廊下へと飛び出た。そのまま、光の差す玄関の方へ駆けて―――、


 ——―バンッ!


「ひっ!」

 すぐ目の前で、あの開かなかった襖が揺れ、咄嗟に足を止めた。まるで、何かが和室側からぶつかっているかのような―――、


 ——―バダンッ!


 再び、襖が揺れた。今にも外れそうなほどに。

 まさか、あの化け物が、こちらへ出てこようとしている?

 そ、そんな―――、


 ——―バダァンッ!


 手前の襖の真ん中辺りがボコッと盛り上がったかと思うと、表面がバリッと裂けた。そこから、あの生白い腕がぬるっと伸びて―――、

「あ、ああっ!」

 反射的に、廊下の奥へと駆け戻った。襖の前を通ったら、あの化け物に捕まってしまう!

 どこかから逃げなければっ、外へ出なければっ!

 バタバタと、未知の領域——廊下の突き当たりへ辿り着いた。咄嗟に、目に付いた正面の扉をこじ開けると、そこはトイレだった。窓はあるが、小さくて出られそうにない。

 ダメだ――扉を閉めると、右の方から微かに光が差しているのに気が付いた。見遣ると、扉が開いていたので、覗き込んでみると、そこは脱衣所だった。が、やはり小さい窓しかなく、その奥の、恐らく浴室であろう扉の向こうは、真っ暗だった。


 ——―げぇああっ!


「ひっ!」

 あの汁気を含んだ声がして、足が竦む。と同時に、ベチャベチャという音がこちらへ近付いて来ていることに気が付いた。

 まずいっ、まずいまずいまずいっ!

 他の出口をっ――と反対側を向くと、左手前の階段と、その奥の開き戸が目に飛び込んできた。慌てふためきながら開き戸に飛びつき、開くと、そこは―――、

「あ、ああっ、嘘っ……」

 真っ暗闇の、畳張りの部屋——納戸だった。

 どこにも窓が無い。私の家の納戸と同じように。つまり、出られない!

「そんなっ……!」


 ——―げごぁあああああああっ!


 また汁気を含んだ声がして、恐る恐る振り返ると、あの化け物がベチャベチャと音を立てながら廊下を這って来ていた。ブヨブヨとした生白い身体をぬらぬらと蠢かせて、匍匐前進のようにこちらへ迫ってくる。

「いやあああああっ!」

 最早、道はひとつしか残されていなかった。二階から外へ出られるのか、などと考える余裕も無く、私は這い上がるようにして、ドタドタと階段を駆け上った。

 一直線の急な階段を登り切ると、左側に廊下が短く伸びていた。手前に閉まっている扉があり、奥に開け放たれている扉があった。そこから光が差しているのが見え、反射的に手前の扉を通り過ぎて、奥へと転がるように向かった。

 とにかく、どうにか、逃げなければ、外へっ!

 部屋の中に飛び込むと、左側にあった窓へ飛びついた。カーテンを跳ねのけ、鍵を―――、

「……っ!」

 私の目に飛び込んできたのは、格子だった。窓の向こう一面に、錆びついた格子が檻のように張り巡らされている。

 出られない……?

 慌てて部屋を見渡すと、反対側の、アルミ製のベッドが寄せて置かれている壁に窓があった。咄嗟にそこに飛びつくが―――、

「あ、ああっ……!」

 そこにも、格子が張り巡らされていた。

 ——―嘘だ、そんな。

 絶望した瞬間、


 ——―ベチャベチャベチャッ!


 激しい水音が聴こえて、


 ——―げぇえっ、げぇあああっ!


 あの化け物が、気持ちの悪い呻き声を上げながら、部屋の中へと入り込んできた。

「うあっ、ああああっ……!」

 私は為す術も無く、部屋の奥の隅に追い詰められた。部屋の中は、アルミ製のベッドの傍に勉強机とカラーボックスがある程度でガランとしていて、身を守ろうにも、どうすることもできなかった。


 ——―げぇええあっ!


 化け物はズルズルとこちらへ這い寄ってくると、不意に目の前——部屋の中央で動きを止め、四つん這いになって身体を起こした。まるで、自分の悍ましい姿を見せつけるかのように。

 生白く、所々紫がかっている、ブヨブヨと膨れた身体。ぬめぬめとした質感の肌をしていて、体毛はどこにも見当たらず、得体の知れない透明な液体が、ねばねばとそこかしこから滴り落ちている。

 言葉を失っていると、その、明らかに生きている人間ではない異形の存在は、ブヨブヨと膨れ上がった喉を震わせて、


 ——―げっ、げっ、げあっ


 と、声を――笑い声を上げた。顔はぐずぐずに溶けた蝋燭のようになっていて、表情は読み取れなかったが、その声は確実に、私を追い詰めたことを嘲笑っていた。

「い……いやっ……いやあっ……」

 あまりの恐怖に、腰が抜けてへなへなと崩れ落ちた。理性が、今にも吹き飛びそうになっていた。

 ―――なんで。

 どうして、こんな、ことに、私は、これから、この化け物に、襲われて、死ぬのか?

 化け物が、今にも私に飛び掛かろうと、手足に力を込め、身体を震わせた。

 そんな……そんな……私は……もしかしたら……会えるかもと思って……いるのかもしれないと思って……探しに来た……だけなのに……私は……私はっ―――、


「優一くんっ……!」


 涙に滲む目を瞑り、心の奥底で追い求めていた人の名を叫んだ。

 瞬間、


 ——―げぎゃあっ!


 化け物の声がして、ベチャチャッ!という汁っぽい音が響いた――が、私の身には、何も起きなかった。

「……え?」

 恐る恐る、目を開く。

 涙が滲んで、視界がぼやけていたが――化け物が、なぜか部屋の右隅の方に倒れている。そして、化け物がいたはずの、部屋の中央に、誰かが立っている。


 ——―ゴツッ……ゴツッ……ゴツッ……


 その誰かが、重たく尖った足音を立てながら、近付いてきた。

 慌てて涙を拭い、顔を上げると―――、


「……オイ、ここで何してやがる」


 目の前に、あの刺青の男が佇んでいた。

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