十四 恐るべき者

 男は、先程までそこにいた化け物よりも異様な存在感を放ちながら、ぬらりと佇んでいた。昨日見た時と同じ服装で、ギラギラとした威圧的な格好だったが、サングラスは掛けておらず、眉間に皴を寄せ、切れ長の鋭い目で、じっと私を見下ろし、

「オイ、訊いてんだろ。なんでここにいる」

 が、それに答えたのは、


 ——―げごぁああっ!


 右隅の方にいた、化け物だった。体勢を立て直して四つん這いになり、まるで男を威嚇するかのように、汁気を含んだ声で吠えている。

「……チッ、うるせえな」

 男は気怠そうに化け物を見遣ると、徐に手に持っていた物——小瓶の蓋を、パキッと取り去った。その中身を、

「黙ってろ、ボケ」

 ビシャッ!と化け物に浴びせる。


 ——―げっ!げぎゃっ!げぇあああああっ!


 液体を浴びせられた化け物が悲鳴を上げ、床でビタビタとのた打ち回った。が、男はそれを気にする風でもなく、空になった小瓶をゴトンと床に放り、

「あぁ?クソッ、あいつ、汚しやがって……」

 と、右足を上げて、黒革のショートブーツを忌々し気に眺めていた。よく見ると、べっとりと得体の知れない粘液が付着している。

 ……私が襲われる直前、男が化け物に蹴りを入れて、右隅の方に追いやった?

 コツンと、力なく放り出していた足の先に何かが当たる。

 それは、ついさっき男が放った空の小瓶だった。

 青いシール……これは、ワンカップのお酒?

「オイ、さっさと答えろ」

 男が再度、私を睨んで言ったが、

「あ、あ……」

 わけの分からない状況に、言葉が出なかった。

 得体の知れない化け物に襲われたと思ったら、思いも寄らない人物が、目の前に現れて、撃退して―――、


 ——―げあっ!げごぁあああああっ!


 化け物が、吠えた。身体から肉が焼けるような音を立て、白い煙を上げながら、こちらを威嚇するかのように――いや、こちらではない。

 化け物は明らかに、男だけに敵意を向けている。ついさっきまで襲おうとしていた私のことなど、眼中にない。

 それどころか――男の存在を恐れ、怯えているかのようだった。

「チッ、消えなかったのか」

 男はそう吐き捨てると、デニムのポケットから何かを取り出し、胸の前に掲げた。

 それは――竹筒だった。コーヒー缶ほどの大きさの、表面がツヤツヤとした枯色の竹筒。

 その両端を掴み、引っ張ると、どういう仕組みなのか、竹筒がスライドして、中心にいくつもの丸い穴が生じ、


 ——―フィリィイイイイイッ!


 突如として、透き通った鈴の音を思わせるような高周波音が響き渡った。瞬間、


 ——―げぇ、げげっ、げぅああっ!


 化け物が、もがき苦しみ始めた。耳を塞いで、頭をブンブンと振り、部屋の隅へと後ずさっていく。

 まるで、響き続ける高周波音から遠ざかろうと、逃れようとしているかのように。

「持ってろ」

 男が突然、竹筒をひょいっと私に投げて寄こした。

「え、えっ?」

 慌てて受け取ると、男はデニムのポケットから、今度は濃青の瓶を取り出した。

 あれは、初めて会った時、首元に吹き付けていた香水——―、


 ——―げごぁああああああああっ!


 竹筒から響き続ける高周波音に耐えかねたのか、化け物は人間離れした動きでベタタッ!と背中から壁に張り付き、天井の隅にじりじりとよじ登った。男の方を見下ろし、身体を震わせて、威嚇している。

「ケッ、まだ消えねえのか、クソ野郎が」

 男は不意に、右の袖をグイッと捲くった。びっしりと刺青が入った、筋肉質な長い右腕が露わになる。そのまま、左手に持っていた香水を右腕全体にシュッシュッとまんべんなくふりかけながら、ゆらゆらと化け物に歩み寄っていった。

 私は呆然と、その後ろ姿を見つめていた。今、目の前で一体何が起きているのか、自分がどういう状況に置かれているのか、まったく理解できないでいた。

 だが、そんな混乱した脳でも、これだけはハッキリと分かった。

 ―――男が、この場を支配している。

 先程まで、化け物による恐怖で支配されていたこの部屋が、今となっては、男が支配する領域へと塗り替えられている。男が全身からギラギラと放つ、言い様のない異質な威圧感に蹂躙されたことによって。

「テメーみてえなのはさっさと――」

 男がじわじわと追い詰めるかのように、化け物の前まで迫った。瞬間、


 —――げげぇっ、げぇああああっ!


 逃げ場を失った化け物が、突如として男へ飛び掛かった。が、

「——消え失せろっ!」

 男は刺青だらけの右腕を鞭のようにしならせて拳を握り込むと、襲い掛かってきた化け物の下顎に向かって、勢いよく叩き込んだ。


 ——―げがっ!


「……っ!」

 息を呑んだ。

 叩き込まれた男の右腕は、化け物の下顎にめり込み、脳天へと突き抜けていた。そして、その拳は、中指だけが槍先のようにピンと突き立てられていて―――、


 ——―げぎゃっ、げぎゃあああああああっ!


 男の右腕によって宙に吊り上げられ、じたばたと暴れていた化け物が、断末魔のような叫び声を上げた。瞬間、


 ——―バヂュンッ!


 と、化け物の身体が破裂して、四方八方にビシャッ!と液体が飛び散った。

「きゃあっ!」

 思わず腕で顔を覆ったが、間に合わなかった。身体中に、どろどろとした粘液の飛沫を浴びていた。

 一体何が……と、粘液まみれの腕を眺めていると、男の方もべっとりと粘液まみれになっていることに気が付いた。構えられたままの右腕の肘から、ボタボタと粘液が垂れている。それだけでなく、男の足元や壁も、バケツで撒き散らしたかのように粘液の飛沫が飛んでいた。

「……ああ、マジかよ、クソッ」

 男は右腕を下ろすと、忌々し気にボソリと呟き、私をじろりと睨みつけた。

 いつの間にか、あの透き通った鈴の音を思わせるような高周波音は止んでいた。




「お前、ここで何してやがったんだ?」

 一度部屋から出て行ったと思ったら、またすぐに戻ってきた男は、タオルで顔を拭きながら訊いてきた。手には、あの大きな黒いトートバッグを提げていた。

「あ……あの……えっと……」

 私は相変わらず、部屋の隅でへたり込んでいた。ついさっきまで目の前で起こっていた出来事を、まったく理解することができず、まともな言葉が出てこなかった。

 そんな私を見かねたのか、男はトートバッグをドサッと床に置くと、中からタオルを取り出し、

「オラ」

 と、投げて寄こした。慌てて受け取ると、とりあえず顔を拭いた。そこでようやく気が付いたが、あの化け物が破裂した時に飛び散った粘液からは、酷い臭いがしていた。まるで、腐った魚の死骸を浸けておいた水から漂ってくるような生臭さが……。

「クソッ、あのバケモン、よりによって……」

 男はブツブツと言いながら上半身を拭いていたが、諦めたのか、急にぐっしょりと濡れた柄シャツを脱ぎ捨て、さらにその下に着ていた黒いタンクトップも脱ぎ捨てた。

「……っ!?」

 何だ、あれは……。

 男の両腕と、肩と、背中には、とてもヤクザやチンピラ――いわゆる反社会的な人間が入れるとは思えない、異様な柄の刺青があった。

 いや、柄というより、それは文字だった。ひらがなでもない、カタカナでもない、漢字でもない、まったく判読不能の奇怪な文字が、腕はびっしりと全体に、肩は胸板から肩甲骨の辺りを覆うように、背中はまるで背骨を沿うように、無数に彫られていた。

 それだけではなく、男の身体のあちこちには、切り傷のような痕や、火傷のような痕、赤黒い痣があった。細身の筋肉質の身体に、痛々しい傷痕がいくつも残っている。

「何、ジロジロ見てやがんだ」

 しゃがみ込んでトートバッグをゴソゴソしていた男に言われ、慌てて下を向いた。タオルで腕や足、服に付いた粘液を拭いながら、この男は一体何者なのだろうと考えていると、

「それ、返せ」

 と、男が手を差し出してきた。まだ拭き終わっていないのにと思いながら、粘液に濡れたタオルを差し出すと、

「違えよ。それだ」

 と、私がへたり込んでいる床を指差した。そこには、あの枯色の竹筒が転がっていた。どうやら、いつの間にか手放してしまっていたようだった。おずおずと、それを拾い上げて手渡すと、男は竹筒の両端を引っ張り、スポンッと二つに分離させて、中を覗き込んだ。

「あーあ、やっぱり死んじまったか」

 そう言うと、男は竹筒をひっくり返した。すると、中からポトッと何かが落ちて、


 ——―フィリ……リ……リィ……


「……!?」

 それは、今まで見たことがない虫だった。姿形は蟋蟀こおろぎに似ていたが、その身体は、まるで精巧に造られた繊細なガラス細工のように透き通っていた。

 床の上で弱々しくモゾモゾと蠢いていたその透明な虫は、やがて力尽きたのか、ピクリとも動かなくなった。かと思うと、突如として身体がサラサラと崩れ出し――みるみるうちに、ひとつまみほどの灰になってしまった。

「な……」

 唖然としていると、男は竹筒をトートバッグにしまい、代わりにゴソゴソと衣服を取り出し始めた。

「そういや、お前、さっき、って言ったな」

「えっ?」

 顔を上げると、男がこれまた派手な柄シャツに、袖を通している最中だった。紅い地に、孔雀のような鳥が羽ばたいている金色の和柄模様がプリントされている。まるで、煌びやかな掛け軸のような――いや、そんなことはいい。

 男の口から、優一くんの名が―――、

「知ってるのか、優一を」

「は……はい」

 おずおずと答えると、男は柄シャツのボタンを留めながら、

「あのクソガキ、今どこにいやがるんだ」

 しゃがんだまま、ズイッと詰め寄ってきた。

「ちょ……ちょっと待ってっ。さっきから何なのっ!?」

 とうとう、脳が不明瞭の過剰摂取を起こし、

「あなたっ、一体何者なのっ!?なんで優一くんのことを知ってるのっ!?ここに来た目的は何なのっ!?さっきのあの……化け物にやったことは何なの!?そもそも、あの化け物は何なの!?さっきの虫は何なの!?その刺青は何なの!?なんでここにいるのっ!?」

 次々と、つっかえていた疑問が口から溢れ出た。まくし立てるように喋ったせいで、言い切ると、はあはあと息が切れていた。

 そんな私とは対照的に、男は眉一つ動かさずにいた。が、不意にハッと短く息を吐くと、

「質問に質問で答えんじゃねえよ。俺が訊いてんのは優一の居場所だ」

 と、睨んできた。その威圧的な態度に、思わず息を呑んだが、私は心の中で小さく決意すると、必死に自分を奮い立たせて、

「さ、先に私の質問に答えてっ!じゃないと、優一くんのことは教えないっ……!」

 と、啖呵を切った。

 もちろん、それはハッタリだった。私は優一くんについて、何も知らない。たった今、男が持っていた写真の青年が優一くんだったという確証を、ようやく得たくらいだ。

 だが――いや、だからこそ、知りたい。優一くんについて。

 この家に来た目的も、そうだった。もしかしたら優一くんに会えるかもしれないという、淡く馬鹿馬鹿しい希望を抱いて、ここへ来たのだ。それらしき人影を見た。かつて住んでいた家に灯りがともっていた。そんな、ただの見間違いという言葉で一蹴されてしまうような根拠の下に。

 結果として、優一くんはいなかったが、尻尾を掴むことには成功した。この、何もかもが謎の男から、優一くんのことを聞き出せるかもしれない。もしかしたら、優一くん――ひいては山賀家が、六年前、急に村から姿を消したことについても。

 その為なら、嘘のひとつやふたつ―――。

「チッ……、どいつもこいつもクソガキかよ」

 男は諦めたのか、忌々し気に呟いて立ち上がると、

「こっちに来い。ここじゃ臭くて話にならねえ」

 トートバッグを引っ掴み、部屋を出て行った。

 私はよろよろと立ち上がると、震える足で、その後をついて行った。

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