二十六 あの夜の幻影

 ——―走っている。暗闇の中を、息を切らしながら、必死に。

 小さな灯りが、申し訳程度に目の前を照らしている。それを頼りに、走る、走る。

 感じているのは、怒りと、不安と、ほんの少しの恐怖。それらが混ざり合って、泣きそうになっている。

 行かなきゃ、あそこに行かなきゃ、話を聞いてもらわなきゃ。

 自分は、もう大丈夫なのだ。平気なのだ。良くなったのだ。

 だから、こうして走れているんじゃないか。

 後ろの方から、声がする。自分を呼ぶ声。

 でも、答えない。分からず屋には、答えてあげない。

 走って、走って、着いた。この上にいるはず。

 石段を上って――苦しい。胸が痛い。でも、大丈夫。自分の身体は、もう良くなったんだから。

 はあ、はあ、はあっ。

 上り切った。早く、行かなきゃ、追いつかれちゃう。

 火だ、明るい。扉は閉まってるけど、きっと中にいるんだ。

 早く、話を聞いてもらわなきゃ。

 また石段を上って、扉を、開けて。

 ―――パパっ、ママっ。

 はあ、はあ、はあっ。

 ……パパ?ママ?

 なんで、パパが倒れてるの?

 どうして、ママが服を脱いで、藁のお布団に寝てるの?

 ママの向こうにも、倒れてる人がいる。

 白くて、バカ殿様みたいな恰好——あれは、辰巳お兄ちゃんのお爺ちゃん?口から、ぶくぶく泡を吹いてる。

 それを村の男の人たちが、囲んで座ってる。けど、なぜか、みんな、あっちを向いてる。

 ……何が起きたの?

 パパの傍に、お椀が落ちてる。ひっくり返ってて、床が濡れてる。パパの前のお膳に、変なぐるぐる模様の白い土瓶が乗ってる。

 まるで、いつかのお正月にお酒を呑み過ぎて、ぐうぐう寝て、ママに怒られてた時みたい。

 パパ、起きてよ。何か、変だよ。

 ねえ、ママ。なんで、裸になってるの?周りに、村の男の人たちがいっぱいいるのに。恥ずかしいよ。ほら、なんだか、みんな気まずそうにしてるよ。真由美お姉ちゃんのお父さんも、酒屋のおじちゃんも、太ってるおじちゃんも、あっちを向いてる。

 ママ、起きてよう。お膳が二つあるけど、もしかしてママも、お酒吞んじゃったの?

 ママっ、ママっ。

 …………何があったの?何をしてたの?

 ねえ、パパ、ママ。

 ……なんで、誰も喋らないの?

 ……怖い、怖いよ。

 みんなで、何をしてたの?

 ……いや。

 村の人たちに、何をされてるの?

 ……いや、いやあっ。

 あっ、お兄ちゃんっ。

 ねえねえ、なんか変なの、怖いの。みんな喋らなくて、パパと、ママが……。

 ……誰?あの、向こうにいる人。

 手前にいるのは、辰巳お兄ちゃんのお父さんだけど……。

 ゴリラみたいに大きな身体。あっ、もしかして、辰巳お兄ちゃんの叔父さん?

 でも、なんか、髪が真っ白で凄く長いし、顔には変な白いお面を着けて——―、


  ——―げぇええぁああああああああっ!


 ひっ……!

 な、何が――苦しいっ……助けて、動けない、息ができない。

 パパっ、ママっ、お兄ちゃんっ。

 う、うあっ……。


 ——―ドタッ……


 ……倒れちゃった。

 痛い、苦しい、怖い、助けて。

 ……ミルク?いつからいたの?

 私みたいに、倒れて――死んでるの?

 お面の人が……辰巳お兄ちゃんのお父さんを突き飛ばして……こっちに来る……いや……来ないで……。

 ……ママを、見下ろしてる?


 ——―ばぎゃっ……


 あっ……やめて……ママの頭を……踏まないで……。

 ううっ……ママ……血が……。


 ——―ガチャンッ、ガラガラッ……


 お膳を蹴散らして……こっちに来る……。

 パパっ……起きてっ……逃げてっ……。

 やめてっ……パパまでっ……。


 ——―ぼぎゃっ……


 うああっ……パパっ……首が……。

 ……いや……来ないでっ……。

 いや……いやあっ……来ないでえっ……。

 お兄ちゃんっ……助けてえっ……。

 お兄ちゃ――、


 ——―ぐぎゃっ……


 …………何も……見えなくなった……真っ暗に……なった。

 お兄ちゃんが……叫んでる……気がする。

 お兄ちゃん……逃げて。

 お兄ちゃん……、

 お兄ちゃん、

 お兄ちゃん、

 お兄ちゃん、

 お兄ちゃん、

 お兄ちゃん、

 お兄ちゃん―――。




 ―――——―お姉ちゃん、助けて。

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