二十四 視えるサングラス
川津屋敷の入り口——門の前で、コソコソと身を縮める。
家からここまで来るのに一分とかからなかったが、とてつもない肝の冷えようだった。なにせ、公民館の前を通らなければならなかったからだ。
もし見つかったら、今度はきっと、どんな言い訳も通用しないだろう。何を勝手なことをしていると、一方的に雷を落とされるに違いない。
ともかく、見つからずにここまで来れてよかった。走り抜ける為に、サンダルではなく靴を履いてきた甲斐があった。肝心の公民館は扉が閉まっていたし、外には誰の姿も無かったが、素早く行動するのに越したことはない。
しかし、うかうかとしていられない。今度は、土蔵まで向かわなければ……。
あれからあれこれと考えた末に、私が出した結論はこうだった。
鳳崎という人間の本質はともかくとして、まずはお社に何があったのかを訊き出す。その後、鳳崎を信じるかどうかの判断をする。
とてつもなく、怖かった。豹変した鳳崎と対面することも、訊き出すことも。
それでも、優一くんをどうにかして救わなければ。その一心が、私を突き動かしていた。
門の影から、中の様子を窺う。屋敷の敷地内には、誰の姿も無い。
中にも、誰もいないだろうか?母は、みんなで集まって話をすると言っていたが、その〝みんな〟に、辰巳は含まれているのだろうか?
竹筒を入れていない方のポケットから、携帯を取り出す。電話して、それとなく確認してみようか……いや、もっと簡単な方法がある。
目の前の門に備えられていたインターホンを押した。屋敷の方から、微かにピンポーン……という音が聴こえる。
もし誰かいるのなら、出てくるはずだろう。何せ、この事態なのだ。来客には過敏になっているはず。
……誰も出てこない。どうやら、辰巳も公民館に行っているらしい。
だとすると、一体どういったことを話しているのだろう。私を差し置いて。村の人たちは、私に何を隠しているというのだ。
疑問というよりは憤りに近いものを感じながら、サクサクと砂利を踏んで土蔵へ向かった。件の格子窓には目を向けないようにして、扉の前へ辿り着く。
取っ手に両手を掛け、ギイイ……と、重たく古めかしい木の引き戸を半分ほど開くと、するりと中へ入り込んだ。埃っぽい空気が、ふわっと身体に纏わりつく。
土蔵の内部は、思いのほか明るかった。格子窓から差す光が、隅々まで行き届いている。壁が漆喰の白塗りなことも手伝っているのだろう。足元は外の地面と地続きのコンクリートで、砂埃が溜まっている。
特段、異様な雰囲気ではなかった。目に付いたのは、黄色いプラスチック製の漬物樽に、茶色い瓶。肥料袋や竹ザル。鍬、鎌、鉈などの農機具が掛けられている棚に、木製の、確か千歯扱きという名だった古めかしい農具。その隣にあるのは、これまた古めかしい足踏み式の脱穀機。そういった物々が、埃を被ってひしめき合っていた。正に、田舎の家の土蔵の中といった光景だ。
左側の壁中央に、まるで舞台幕のように張られている白幕と、正面奥の柱に縛り付けられた状態で項垂れている鳳崎を除けば。
だが、視界に入るなり、思わず息を呑んで目を見張ったのは、白幕の方だった。
一面に、水墨画のような趣きで、大蛇が描かれていたからだ。
墨の濃淡だけで妙に生々しく描かれた大蛇は、身体をグネグネとうねらせて、白幕の中を縦横無尽に這い回っていた。布地は古めかしい質感だったが、普段から手入れされているのか、それなりに白さを保っている。一見すると、荘厳な掛け軸のようにも見えた。
それにたじろいでいると――藁縄によって黒茶色の太い柱に後ろ手の状態で胴体をぐるぐると縛られ、砂埃だらけの地面に胡坐をかいていた鳳崎が、ゆっくりと顔を上げた。
「……お前か」
また、息を呑んだ。
鳳崎の顔には、痛々しく痣が浮いていた。左目の周りと両頬、口元が、赤黒く腫れ上がっている。ぴっちりと撫でつけられていたオールバックの髪も乱れていて、毛の束がいくらか前へと垂れていた。が、それでもなお、切れ長の目には鋭い眼光が宿っていた。
「な……何をされたの?」
「見りゃ分かんだろ。縛られて、殴られたんだ」
「な、なんでそんなことっ……警察は?義則さんが呼んだんじゃ――」
「来ねえよ。殴られながらあれこれ訊かれたが、あいつら、警察沙汰にはしたくねえみてえだった。どうするつもりなのか知らねえが……クソッ」
そう言うと、鳳崎はペッと赤い唾を吐いた。
「で、何しに来やがった。助けに来たのか?」
「そ、そうだけど、その前に、教えて」
私はゴクリと唾を飲むと、
「……シラカダ様のお社で、何を見たの?」
訊いたが、鳳崎は答えようとしなかった。伏し目がちに、何かを逡巡しているかのようだった。
「お願い、教えて」
震えた声で続けると、
「……覚悟はあるか」
「え?」
「お前の身に、お前が育ったこの村に、何があろうと、それを受け止める覚悟はあるか」
鳳崎は顔を上げて、真っ直ぐに私を見つめていた。その眼光は、やはり鋭かったが、どこか……憂いを湛えているように映った。
「……うん」
拳を握りしめながら頷くと、鳳崎は少しの間、黙り込んだ後、
「……そこに、俺のバッグがある」
顎で、左手前をしゃくった。おずおずとそこへ行くと、農具の影になっていて分からなかったが、鳳崎のトートバッグが落ちていた。
どうやら中身を検められたらしく、その周りに様々な物がひっくり返したように散らばっていた。ワンカップの瓶に、漫画雑誌、ウォークマンが繋がった黒いヘッドホン、大小の竹筒に、開かれた黒革の長財布、衣服やタオル類が入っているらしき、くしゃくしゃのビニール袋、濃青の香水の瓶など……。竹筒は開けられているものもあり、口から白い灰が零れ出ていた。なんとなく、何が起きたのかを理解していると、
「サングラスが、どこかにあるだろ」
言われるがままに探すと、漫画雑誌の裏に、あのティアドロップのミラーサングラスが落ちていた。
「これが、どうしたの?」
「それを持って、あそこに行け」
「えっ……」
あそこ、とはまさか……、
「お社に、行けって言うの?」
「ああ」
「で、でも、危険なんじゃ……」
「中に入ったところで、死にはしねえ。っつうより、何も危険はねえが、あそこには——」
そこまで言うと、鳳崎はなぜか口を噤んだ。
「……何があるっていうの」
恐る恐る訊いたが、鳳崎は、
「……そのサングラスには、俺の気が染みついてる。掛ければ、霊感の無いお前にも、この世のモンじゃねえ奴がそれなりに視えるようになるはずだ」
「えっ……」
「ここじゃ掛けるな」
制され、慌てて開いていたつるを折り畳んだ。
そうだ。ここには、久巳さんの霊が今も……。
「中に入ったら、それを掛けろ。そして……手を繋げ」
「……どういうこと?」
「行けば分かる。それで、全部分かるはずだ」
それだけ言うと、鳳崎は口を噤んでしまった。
手の中のサングラスを見つめる。
……お社の中で、これを掛けて、手を繋ぐ?
意味が分からない。危険は無いとしても、それで何が分かるというのだろう。
再度、鳳崎を見た。が、これ以上告げることはないとでも言いたげに、俯いている。
「……分かった」
踵を返し、土蔵から出て行こうとすると、
「オイ、行く前に俺を自由にしていけっ」
背中に声をぶつけられた。私は振り返ると、
「……戻ってきたら、解くから。まだ、あなたのことを完全に信用したわけじゃない」
そう言い残し、土蔵から出て重たい扉を閉めた。その間も、鳳崎は先に縄を解いていけと喚き続けていた。
いそいそと川津屋敷の門から出ると、公民館の方を窺った。
どうやら、まだ集会は行われているらしい。となれば、今の内に坂を上ってお社へ……。
ふと、託されたサングラスを見つめた。まるで派手好きの芸能人が掛けているような、ティアドロップのミラーサングラス。
本当に、これを掛けたら幽霊が視えるのだろうか?鳳崎の気が染みついているらしいが、一体どういった原理なのだろう。
つるを開くと、恐る恐る掛けてみた。途端に、真夏の太陽にジリジリと照らされた眩しい景色が、輪郭を保ったまま暗くなった。
……別に、何も視えない。
視界が暗くなっただけで、妙なモノの姿は見当たらなかった。
騙されたのだろうか?やはり、鳳崎は信用するに値しない人間だったのだろうか?
落胆しながら、外そう――として、
「……?」
ふと、頭原へ続く坂道の途中に、何かが揺らめいているのが見えた。それは、一見すると陽炎のようだったが、白く、小さく、まるで、もやのようで―――。
サングラスを外した。眩しい視界が戻り、坂道の途中には……何もいなかった。
だが、もう一度サングラスを掛けてみると、
「あっ……」
そこにはやはり、白いもやのような影が小さく揺らめいて……いや、あれは―――、
「……ミルク?」
ぼんやりとした白く小さな影には、尻尾があった。黒いぶち模様も、ピンと立った耳もあった。それは確実に、猫の姿——かつて朽無村に住み着いていたミルクの姿だった。
そんな、まさか……と、息を呑んでいると、ミルクはゆらりと尻尾を振り、トテトテと坂を上り始めた。そのまま、あっという間に石段の前に辿り着くと、軽やかに上って行ってしまった。
「あっ、待っ……」
ようやく我に返り、慌てて後を追った。坂道を駆け、石段を上ると、石造りの道の向こう、鳥居の下辺りに、ミルクがいた。ちょこんと座り、こっちを見つめている。
試しにサングラスをずらしてみると、やはりミルクの姿は見えなくなってしまった。
「ミルク……」
六年前、あの日の夜を境に、ミルクは村から姿を消した。
もしかしたら、とは思っていた。でも、そういう風には考えないようにしていた。気まぐれなミルクのことだし、どこか別の場所へ行ってしまったのだろうと。
だが……死んでいたのか。人知れず、ひっそりと。
そして、このサングラスも、鳳崎の言う通りに、掛けたらこの世のものではないモノが……。
しかし、なぜあんなにもぼやけて視えるのだろう。あの家で遭遇した化け物は、裸眼でもくっきりと視えていたのに、ミルクは、やけに希薄な姿をしていた。薄ぼんやりとしていて、吹けば消えてしまいそうな……。
やはり、ゼンマイ道で鳳崎から聞いていた通り、幽霊——怪異というものは、不確定な存在なのだろうか。はっきりとした定義が無く、こちらの常識が通用せず、それぞれ性質も違う――と、その時、レンズ越しに、ミルクが鳥居の向こうへ歩いて行くのが見えた。慌ててきちんと掛け直すと、ミルクはトテトテとお社の石段を上っていき、入り口の扉の前で、不意にこちらを向いた。
〝こっちだよ〟
まるで、そう言われているかのようだった。促されるままに、お社の方へと歩いて行く。
そういえば、六年前のあの夜も、ミルクを追いかけるようにして、ここへ―――。
「……ねえ、ミルク。あんたも何か――」
知っているの?と言う前に、ミルクは閉まっている扉へ、するりと溶け込んでいってしまった。まるで、それが当たり前のことのように、造作も無く。
「……っ」
石段の手前で、思わず足を止めた。
ミルクが、中に入って行った。お社の、中へ。
土蔵で聞いた、鳳崎の言葉を思い出す。
〝中に入ったところで、死にはしねえ。っつうより、何も危険はねえが、あそこには——〟
何がある?何が待ち受けている?
〝お前の身に、お前が育ったこの村に、何があろうと、それを受け止める覚悟はあるか〟
……怖い。けど、覚悟があるから、ここまで来たのではないか。
意を決して、石段を上った。あっという間に、扉の前へと辿り着く。
さっきは、人任せにして逃げた。何度も覚悟をしておきながら、結局は怖くて逃げた。
でも、今度は、今度こそ。
手を伸ばし、扉の取っ手に触れた。錆びて乾いた、冷たい金属の感触。それを掴むと、ギイイッ……と引いた。
そして、そのまま私は、一切が未知の、恐怖の領域へと、踏み込んだ。
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