三十 夏休みと、幼少期の終わり

 やがて、九月一日がやってきて、私は二十数日ぶりに外へ出ることを許された。

 久しぶりにランドセルを背負って、妙に白々しい態度の家族に見送られながら家を出て、村の景色を眺めながら坂道を下った。青々としていた棚田は、稲穂が垂れてすっかり色褪せ、一面が渇いた淡黄色になっていた。

 村の家々も見てみたが、窓が塞がれている様子は無く、別に何も変わりはなかった。村の人には会わなかったが、別段変わりのない、いつも通りの、九月の朽無村の風景が広がっていた。

 バス停まで行くと、辰巳がいた。休み明けはいつもギリギリにやってくるのに、私より先にいるのが不思議だった。

「……辰巳」

 声を掛けると、辰巳はむっつりと下を向いた。いつも落ち着きがなく、騒がしい辰巳が、ずっと俯いて黙り込んでいるのを変に思った。

「ね、ねえ。辰巳は、サトマワリの次ん日から、外に出られたと?それとも、休みん間、ずっと家におったと?」

 訊いてみたが、辰巳は顔を上げなかった。よく見ると、肩が小刻みに震えていた。まるで、何かに怯えているかのように。

 私は諦めて、他の人が来るのを待った。ところが、今日から小学校に通うはずの優一くんたちが、いつまで経ってもやってこなかった。それどころか、絵美ちゃんと由美ちゃんも、姿を現さなかった。

 やがてバスが来て、私は辰巳と二人だけで乗り込んだ。もしかしたら、優一くんたちは初登校なんだし、車で早めに学校に行っているのかもしれないと思った。絵美ちゃんと由美ちゃんは寝坊か、中学校は今日まで休みなのかもしれないと思った。バスの中でも、辰巳はずっと黙って俯いていた。

 学校に着くと、教室で朝の会が始まるのを待った。きっと、優一くんが先生と一緒に入ってきて、挨拶をするのだと思っていた。

 ところが、担任の先生は一人で入ってきた。日焼けしたみんなの顔を見渡し、「みなさん、たくさん遊びましたか?先生は……」と、話を始めた。それから、いつものように朝の会が始まった。その後、始業式が体育館で始まったが、優一くんも陽菜ちゃんも現れなかった。

 あっという間に一日が終わり、私は帰り際に、先生に尋ねてみた。

「あの、今日から転校してくるはずの山賀優一くんって……」

「転校?……ああ」

 先生は思い出したように、

「そうそう、二学期から転入してくる子が二人いるって、夏休み中に聞いてたんだけど、そのお話ね、急に無くなったみたいなの。先生も詳しいことは聞かされなかったのに、真由美さん、よく知ってたね」

 愕然とした。そんなはずはないのに。優一くんたちは、今日から転校してくるはずなのに。確かに、そう言っていたのに。

 転校が取り消された理由を訊いてみたが、先生はまったく事情を知らないようだった。

 釈然としないまま、バスに乗って帰った。行きと同じく、辰巳はずっと黙って俯いていた。

 朽無村に着くと、辰巳を誘って尾先の集落へと立ち寄ってみた。山賀さんの家の前まで来ると、私は再び愕然とした。

 家の前にあの白いワンボックスカーは停まっておらず、玄関に掲げられていたはずの真新しい〝山賀〟の表札が無くなっていた。奥さんが手入れをして綺麗になっていたはずの庭先は、また雑草が伸びて荒れ放題になっていた。

 試しにチャイムを鳴らしてみたが、誰も出てこなかった。というより、人の気配がまったく感じられなかった。物干し竿に洗濯物は掛けられていなかったし、家中のカーテンが閉め切られていて中の様子は分からなかったが、やけにしんとしていて物音ひとつしなかった。

「……帰ろ」

 辰巳に言われて、トボトボと尾先の集落を後にした。その日初めて、辰巳の声を聴いた気がした。

 家に帰ると、家中の窓の鎧戸が開かれていて、一面を塞いでいた木板も、ひとつ残らず取り外されていた。

 その日の夕食時、私は、

「……ねえ、山賀さんたちって――」

「引っ越した」

 父が、食い気味に答えた。

「ひ、引っ越したっち、どこに?」

「……元おった名古屋に、戻ることになったっち言よった」

「な……なんで?」

「仕事ん都合らしい。えらい急やったけど、帰らんと悪くなったらしい」

 そう言うと、父は缶ビールを不味そうに煽った。祖母も母も、黙々とご飯を食べていた。私はそれ以上、山賀さんたちについて訊くことができなかった。重苦しい空気になった食卓は、それ以降誰も喋ろうとしなかった。




 やがて、なんてことのない日常が戻ってきた。

 家族とは、サトマワリや山賀さんたちのことについて話さなければ、いつも通りの会話ができるようになった。笑い合い、気兼ねなく冗談を言い合える食卓が戻ってきた。

 辰巳も、段々と元の辰巳に戻ってきた。快活なガキ大将じみた振る舞いをするようになり、しょっちゅう口喧嘩をした。でも、見つめ合って話していると時折、顔を赤くしてフッと背けるようになった。

 村の大人たちも、何事もなかったかのように暮らしていた。九月の半ばになると稲刈りの季節になり、みんな汗を流しながら、忙しそうに田んぼで働いていた。すれ違うと、わざとらしく感じられるほどに、みんなニコニコと声を掛けてきた。

 一度だけ、こっそりと頭原まで行ってみたが、遠目に見る分には、シラカダ様のお社にも、何も変化は起きていないようだった。

 何もかも、元通りの日常が朽無村に――いや。

 私が家に籠っている内に、朽無村の様相は少しだけ変わっていた。

 久巳さんは、亡くなったのだと聞かされた。患っていた病気のせいで、家で静かに息を引き取ったのだという。お葬式は、川津家の人間だけで執り行われたらしかった。不謹慎だが、曲がりなりにも村長みたいな人だったのに、やけにあっさりした死に際だなと思った。

 久巳さんがいなくなったせいなのか、義則さんは尾先の集落から川津屋敷に戻ってきたようだった。普段は警察の仕事が忙しいのか、滅多に見かけることは無かったが、家にいると時折、義則さんが乗っている黒いシーマが騒々しく坂道を上ってくる音が聴こえてきた。

 雅二おじちゃんは、やけにやつれていた。丸々と膨らんでいた頬がこけて、太鼓のように張っていたお腹がしぼんでいた。まるで、一気に十歳ほど老け込んでしまったように見えた。以前と変わらず、気さくに話しかけてこそきたが、その顔はいつも赤黒かった。ぷんぷんとお酒臭い日もあり、田んぼでしょっちゅうオエエッとえずいているのを目にした。

 河津酒屋の絵美ちゃんと由美ちゃんは、市内の親戚の家に引っ越したのだと聞かされた。スパルタと言っていたバドミントンの部活に専念する為らしかった。確かに、バス停で立ったまま寝てしまうほど疲れるのだから、朽無村から通うよりも中学校に近い市内で暮らす生活の方が、体力的な負担は少なくなるだろうと思った。いずれ通うことになる中学校のバドミントン部って、よっぽどの強豪なのだなあ、とも。

 尾先の集落は、山賀家も義則さんもいなくなったことで、完全に無人になった。誰もいなくなったせいで、ありとあらゆるものがゆっくりと朽ちて荒れていき、前よりも薄気味の悪い場所に変わり果てていった。

 そして、ミルクがいなくなった。

 サトマワリの日の夜に見て以来、ミルクの姿を、村のどこにも見かけなくなった。

 だが、変化という変化はそれくらいで、そのどれもが、あくまで日常の範疇に収まるような出来事ばかりだった。

 サトマワリの日の夜に経験したような、日常を逸脱した非現実的な出来事は、以降何も、一度たりとも、起きなかった。

 その証拠といっていいのか、次の年から、ごく普通にサトマワリが催された。

 先駆けの役割が義巳さんに代替わりし、義則さんも参加し、雅二さんが後備えを担い、祖母が巡り唄の音頭を取って。

 それぞれがそれぞれの役割をきちんと全うして、何事も無く夕の儀を――だが、村の人たちはどこか、機械的にサトマワリを執り行っているように見えた。みんな、「やった所で無駄なのに……」とでも言いたげな顔をしているように見えた。

 村に新たに人が来ることは無かったので、宵の儀が行われることは無かった。まるで、そんな催しなど、そもそも無かったかのように、夕の儀だけが、粛々と執り行われていった。

 次の年も、その次の年も、その次の年も、その次の年も―――——。

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