二十九 後の祭り
次に気が付いた時、私は家の風呂場にいた。浴槽の中で、裸になって座り込んでいた。膝を抱えて震えている私に向かって、祖母が泣きながら生温いシャワーを浴びせていた。
祖母からは何事か声を掛けられていた気がするが、私はただ呆然と黙り込んでいた。洗い場の洗面器の中に泥だらけの私の服があったから、祖母が脱がしてくれたのだろうか。
どこをどうやって家に帰って来たのか、まったく記憶が無かった。あの田んぼのあぜ道で、悲鳴を上げて駆け出したところまでは覚えているが、それ以降のことは覚えていない。暗闇の中、泥だらけになって走ったような気もするし、坂道をトボトボと歩いたような気もする。
祖母に身体を洗われながら、ぼーっと俯いていると、浴槽の底を、泥と、草きれと、私の血が混ざり合った汚い水が流れていった。それが排水溝へゴボゴボと吸い込まれていくのを、じっと見つめていた。
風呂から上がると、寝間着に着替えさせられた。そのまま、祖母の寝室になっている和室の横の納戸に連れて行かれ、祖母の布団で寝かせられた。が、酷く疲れてぐったりしていたのに、なぜか寝入ることができず、布団の中で、ずっと夢うつつのような状態でうなされていた。
しばらくすると、家の中が騒々しくなった。閉め切られている襖越しに、気配で父と母が帰って来たのだと分かった。
次いで、祖母と父と母が言い争っている声が聴こえてきた。はっきりとは聞き取れなかったが、どうやら祖母と母が父に対して、一体何があったと詰問しているようだった。が、
「お前たちは何も知らんでいいき黙っとれっ!」
という父の怒鳴り声を最後に、襖の向こうはしんと静まり返った。
父は普段、滅多に怒ることなどないのに。そんな言葉遣いも、するはずがないのに。
途端に、私はまた怖くなって、ぶるぶると震えだして、必死に身を縮めていると――いつの間にか気絶するように眠っていた。
目を覚ますと朝になっていて、私が寝ていた布団の傍、箪笥にもたれかかるようにして、父が寝ていた。それがなぜだか無性に怖くて、毛布をかぶったまま縮こまっていると、襖が開く音がした。
真由美、真由美、と呼ばれて恐る恐る布団から顔を出すと、家族全員が布団の傍に座り、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。母が私を優しく抱き起こして、祖母から大丈夫かと声を掛けられた瞬間、私はなんだか、何もかもが元通りになったような気になり、わんわんと泣き出してしまった。
ひとしきり泣き、また寝かせられていると、母がおかゆを運んできた。食べ終えた後に母から、私の身体に起こった変化は、何も問題が無いことなのだと教えられた。私はその時初めて、ぼんやりと概念だけ認識していた生理というものが、自分の身体に訪れたのだと気付かされた。
母がお盆を持って出て行き、その後を追うように祖母が出て行った。父と二人きりになり、怖々としていると、父は優しい口調で――だが、眉をひそめながら、「昨日ん夜、何があった?」と問いかけてきた。
私がむっつりと黙り込んでいると、父は心配そうに私を見つめてきた。その目はどこか、何かに対して怯えているように映った。私よりも、父の方が怖々としているように感じた。
私はしばらくの間、迷っていたが、やがて正直に、優一くんたちを追って家を抜け出したことを打ち明けた。懐中電灯を携えて、シラカダ様のお社まで向かったと。
そこまで話すと、父が突然、私の肩を掴み、
「真由美、お前、中にっ……鳥居を超えたんかっ、お社ん中を覗き込んだんかっ?」
と、慌てた様子で訊いてきた。
私はその剣幕に思わず、
「は、入っちょらん。鳥居ん前まで行ったけど……変な声が聴こえて、怖くなって、逃げた。そ、そしたら、慌てちょったから、転んで、田んぼに落ちて……」
と、嘘をついた。
なぜだか、一歩だけ鳥居を超えたことと、お社で見た一連の出来事を正直に話すのは、よくないことのような気がした。
父はじっと私の目を見つめていたが、やがてほっと息をつき、
「ああ……ならいい……」
とだけ、呟いた。よほど安心したのか、全身の力が抜けたようで、ぐったりと項垂れていた。
私は反対に、
「……昨日ん夜、何があったん?」
と、訊いた。それとなく、優一くんたちはお社の中へ入ったのかも訊いてみた。
が、父は、酷く悩まし気な、やりきれないような表情になると、
「……今は何も言えん」
とだけ、零した。目頭を押さえて肩を落とす父を前に、私もそれ以上、何も言えなかった。父と話している間、ずっと襖の向こうで祖母と母が佇んでいる気配があった。
その日は安静にしておくようにと言われて、そのままずっと納戸から出ずに、寝て過ごした。納戸には窓が無かった為、壁の掛け時計だけが私に時間の経過を知らせてくれた。傍にはずっと祖母がついていて、ドクダミ茶を飲ませてくれたりした。
祖母にも「昨日、仏壇の前で何をしていたの」と訊くことはできなかった。なぜだか、父に対しても、祖母に対しても、機会は無かったが母に対しても、昨日の夜のことを問うてはいけない気がした。
追究したが最後、これまで、この朽無村で過ごしてきた平穏な日常を終わらせてしまうのではないか―――。
そんな不安が胸の中で絶えずざわめいていた。
そして、なぜか一日中、家のあちこちでカン、カン、と釘を打っているような音が聴こえていた。
次の日の昼頃になると、体調はすっかり良くなった。祖母から、納戸から出ていいと言われ、階段を上がって自分の部屋に戻ると、愕然とした。
部屋の窓を、木板によって塞がれていた。一筋の光も差してこないほど、僅かな隙間も穴も無く、完全に。
木板は外から打ちつけられているようで、押しても叩いてもビクともしなかった。困惑していると、父が上がってきて、
「……今日から、夏休みが終わるまで、絶対に外を見たらならんぞ。外に出ることもならん」
と、暗い表情で零した。
そんな、何で、どうして、と訊く前に、父は部屋を出て行ってしまった。呆然としていると、入れ替わりで母が入ってきて、
「これ、欲しがっちょったやろ?」
と、前に一度だけねだったことがあるニンテンドーDSと、そのゲームソフトを置いていった。
まるで、「ずっと家にいることになるだろうから、その代わりだ。これで我慢しろ」と言われたようだった。
普段だったら飛び上がって喜んでいたところだったが、私はそれらの封も破らず、困惑しながら下に降りた。すると、真昼だというのに、一階はやけに薄暗く感じられた。
居間へ行くと、その理由が分かった。
居間、台所、和室の窓という窓が、すべて塞がれていた。鎧戸が備えつけてある窓はそれが閉め切られ、無い窓は私の部屋同様に、外から木板が打ちつけられていた。まるで、過剰な台風対策でもしているかのように。それだけではなく、廊下も、洗面所も、トイレに至るまで、家中のありとあらゆる窓が、ひとつ残らず塞がれていた。
わけが分からず、玄関まで向かうと、三和土で祖母がかがんで何かをやっていた。祖母は私が来たことに気付くと、私の下まで来て、
「真由美、絶対に外に出たらいかんきな。ああ、ごめんな、ごめんなぁ、許してなあぁ……」
と、泣きながら抱きしめてきた。
祖母の肩越しに玄関を見ると、扉にはめ込まれている磨りガラスの窓は唯一塞がれていなかったが、その下には小皿が置かれていて、塩が盛られていた。
それから、私は言われた通りに、残りの夏休みを家から一歩も出ずに過ごした。
有り余る膨大な時間を、ほとんど自分の部屋で消費した。ゲームをしたり、宿題をしたり、本を読んだりして。
最初の内は良かったが、すぐに息が詰まった。陽の光を浴びずに部屋でじっとしていることが、こんなにも苦痛で退屈だとは思わなかった。
五日ほど経った時、私は食事の際に、恐る恐る訊いてみた。「……外に出たら悪いと?」と。
その瞬間、家族全員の箸が止まった。父も母も祖母も黙り込んで沈痛な面持ちになり、途端に食卓の空気が重苦しくなった。
やがて、父が、
「……ならん」
下を向いたまま、ボソリと呟いた。
「で、でも、お父さんもお母さんも出よるやんか」
私は怖々しながらも反論した。現に、父も母も頻繁に外へ出て行っていたからだ。家にはずっと祖母が、まるで私の見張り役のようにいたが、その祖母も母が代わりに家にいる時は、外へ出て行くことがあった。
もちろん、それは仕事や買い物の為だったのだろうが、なぜ家族の中で私だけが外へ出てはいけないのだろうと、薄々不服に思っていた。
「お父さんたちは問題ねえけどな……真由美はならん。絶対に外に出たらいけん……」
「な、なんで――」
「絶対にならんっ!」
父が怒鳴り、食卓は水を打ったように静かになった。私は黙り込むことしかできなかった。母も祖母も、ずっと俯いていた。
父は顔を赤くしていたが、やがて、眉をひそめて、
「……すまん、真由美。でも、外に出たらいけん。絶対に……」
と、頭を抱えながら謝ってきた。
それでも、私は諦めることができず、
「……窓から外を見てもいけんと?」
と、泣きそうになりながら訊いた。
すると、父は顔を上げ、遠い目をしながら思い詰めたように考え込んだ後、
「……シラカダ様がな――」
「和成っ」
厳かに切り出した父を、祖母が制した。祖母は――母も同様に――何かに怯えているような表情を浮かべていた。
が、父は二人を見遣った後、何かを示し合わせたかのように小さく頷き、
「……子供がシラカダ様に会うたらいけんのは、知っちょるやろ」
「う……うん」
「やから、外に出たらいけん。大人やったら何ともねえが、真由美はまだ子供やから……もし、シラカダ様に会うたら、目が合うてしもうたら……恐ろしいことになる。やから……絶対に外に出たらいけんし、窓から外を見てもいけんのや……」
そう重々しく言うと、父は力なく黙り込んだ。祖母も母も、顔を伏せて黙り込んでいた。
父の言葉が何を意味しているのか、理解できるようで、できなかった。いや、理解することが、恐ろしかった。
だから、私も同じように、黙り込むことしかできなかった。
次の日、母が新しいDSのゲームソフトを買ってきた。
それ以来、私は外に出たいと願うことを諦めた。
長い長い夏休みだった。ただひたすら、自分の部屋で時計の針が進むのを眺めていた。宿題は恐ろしいほど早く終わり、母が買ってきてくれたゲームもあっという間にクリアしてしまった。
辰巳や優一くんたちと立てていた遊びの計画は、すべておじゃんになった。みんなで頭沢でサワガニ釣りをする約束も、夜の紅葉原で花火をする約束も、街の市民プールに行く約束も、映画館にポケモンの映画を観に行く約束も、果たされることはなかった。
お盆も、何も無かった。母の実家がある大分市へお墓参りに出掛けることも無かったし、公民館で行われる盆踊りも無かった。去年に尾先の杉本さんが亡くなっているので、初盆の行事として行わなければならないはずの年だというのに。
ラジオ体操も、サトマワリの日の朝に行ったのが最後になった。八月九日以降の欄に、スタンプが押されることはなかった。家の裏手に置いていたゴーヤの観察日記も、花が咲いた以降は様子が分からず、書けなかった。その二つの宿題だけが、ずっとできずに残っていた。
一日だけあった小学校の登校日も、休むことになった。電話口でその旨を学校に伝える母の声を扉越しに聴きながら、階段に座り、辰巳も休むのだろうかと考えていた。
辰巳の家の電話番号は知っていたが、掛ける気にはなれなかった。山賀さんちの電話番号は知らなかった為、私は完全に外部との接触を絶ったまま過ごすことになった。
何度も、家から抜け出そうと思った。その度に、父の怒鳴り声と、力なく項垂れながら言われた言葉を思い出して、諦めた。それでも陽の光が恋しくなり、時折玄関に行っては、唯一塞がれていない扉のはめ込み窓を見つめていた。磨りガラスから差し込む陽の光と、白くぼやけて見える外の景色が、日々の励みになった。
一度だけ魔が差して、玄関の扉に手を掛けたことがあった。外に出たいというよりも、家の中からでもいいから外の景色を見たいという欲に駆られてのことだった。
だが、どういう仕組みになっているのか、内鍵は開いているというのに、引き戸はビクともしなかった。まるで、外から別の鍵を掛けられているかのように。
それでもどうにか開けようと試みていると、帰って来た父と鉢合わせてしまった。慌てて扉から離れ、もにょもにょと、出迎えをしにきたと嘘をついた。が、考えていたことを見透かされたのか、父は無言で私の手を掴むと、家の奥へと引っ張っていった。
その時、父の着ていた作業着が、やけに煙臭かったのが気になった。まるで、焚き火の煙でも浴びてきたかのようだった。まだ稲刈りの時期ではなく、野焼きや藁焼きをするはずがないというのに。
やがて、祖母の寝室である納戸へ連れて行かれると、
「……ここにおれ。絶対に、外を見たらいけんからな」
と、無気力に、だが、どこかもの悲しそうに呟いて、襖を閉められた。
一人、取り残された私は、暗闇の中にいるのが怖くなり、慌てて電灯の紐を引っ張った。途端に、パチパチという音を立てて灯りが点き、納戸が光で満たされた。
その時、ふと気が付いた。
なぜ、この納戸には、窓がひとつも無いのだろう。
あまりに身近過ぎて、今まで疑問に思うことなど無かったが、普通は壁が外部に面している部屋ならば、窓がひとつくらい設けられるはずではないか。それがなぜ、どの壁にも、明り取り窓すら無いのだろう。襖を閉めたら、真っ暗闇になってしまうではないか。
なぜ、窓が……いや。
窓を、わざと設けていないのか?
外を、見れないように――外から、見られなくする為に?
何から?
それは……。
不意に、背中に冷たいものが走り、それ以上考えるのはやめにした。父に言われた通り、その日は夕食に呼ばれるまで、納戸で過ごした。
その次の日、外へ出掛けようとする父に、祖母がしきりに線香の束を持たせようとしているのを、物陰から目撃した。
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