二十八 襲い来る恐怖

 義則さんはしかめ面をして、忌々し気に辰巳の手を引っ張っていた。辰巳は今にも泣きそうな顔で、ずるずると引きずられていた。

 ……さっき、悲鳴を上げて、お社から飛び出して逃げたのは、辰巳?それを追いかけたのは、義則さん?

 そんな、まさか。宵の儀は、大人たちだけで行われていたはずでは……。

 もしかして、辰巳はあの時――坂道で交渉していた時に、参加することを認められていたのだろうか?でも、お社に子供が入ったら、シラカダ様に対面したら、酷い罰が当たるとされていたはずでは……。

 義則さんはそのまま石段を上ると、入り口の前で辰巳を打ち捨てるように放り出した。辰巳は声も上げずに、縁側の床にドタッと倒れ込んだ。

 息を呑んでいると、お社の中から義巳さんが現れた。かと思うと、辰巳を見るや否や、肩をわなわなとさせながら、カッと目を剥いた。傍に居なくとも、とてつもない怒りに震えているのが分かった。

 床に倒れていた辰巳は、義巳さんが来たと分かると、土下座をするかのようにビクビクと縮こまった。が、不意に義巳さんが手を伸ばし、肩を掴んで辰巳を無理矢理立たせると、

「お前は……何をしよるかぁっ!」

 バチンッ!と、頬をひっ叩いた。

 辰巳が吹っ飛び、縁側にまたドタッと倒れ込んだ。そこでようやく、辰巳はわあわあと声を上げて泣き出した。

 わけの分からない状況に困惑していると、義巳さんが、今度は義則さんに、

「お前もっ……なんちゅうことをしたっ!自分のしたことが分かっちょるんかっ!」

 と、食って掛かった。が、義則さんは、義巳さんの胸ぐらを掴み、

「俺がやったっちゅうんかっ、ああっ!?俺のせいじゃねえやろうがっ!そもそも、親父があげなこと言い出さんけりゃあ、それを俺が止めんけりゃあっ――」

「やからっちゅうて、あげなやり方があるかっ!あげなっ……これから村がどうなるか、分かっちょるんかっ!シラカダ様が――」

「じゃあどげえすりゃあ良かったんかっ!ああする以外に、なんか方法があったっちゅうんかっ!」

「やからっちゅうてっ……親父をっ……」

「どうもこうもならんかったやろうがっ……」

 激しい言い争いの後、二人は俯いて、言葉を詰まらせていた。やり場のない怒りや後悔に、苛まれているかのように。

 そのまま、しばらくヒリついた沈黙が続いたが、やがて義巳さんの方が顔を上げ、覚悟を決めたような表情で、

「ともかく、どげんかするぞ。親父はともかく、山賀さんたちを……」

 と、呟くと、義則さんをお社の中へと押しやった。そして、ずっと床に突っ伏して泣いていた辰巳の手を引っ掴むと、お社の中へ引きずっていった。辰巳は泣き叫びながら逃れようと抵抗していたが、大人の力には敵わず、無理矢理連れ込まれていった。

 辰巳の泣き叫ぶ声が響く中、お社の扉がギイイッ、バタンッ……と閉められた。それっきり、扉が開く気配はなかった。

 外に誰もいなくなると、私はいてもたってもいられず、恐る恐る馬酔木の影から出た。鳥居の下で、シラカダ様のお社を前に、不穏にまみれたいくつもの疑問が、頭の中をぐるぐると渦巻いていた。

 中で何が起きたのか。

 あの得体の知れない叫び声は一体何だったのか。

 山賀さんたちは、優一くんたちは中でどうしているのか。

 逃げ出そうとした辰巳はどうなってしまうのか。

 ざわめきから聴こえてきた〝こんなことが〟〝まさか〟〝許されない〟〝死んだ〟という言葉。

 そして、義巳さんたちの言い争いの中での〝これから村がどうなるか〟〝シラカダ様が〟〝親父はともかく、山賀さんたちを……〟という言葉は、一体何を意味しているのか―――。 

 その間も、ずっと辰巳の泣き叫ぶ声が、お社の中から響いていた。それを聞いていると、自分の中で、絶対に崩れないと信じていたもの――朽無村という日常が、バラバラに瓦解していくのを感じた。

 嫌だ、そんな、なんで、どうして、こんなことが―――。

 未経験の恐怖に襲われて、息が上がり、身体が震えた。頭が爆発しそうなほどに熱を発し、下腹部の鈍痛がズキンズキンと増していった。

 と、その時、


 ——―うぁああああああああああああっ!


 お社の中から、辰巳の絶叫が響き渡った。さっきまで聴こえていた泣き叫ぶ声とは違う、逃げ出す直前に上げていた悲鳴とも違う、絶対的な恐怖に対面して、気が触れてしまったかのような絶叫が―――。

 それが鼓膜を震わせた瞬間、私は一目散に逃げ出していた。感情や思考ではなく、本能がそうさせていた。石造りの道を飛ぶように駆け抜け、石段を二段飛ばしで下りていると、ようやく置かれている状況に感情が追い付いたのか、目に涙が滲んだ。熱を帯びた頭の中に散らかっていた、いくつもの不穏な疑問が、たったひとつの感情の波によって押し流されていた。

 絶対的な恐怖という感情に。

 逃げなきゃ、逃げなきゃ……!

 逃げないと、私はきっと、辰巳のように、おかしくなってしまう……!

 石段を下り切ると、そのままの勢いで坂道を駆け下った。懐中電灯を点ける余裕も無かった。真っ暗闇の中を、息を切らして一目散に走った。

「はあっ、はあっ……!」

 川津屋敷の前をぐるりと曲がり、公民館へと続く坂道を下って―――、

「ひっ……!」

 私はあることに気付いて、足を止めた。

 暗闇の中、坂道の中腹辺りに、謎の黒い影があった。それは地面の上を這うように蠢いていて―――、

「げぇっ……げぇえあああっ……」

 あの得体の知れない声と、似た響きの呻き声を上げて―――、

「う……うぁああっ!」

 私はか細い悲鳴を漏らすと、踵を返した。下ってきたばかりの坂道を駆け上り――咄嗟に、川津屋敷へと飛び込んだ。

 他に逃げ場が無かった。また上へ戻れば、あの恐怖が待っている。かといって、あの得体の知れない影の横を通る気にもなれなかった。

 ああっ、どうしよう。慌てて入ってしまったが、恐らく誰もいない。家には灯りがともっていないし、川津家の人が出払っているのはこの目で確認したのだ。もし、いたとしても、助けを乞う気にはなれない。どうすれば……。

 私はおろおろとしながらも、とりあえず懐中電灯を点けた。丸い灯りで辺りを照らしたが、広々とした屋敷の庭先にぽつんと一人で立っているのは、酷く気味が悪かった。一刻も早く、ここから出て行きたい衝動に駆られる。

 川津屋敷は家の周りをぐるっと板塀で囲っていたはずだ。さっき入ってきた正面の入り口以外に出られる場所は……。

 ―――あっ。

 そうだ、確か、建屋の裏手の方に畑に出る戸口があったはず。

 そこから逃げれば……いや、逃げられるのだろうか。来たのは随分と前のことだ。一度だけ、そこで辰巳と遊んでいて、久巳さんに見つかって酷く叱られ、追い出されて……そんなことは思い出さなくていい。畑の方から私の家へと帰れるのだろうか……。でも、そこ意外に出る場所は……。


 ——―げぇ……ぁああ……


「……っ!」

 ヒュッと喉が鳴った。

 今の声は……。


 ——―ぁあ……げぁ……


 まさか、あの黒い影がここへ……!?

 咄嗟に、入って来た入り口の方へ懐中電灯を向けた。しかし、そこには何の姿も無かった。

 どこだ、どこで声が……!


 ——―げぁああっ


 ……上?

 声のした方へ、懐中電灯を向けた。照らした先に会ったのは、白い漆喰の壁。屋敷の建屋とは別にある、土蔵だった。

 恐る恐る、懐中電灯の灯りを、上に―――、


 ——―げぁああああっ


「ひっ!」

 懐中電灯の灯りが、土蔵に設けられた明り取り用の格子窓を照らした。ガラスの張られていない、白塗りの格子が縦に三本通されているだけの窓。

 そこから、こちらを覗き込んでいる顔があった。両端の格子を握り、隙間からこちらを食い入るように見下げていたのは――久巳さんだった。口を、裂けるのではないかというほど大きく開き、


 ——―げぇああああああああっ!


「うああああああっ!」

 私は弾かれたように、屋敷の方へ駆け出していた。

 なんで、どうして、久巳さんがっ!お社にいたはずではなかったのか!?いや、でも、姿を見たわけでは、それに、もしかしたら、いや、そんなはずは、でも、でも、あの久巳さんは、絶対に生きている人間じゃない!

「はあっ、はあっ!」

 暗闇の中を、無我夢中で駆けた。屋敷の裏手へ、板塀沿いに、走って、走って、戸口を見つけて、跳ね飛ばすようにそれをこじ開けて、畑へ飛び出して――ここから、どこかから、逃げなければっ!

 なりふり構ってはいられなかった。広々とした畑の中を無造作に突っ切り、植わっている何らかの野菜を踏みつけ、下の方を目指した。

 どこでもいい、下へ向かえば私の家がある。棚田の縁を下りて突っ切れば、私の家が。

 暗闇の中、ただひたすら、息を切らして、下へ、下へ―――、

「うあっ!」

 一心不乱に踏み出していた足が、不意に沈み込んだ。と思ったら、身体がガクンッと前へつんのめった。バシャンッと水音がして、胸と腹と腿に衝撃が走り――落下したのだと理解した。

「ううっ……」

 痛い……。腹を打ちつけたせいで、息が上手くできない。服が濡れている。持っていたはずの懐中電灯がない。そこら中で、カエルがグワグワと鳴いている。

 身体中の痛みを堪えて、顔を上げた。手前に、懐中電灯が転がっている。その灯りが、放り出された私の右腕を照らしている。その右腕が、半分水に浸かっている。ここは……。

 辺りを見渡すと、私が倒れていたのは棚田の脇のあぜ道だった。土手のように田んぼの水を遮っている所へ落ちたらしい。地面の水はけが悪いのか、田んぼの外だというのに、水たまりができていて沼地のようになっている。

「う……ううっ……」

 どうにか身体を起こして、這うように懐中電灯を拾った。

 逃げなきゃ、家に、帰らなきゃ……。

 よろよろと立ち上がると、下腹部が爆発を起こしたように重く痛んだ。足に、力が入らない。服が濡れたせいで、気持ちが悪い。自分の身体を照らしてみると、泥や草きれが足にべったりとへばりついていて―――。

「……え?」

 履いていた短パンの裾から、ぬるりと血が垂れていた。泥水に混じって、太腿の内側に、赤い筋がぬらぬらと這っている。

 ……怪我をした?まさか、そんな。

 血を見た途端に、下腹部に感じていた鈍痛が増幅した。内側から殴られているかのような気持ち悪い感覚が、じわじわと広がっていく。

「い……いやっ……」

 泥だらけの手で拭ったが、真っ赤な血は絶えずドロドロと短パンの裾から垂れ続けて、止まらなかった。

 慌てて傷口を探したが――それが、どこから出ているのかを突き止めた瞬間、

「……っ!?」

 何だ、これは、一体、私の、身体に、何が、起きて、私は、死ぬのか、死んでしまうのか―――。

「いっ……いやっ……いやあっ……!」

 恐怖に駆られた私を嘲笑うかのように、そこら中で無数のカエルが鳴いていた。

 グワグワグワと、ゲアゲアゲアと。

 それが、まるで、あの得体の知れない声と同じように感じられて―――、

「いやぁあああああああああっ!」

 私は、悲鳴を上げて、半狂乱になりながら、暗闇の中、転がるように、田んぼのあぜ道を駆けて―――。

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