十六 打ち解けた一日
「今日はごめんね」
中原の坂道を下りながら、私は再度、優一くんに謝っていた。
「いや、大丈夫だよ。いつものことだったし」
優一くんは、なんてことないよという風に笑うと、前の方で辰巳と話をしている陽菜ちゃんを見つめた。二人はなぜか、トリビアの泉というテレビ番組の話題で意気投合し、盛り上がっている。
「……僕ね、不安だったんだ。陽菜が、他の人と上手くやっていけるか」
突然、優一くんは物憂げな表情を浮かべて語り始めた。
「陽菜って、昔から目が離せない子だったんだ。勝手にあっちこっち行っちゃって。買い物に行っても、しょっちゅう迷子になっちゃってさ。それで、知らない人に囲まれたら、怖くなって泣いちゃうんだ。だから、知らない人だらけの所に引っ越したら、どうなっちゃうんだろって不安だったんだけど……」
不意に、優一くんは私を見て、
「真由美ちゃんたちがいてくれたおかげで、大丈夫みたい。ありがとう」
と、笑いかけた。途端に、私は言い様のない感情が胸の内から湧き上がって、顔の表面が仄かに熱くなるのを感じた。
まただ。優一くんを初めて目の前にした時と同じ感情が……。一体、何なのだろう。恥ずかしさとも違う、後ろめたさとも違う、このもどかしいような感情は……。
「そ、そんなことないよ。陽菜ちゃんがいい子だから……」
しどろもどろに謙遜していると、いつの間にか尾先の集落の前まで辿り着いていることに気が付いた。瞬間、私はあることを思い出し、顔からサアッと血の気が引いていくのを感じた。
——―義則さんが、帰っているのではないか。
昼過ぎにここへ来た時、私は思い出したくもないこと――件のトラウマを思い出して、嫌な気持ちになっていた。
義則さんは、五軒並んでいる尾先の集落の、一番奥の家に住んでいる。普段は帰っていることが滅多にないが、今日は確実に、この朽無村にいるのだ。
目を瞑って、お願いだからいませんようにと願った。もう、あんな思いはしたくない。一日に二度も、あんな思いをするなんて嫌だ。
お願いだから、お願いだから、お願いだから―――、
「ここまででいいやろ?」
「うん。大丈夫」
辰巳と優一くんの会話が聴こえて、恐る恐る目を開けると、尾先の集落が広がっていた。その奥の――家の前に、義則さんの車である黒いシーマは停まっていなかった。
ほっと、胸を撫で下ろした。車がないということは、村にいないということだ。恐らく、出掛けているのだろう。
「それじゃな。本当に、明日からラジオ体操来るん?」
「うん、行くつもりだよ」
「うえーっ。ようやるね」
辰巳がおどけていると、優一くんは陽菜ちゃんの手を取って、
「じゃあ、また明日ね」
「じゃあね、お姉ちゃんっ」
「うん。じゃあね」
家に帰っていく二人を、手を振って見送った。陽菜ちゃんは、繋いでいない方の手で、大事そうに笹舟を持っていた。
見送り終わると、私と辰巳は向き直って、坂道を上り出した。
「なあ、真由美。なんで、あいつらと話す時、東京弁になるん?」
「東京弁?」
ああ、標準語のことを言っているのか、と理解した。
そういえば、確かに。なぜ、私は優一くんたちと話をする時、標準語になっていたのだろう。
「分からん。なんでやろ」
答えると、普通に方言に戻っていた。なぜだろう。相手が辰巳だからだろうか。
「あいつら、俺たちの言いよること、分かっちょったんかな?」
「分かっちょったっちゃないと?何も訊かれんやったし」
話をしていると、なぜか方言で話していることが恥ずかしくなった。
優一くんたちが前に住んでいた愛知県にも、方言があるのだろうか。いや、でも、優一くんたちとの会話の中で、それらしい言葉は聞かなかった。都会に住んでいる人は、方言など口にしないのだろうか。
「そうやな。その内、優一たちも俺たちと同じ話し方になるんかな」
「……なんか嫌」
「なんで?」
不思議そうに言う辰巳に、私は、
「なんか分からんけど、嫌っ」
と答えて、パタパタと坂道を駆け上った。競争だと思ったのか、後ろから辰巳が「待てやっ」と言いながら、ザリザリとサンダルを鳴らして楽しそうに駆けてくるのが聴こえた。
その日の夜、父が一番風呂から上がって食卓に着き、夕食が始まると、私は今日の出来事を嬉々として家族に語って聞かせた。
「それでね、陽菜ちゃんと手を繋いだと。私のこと、お姉ちゃんっち言ってくれてね。楽しかったぁ」
「良かったねぇ。友達が増えてから」
祖母が、コリコリとたくあんを噛みながら微笑む。
「おう。まさか、朽無村に人が増ゆるとは思わんやった。最近は減るばっかりやったきなあ。嬉しかろ、同年代ん子が増えて」
そう言うと、父は「おい、塩コショウ」と、母に呼びかけ、ぐびりと缶ビールを煽った。
「うん。陽菜ちゃんがおるき、嬉しい。今まで、辰巳しかおらんやったき」
「はっはっは。そうやなあ。女ん子の友達がおった方が色々となあ」
私は噛んでいたご飯を呑み込むと、
「陽菜ちゃん、可愛かったぁ。妹がおったら、あんな感じなんかなあ」
と、その時、塩コショウを手に戻ってきた母が、
「……妹、欲しかった?」
と、訊いてきた。
「ううん、どうやろ。陽菜ちゃんくらい可愛かったらいいけど、生意気やったら嫌だ」
素直に答えると、父は、
「なぁに。兄弟がおっても、あんまりいいもんやねえぞ」
と零し、おかずの鶏肉のソテーに塩コショウを振りかけて頬張った。
「そうなん?」
「おう。一人っ子ん方が、色々と都合よくいくもんよ。兄弟がおったっちゃ、そげんいい思いはできんし、しっかり者にならんきなあ」
そういうものなのだろうかと思いながら、お茶碗にこびり付いたご飯粒をひとつひとつ箸の先でつまんだ。食べ終えて、最後に麦茶を呑もうとすると、母がそれに気づいたのか立ち上がって、冷蔵庫へと向かった。
「ねえ、ちゅうちゅうアイスある?」
ついでに訊いてみると、母は振り向かずに、
「あるけど、食べるなら半分こせなばい。お腹壊さんように」
「はぁい」
ふと、つけっぱなしにしている居間のテレビを見ると、千葉県で起きた地震のニュースをやっていた。あちこちで被害が出たが、幸いにも死者は出ていないという内容だった。
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