十五 笹船レース

 辰巳を先頭にして、勢いよく小道から飛び出した私たちは、石段の前を通り過ぎて、バタバタと坂道を駆け下りていった。

 野土の川津屋敷の前の折り返しを、勢いを殺さないように走って曲がっていると、後ろに優一くんが走っている姿が見えた。その後ろに、やや遅れながらも一生懸命についてきている陽菜ちゃんの姿があった。

 走っている内に、なんだかわけもなく楽しくなってきた。サンダルを履いているせいで、足を踏み出す度に足の裏が叩きつけられたようにヒリヒリと痛んだが、そんなことが気にならないくらい、気分が高揚していた。

 あっという間に坂道を駆け下りると、公民館へと飛び込んだ。そのまま、裏の紅葉原へと回る。

 ここも、私たちの遊び場だ。さっきの頭沢が秘密の遊び場なら、ここは公共の遊び場とでもいうべきだろうか。

 公民館の裏庭のような場所で、ちょっとした広さがあって、地面には小学校のグラウンドと似たような土が敷かれている。以前は、ここで村の人たちがゲートボールをしていたが、今はする人がいなくなったので、ほとんど空き地のような状態になっている。それで、私たちはここを公園代わりに使っているのだ。紅葉原と呼ばれているのは、きっと周りを紅葉の木で囲まれているからだろう。

 そこを抜けてさらに奥、紅葉の林の中へ行くと、沢がある。さっきの頭沢の水が、山の斜面に沿って緩やかに流れながら、ここまで続いているのだ。

「はあっ、はあっ、来たっ?」

 切れた息を整えながら、一足先に着いていた辰巳に訊いた。

「はっ、はっ、いや、まだ来てねえ」

 せせらぎを聴きながら、沢の上流を見つめる。ここへ来るまでに、いくつも水の落ち込みがある為、無事に流れてくる確率は五十パーセントといったところだ。

 できることなら、転覆しないで無事に辿り着いてほしい。陽菜ちゃんの喜ぶ顔が見たいのだ。例えひとつでもシダの葉の笹舟が流れて来れば、それが私のであろうと、陽菜ちゃんのであろうと、関係ない。「これは陽菜ちゃんの笹舟だよ」と言って、喜ばせてあげられる。

 早く流れてこないものか――と、その時、優一くんたちがいつまで経ってもやって来ないことに気が付いた。

 一体、どうしたのだろう。私のすぐ後ろを走っていたはずなのに。

「あっ、どこ行くん」

 今か今かと待っている辰巳を置いて、公民館の表の方へ戻った。ここへ来るのは見えていたはずだから、見失うわけが……。

 ——―あっ。

 私の目に飛び込んできたのは、公民館の手前で力なくしゃがみ込んでいる陽菜ちゃんと、それを抱きかかえるようにして介抱している優一くんの姿だった。

「陽菜っ、大丈夫?」

 優一くんは、慌てた様子で陽菜ちゃんが首から下げていたポーチの中から、何かを取り出していた。

「だっ、大丈夫?」

 慌てて駆け寄ると、優一くんがポーチから取り出したものを振って、ケホケホと咳き込んでいる陽菜ちゃんに咥えさせていた。

 それは、L字型の吸入器だった。それを見てようやく、私は陽菜ちゃんが喘息を患っていたことを思い出した。

「陽菜、吸って」

 陽菜ちゃんは苦しそうに、吸入器を咥えて息を吸っていた。小さな肩が、ふるふると上下に震えているのを見ていると、可哀相でたまらなくなった。

「はい止めて、いち、に……吐いて。大丈夫?もう一回?」

 優一くんは慣れた様子で、陽菜ちゃんを介抱していた。顔には緊迫感があったけれど、その仕草は落ち着いていて、しっかり者のお兄さんといった頼もしさに溢れていた。

「はい……。陽菜、大丈夫?」

 落ち着いてきたのか、陽菜ちゃんはこくこくと頷いた。でも、その真っ赤な顔は今にも泣き出しそうに歪んでいて、満ち溢れていた無邪気さは消え失せていた。

 呆然と立ち尽くしていた私は、ようやく、

「ゆ、優一くん。こっちにベンチがあるから、座って休む?」

「うん。ごめんね。陽菜、立てる?」

「……うん」

 陽菜ちゃんは優一くんに肩を抱えられて、よろよろと立ち上がった。そこへ、

「なんしよるんっ、着いたばい、笹舟っ」

 と、辰巳が苛立ちながら現れたが、私たちを見て何かを察したようで、むっつりと黙り込んだ。




「ごめんなさい……」

 公民館のベンチで休んでいる陽菜ちゃんと優一くんに謝りながら、私は申し訳ない気持ちで一杯になっていた。

 事前に知っていたのに。陽菜ちゃんが喘息を患っているということを。それをすっかり忘れて、走ることを強いてしまったのだ。

 笹舟レースをしようと言い出したのは、私だ。私が提案したくだらない遊びの為に、陽菜ちゃんが辛い思いをしたかと思うと、とても平静ではいられなかった。申し訳なくて、自分が情けなくて、涙が出そうだった。

 何が、しっかり者だ。何が、お姉さんだ。私は、馬鹿だ。優一くんの足元にも及ばない、馬鹿だ。気を付けなくてはいけなかったのに。命に関わることだったかもしれないのに。

 きっと、陽菜ちゃんの両親、山賀さんたちから怒られてしまう。うちの子に何をするのと。どうして走らせたりしたのと。

 私は……私は……。

「大丈夫だよ、お姉ちゃん」

 俯いていた顔を上げると、陽菜ちゃんが無邪気さを取り戻した顔で笑っていた。

「ごめんね。陽菜ね、走ったりすると、たまにああなっちゃうの」

 その顔は、まるで私のことを責めている風ではなかった。いつものことだからと、なんてことないよと、言いたげだった。

「違うの、私が笹舟レースしようなんて言ったから……」

「大丈夫だよ。陽菜も、もう落ち着いてるし」

「うん、もう大丈夫!」

 二人から優しい言葉を掛けられて、沈んでいた私の心はほんの少しだけ軽くなったが、なんと切り出していいか分からず、また俯いていると、

「それより、笹舟来たばいっ」

 と、辰巳が裏の方へ駆けて行った。と思ったら、すぐに戻ってきて、

「ほれっ」

 差し出された手には、シダの葉が挟まっている笹舟がひとつだけ乗っていた。

「ずっと見よったけど、これしか流れてこんやった」

「これって、真由美ちゃんと陽菜ちゃんのじゃないの?」

「……うん。でも、これ、私のじゃない。多分、陽菜ちゃんのだよ」

「ホント?やったぁ!」

 陽菜ちゃんは目を耀かせながら、辰巳の手から笹舟を受け取った。その時、私はあることに気付き、喜ぶ陽菜ちゃんから辰巳の方へ顔を向けた。すると、辰巳はなぜか、顔をフイッと逸らした。

 この笹舟は、私のものではないし、陽菜ちゃんのものでもない。多分、辰巳が作ったものだ。

 私が目印にしたシダの葉は、濃い緑色をしていた。ところが今、陽菜ちゃんの手の中の笹舟に挟まっているシダの葉は、黄緑色だ。

 恐らく、辰巳は陽菜ちゃんに気を遣って、その辺に生えていたシダの葉を毟って挟んだのだろう。

 負けず嫌いで幼い性格の辰巳が、こんなことをするなんて。陽菜ちゃんが辛そうにしているのを目の当たりにして、心が揺れ動いたのだろうか。

 表情を見て確かめようとしたが、辰巳は一向にこっちを向かなかった。きっと、慣れないことをしたせいで、気恥ずかしいのだろう。

「陽菜ちゃんのだけが、無事に辿り着いたんだね」

 そう言って、暗に辰巳に示し合わせていると、

「ねえねえ、みんなのは?」

 と、陽菜ちゃんが訊いてきた。

「多分、どこかに引っ掛かっちゃったんだよ」

「ええーっ。ねえねえ、もう一回しよっ」

「ダメだよ陽菜。今日はもう走っちゃダメ」

「やだっ、もう一回したいっ」

「陽菜っ」

 優一くんが陽菜ちゃんを諭していると、不意にミャアアという鳴き声がした。きょろきょろと辺りを見渡すと、坂道の下の方からトテトテと上ってくるミルクの姿があった。

「あっ、猫!」

 頬を膨らませていた陽菜ちゃんの顔が、ミルクの登場によって綻んだ。

「あの猫ね、ミルクっていうの。全然懐かない野良猫で……」

 朽無村の一員として紹介しようとしていると、ミルクは私たちの方をじっと見つめた後、公民館の敷地へと入ってきた。そのまま、私たちがたむろしているベンチの前へとやってくると、お腹を地面にぺたんと付けて寝そべった。

「可愛いー!ミルクっていうの?ミルクぅ」

 陽菜ちゃんが名前を呼ぶと、ミルクはぴこぴこと耳を震わせて、ミャアと返事をするように鳴いた。なぜか、逃げ出す様子もなく、くぁっと口を大きく開けて欠伸までしている。

「嘘ぉ……」

 ミルクのこんな姿を、今まで見たことがなかった。煮干しをチラつかせても、食べ終えたらすぐに去ってしまうのに。いつもの野良猫らしい警戒心はどこへいったのだろう。

「ミルクっ、ミルクっ」

「あっ、陽菜っ」

 撫でようと、かがんで手を伸ばした陽菜ちゃんを、優一くんが止めた。

「触っちゃダメだよ。また喘息が出ちゃうかもしれないだろ」

「……むうー」

 陽菜ちゃんが残念そうに口を尖らせた。すると、ミルクはミャアアッと鳴いて立ち上がり、尻尾をフリフリと揺らした。まるで、陽菜ちゃんだけにサービス精神を発揮しているかのようだった。

「ミルクがこんなに人に懐いてるの、見たことない」

「そうなの?」

「おう、このバカ猫、俺にも懐かんっちゃん」

「バカ猫じゃなくてミルクっ」

 辰巳に渇を入れていると、ミルクは気持ちよさそうに伸びをした後、トテトテと裏の紅葉原の方へ去って行ってしまった。

「バイバイ、ミルクぅ」

 陽菜ちゃんが手を振ってミルクを見送ると、

「ミルクにはね、たまに煮干しをあげてるの」

「俺も一回、よっちゃんイカやったことある」

「猫って、よっちゃんイカ食べるの?」

「食ったばい。おやつカルパスも。でも、チョコバットは食わんやったな」

「バカ辰巳、猫はチョコ食べたら悪いんよ」

「バカっちなんかや!」

「陽菜はね、キティちゃんのマシュマロが好きっ」

 と、たわいもない会話が始まった。陽菜ちゃんのこともあって、私はその場から動き出そうとしなかったし、普段はせわしない辰巳も「どっかいこ」とは言い出さなかった。

 それから、あれやこれやと色んな話題で盛り上がりながらベンチで楽しく話し込んでいると、いつの間にか長い時間が過ぎていたようで、五時のチャイムが鳴り響いた。

 ふと、空を見上げると、真上にあったはずの太陽が、いつの間にか傾いた位置に移動していた。ジリジリと照り付けていた陽射しが弱まり、色んなものの影が濃く長くなって、夕方の気配が漂い始めている。

 朽無村は周りを高い山に囲まれている為、陽が沈むのが少し早いのだ。例え夏であろうと、五時を過ぎれば辺りが段々と薄暗くなってきてしまうほどに。

「えっと……もう帰ろっか」

 なぜか、そうしなければいけない気がして、私たちは示し合わせたかのようにベンチから立ち上がった。その瞬間、遠くの方で、カナカナカナカナ……と、ヒグラシが鳴き始めるのが聴こえた。

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