七 挨拶

「まったく、女ん子に泥を付ける奴があるか」

「わざとじゃねえっち、言よるやろっ」

 私と辰巳は、義巳さんに連れられて坂道を下っていた。辰巳が小突かれているのは、さっき私が、肩が汚れている理由を説明したせいだ。

「ごめんな、真由美ちゃん。辰巳ん奴は、後でまた叱っちょくきな」

 義巳さんが、やれやれといった感じで私に謝った。

「大丈夫ばい。そげん汚れちょらんし」

「ほら、真由美もこげん言よるし」

「バカタレ、それをお前が言うな」

 二人の会話がおかしくて、私はケラケラと笑った。

 義巳さんは、昔からよく知っている人だ。久巳さんと違って穏やかで優しくて、村の人たちからも慕われている。久巳さんが村長のような立場にいるが、実質、その立場に相応しいのは義巳さんの方だ。義巳さんの方が物腰が柔らかいので、村の人たちは何かあれば義巳さんを頼っている。いや、久巳さんとの橋渡し役をしていると言った方が正しいだろうか。親子だが、どちらかというと長老とその側近の家来のような間柄だ。

「ねえ、山賀さんっち、なんでここに引っ越してきたと?」

 私は、義巳さんに訊いてみた。

「ああ。ほら、尾先に昔、西島にしじまさんっち、一人暮らしのお爺ちゃんがおったやろ。覚えちょらん?」

「覚えちょうよ。確か、自転車で植木鉢運びよった人やろ?」

「そうそう。昔はしっかり者やったんやけど、歳取って、すっかりボケてしもうてなあ」

 私は、まだ小学校に上がる前の頃を思い出していた。薄汚れたヨレヨレの作業服を着て自転車に乗り、村中を徘徊している老人。それが、記憶の中の西島さんの姿だ。

 西島さんは、勝手に余所の家の庭先に入り込んでは、置いてある植木鉢を盗み、自転車の前かごに入れて持ち帰っていた。私の家にも来たことがあって、育てていたアロエが盗まれ、祖母がため息をついていたのを覚えている。

 その頃の私は、西島さんのことを、ちょっと不思議な人なんだなという風に認識していた。認知症のことなんて知らなかったし、そういう人がいるものなのだろうと思っていた。

 結局、私がそういったことを理解しない内に、西島さんは亡くなってしまった。

 確か、私が小学生になったばかりの頃だっただろうか。下の道路沿いの川の下流に浮かんでいたのを、村の人に発見されたのだ。

 恐らく、いつものように自転車であちこちを徘徊している際に、誤って川に転落してしまい、普段は浅い川だが、連日続いていた雨によって増水していたせいで溺れ、流されてしまったのだろうということだった。

 発見が遅れたせいで、身体は酷い有様になっていたという。どういう風に酷くなっていたのかは、怖くて訊いたことがないが、〝膨らんでブヨブヨしていた〟とだけ、後から噂で聞いた。

「その西島さんの遠い親戚にあたる人が、山賀さんでな。なんでも、愛知県に住んじょったらしいけど、勤めよる会社の転勤で、香ヶ地沢に来ることになったらしい。それで、ちょうど西島さんの家が空き家になっちょったき、そこに住もうっちことになったのよ」

「わざわざ?」

 辰巳が、不思議そうに言った。

 確かに、私もそう思う。どうして、朽無村なんかに住むことを選んだのだろう。

 そう言ってしまうと語弊があるが、私は別に、この朽無村のことが嫌いなわけではない。村の人たちはみんな優しいし、長閑で、自然に囲まれていて、のんびりしていていい所、自慢の故郷だ。

 でも、余所の人からしたら、ここは住みにくい場所なのではないだろうか。街からは遠いし、交通の便は悪いし、何にも無いし。香ヶ地沢の市内には、もっと住むのに適しているところがたくさんあるだろうに。

「それがな。山賀さんとこには、小さい娘さんがおってな。そん子が、喘息の病気を持っちょるらしい。それで、街中よりも、ここに住むことを選んだっち言よったな。なるべく、空気が綺麗なとこにおりたいっちゅうことで」

「お父、喘息っちなん?」

「お前はそげなことも知らんのか」

 辰巳の疑問に対する義巳さんの説明を聴きながら、なるほど、と納得した。

 小さい娘さんとは、さっき玄関から飛び出してきて、母親らしき人にあやされていたあの子のことだろう。見るからに天真爛漫といった風だったが、あの子にそんな事情があったとは。

「でも、全然そげなこと知らんやった。急に決まったと?」

 義巳さんに、また質問する。

「うん。一回、去年の暮れに山賀さんだけでここに下見に来て、そん時は土地の管理をうちがしよるもんやから、おじさんも立ち会ったんやけどなあ。そん時点じゃあ、本当に転勤するかどうか分からんやったらしい。やから、本当に朽無村に引っ越すのかも決まっちょらんでな。どうなることやらっち思っちょったら、ついこの間、急に転勤することに決まって、バタバタ引っ越すことになったらしいのよ。その連絡があったんが一昨日の事で、市内じゃなくて朽無村に引っ越しますっち言うもんやから、さっきから村の人たちに言うて回りよったって。新しい人が村に来るばいっちな。ほしたら、お前たちが河津酒屋に来たっちゅう塩梅よ」

「へえ、そういうことやったって」

「はっきり決まっちょらん話やったから、村のもんには誰にも言うちょらんでな。やから、カズも早苗さんも、ようやくさっき知ったとこよ」

 カズと早苗さんいうのは、私の両親の名前だ。カズは和成かずなりの略称で、父は村のみんなからカズとか、カズちゃんとか呼ばれている。

 なるほど、どうりで私も知らないはずだ。両親が知らないことを、私が知るはずがないのだから。

 そうこうしている内に、坂道を下り終えて尾先の集落に辿り着いた。先程と同じように、大人たちの会話が聴こえてくる。

 何の気なしに中へ入って行く義巳さんの後ろを、私と辰巳は隠れるようにしてついて行った。

 さっきのこともあって、ちょっと気まずかったからだ。恥ずかしさもある。私は元来、引っ込み思案な性格だし、辰巳もこう見えて、割と人見知りするタイプだ。初対面の人と、上手く会話できるだろうか。

 覚悟する間もなく、あっという間に賑やかな家の前に辿り着くと、義巳さんが、

「どうも、こんにちはぁ」

 と、大きな声で挨拶をした。

「ああ、川津さん。どうも」

 首に掛けたタオルで汗を拭いながら近付いてきたのは、さっき青い服の人たちと一緒にトラックの荷台からダンボール箱を運び出していた人だった。白いポロシャツにジーンズ姿で、やや長めの髪を真ん中できっちりと分けていて、爽やかなプロゴルファーのような佇まいをしている。この人が、山賀さんだろう。

「大変でしょう。村の者をいくらか呼んできて、手伝わせましょうか?」

「いえいえ、大丈夫ですよ。家財道具は、ほとんど向こうで処分してしまいましたから、意外と荷物は少ないんです。一通りこっちの家に揃ってたので、助かりましたよ」

 山賀さんはそう言うと、

「おーい、ちょっと」

 と、玄関が開け放たれている家の中に向かって呼びかけた。すると、

「ねえ、炊飯器が見当たらないんだけど?」

 という声と共に、あの女の人が現れた。

「ほら、ママ。お世話になってる川津さん。この家のこととか、色々と手伝ってくれた」

「ああっ、どうも。お世話になってますぅ」

 女の人——山賀さんの奥さんは、しずしずとこっちに来た。ボーダー柄のTシャツに、黒いストレッチパンツ姿で、束ねた長い髪を首元に垂らし、どことなく上品な雰囲気を漂わせている。育友会の会長をやっていそうな感じの人だった。

「初めまして。いやあ、えらいべっぴんさんですねえ。ここいらじゃお目にかかれんですよ。こげな人は」

「まあ、フフッ、そんなことありませんよ」

 山賀さんの奥さんは照れくさそうに笑って、義巳さんをあしらった。

「あら、そっちにいるのは、もしかしてさっきの……」

「ああ、ほら、お前たち、挨拶せんか」

 奥さんに呆気なく見つかり――義巳さんの後ろでコソコソしていただけなので当たり前のことなのだが――私たちはおずおずと前へ出た。

 気恥ずかしくて、まともに二人の顔を見上げることはできなかった。辰巳も同様に、下を向いてむっつりと黙り込んでいる。

「こ、こんにちは」

 さすがに黙り込んだままなのは失礼な気がして、恐る恐る挨拶をし、ぺこりと頭を下げた。できれば下げたままでいたかったが、ますますおかしい子供だと思われそうだったので、仕方なく顔を上げると、

「こんにちは。今度、ここに越してきた山賀です。よろしくね」

 と、奥さんがにこやかに微笑んだ。

「二人は、川津さんのお子さんたちですか?」

 山賀さんが義巳さんにそう訊き、私は咄嗟に、

「ち、違いますっ。私はかわづだけど、さんぼんがわの川津じゃなくて、さんずいの方の河津で――」

「こげな奴、うちんもんじゃねえっ!」

 突然、今までむっつりと黙り込んでいた辰巳が声を張り上げた。

「こげな奴っちなん!」

 反射的に、辰巳に言い返す。

「こげなバカと兄妹とか嫌やっ!」

「バカッちなん!辰巳の方がバカやろっ!」

「うるせえ!バカ真由美!」

 言い合いになっていると、

「コラッ!」

 と、義巳さんが辰巳の頭を引っ叩きながら、一喝した。

「なんを喧嘩しよるか。初対面の人ん前で、みっともねえ」

「でも、おとうっ」

「静かにしちょけっ。ちゃんと立派に挨拶せんかっ」

 叱られている辰巳の横で、私は恥ずかしさのあまり、顔から火が出そうになっていた。

 義巳さんの言う通りだ。反射的に言い合ってしまったが、初対面の人の前でやるべきことではなかった。みっともないことをしてしまった。さっきの事といい、ますます変な子供だと思われてしまったに違いない。

 真っ赤になっているであろう顔を見られたくなくて、また俯いていると、

「ぷっ、あははっ」

 と、奥さんが噴き出した。

「フフッ、すいません。おかしくって、つい」

「いえいえ、こっちこそ、すいません。お見苦しい所を」

「そんなことありませんよ。子供は元気が良すぎるくらいじゃないと。ねえ、パパ」

「ええ、うちの子たちに、見習ってほしいぐらいですよ」

 場の空気が緩んだ気がして、おずおずと顔を上げると、

「こん奴が、私の倅で、辰巳っちいいます。ほして、こっちの女ん子が、そこん中原の河津さんとこの、真由美ちゃん」

 と、義巳さんが代わりに私たちの説明をしてくれた。

「辰巳くんに、真由美ちゃんね。よろしく」

 奥さんが、またにこやかに微笑んだ。それを見てなんとなく、私の心配は杞憂に終わったのではないかと感じた。

「よろしくね。ところで、うちの子たちはどこにいったんだ?こっちも、ちゃんと挨拶をしないと」

 山賀さんは奥さんと同じように微笑むと、きょろきょろと辺りを見渡した。

「家の中を探検してるんじゃない?自分の部屋を決めたいって言ってたし」

「そうか。おぉーい!降りて来なさぁーい!」

 山賀さんが、家の方に向かって声を張り上げた。すると、玄関の中からぱたぱたと足音がして、あの小さな女の子が飛び出してきた。

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