五 村の日常
お昼ご飯を食べて、テレビを見ながら一休みした後、私は貰ったばかりのお小遣いを手に、家を出た。坂道をトボトボと歩いて下り、河津酒屋を目指す。
自転車で行っても良かったが、行きは下り坂で楽な分、帰りは上り坂で苦痛だ。押して帰らなければならない羽目になるし、他に用は無いからすぐに帰るので、ゆっくりと歩いて行くことにしたのだ。
うるさいセミの鳴き声を聴きながら、道の脇の棚田を眺めた。そろそろ、水を抜く中干しの頃だろうか。父は、トンボが飛び始めたら水を抜くと言っていたが、まだ空を舞うトンボの姿は見当たらない。
上段から下段への水の落とし口からは、ちょろちょろと音がしていた。濡れて水苔が生えた石垣に、サワガニがよじ登っている。その横で、ぴょんと何かが跳ねて、田んぼの水面に波紋を作った。見遣ると、茶色いカエルがスイスイと水面を泳いでいく。
中干しをしたら、水辺の生き物の姿はちょっぴり減るだろうな。そう思っていると、不意に視界の端で、蠢くものがあった。
何だろう。稲の林の中に、何かがいる。
目を凝らしていると、その何かが姿を現した。
それは、蛇だった。昨日、農機具小屋で見たのと恐らく同じ種類の、だが、あれよりも、やや小柄な茶色い蛇が、にょろにょろと田んぼの水面を泳いでいる。その先には、さっき泳いでいったカエルが―――、
「あっ」
蛇は素早い動きで泳ぎ寄ると、稲の根元にしがみついていたカエルに喰いついた。片足を喰いつかれたカエルは逃れようともがいていたが、蛇はそれを許さず、じわじわと呑み込んでいく。
私は、なぜかその光景から目が離せなかった。蛇が鮮やかな動きでカエルを捕らえ、喰らう様を、じっと見つめていた。
やがて、蛇が顎を外れんばかりに大きく広げて、カエルの鼻先まで吞み込み、腕が舌のようにだらりと垂れたところで、私はようやく我に返った。
一体、何をしているんだろう。あんな気持ちの悪いものをじっと観察するなんて。
早く、電池を買いに行かなければ。
向き直り、坂道を下った。けれど、頭の中では、さっき見た光景が延々とリピートされていた。
あのカエルは、生きながら蛇に呑まれていった。
痛みは感じただろうか。怖かっただろうか。自分が助からないと、悟ったのだろうか。だとしたら、最後に何を思ったのだろうか。
もし、私が足元の石ころを拾い、蛇に投げつけていたら、あのカエルは助かったのだろうか。
この朽無村で、そんな罰当たりなことはできないけれど。
そんな風に考えながら坂道を下っていると、いつの間にか河津酒屋に辿り着いていた。昨日と違って、店先には誰の姿も無かった。
「こんにちはぁ」
挨拶をしながら、店の中に入る。十円ガムに、うまい棒、ウメトラ兄弟に、タラタラしてんじゃねーよと、色とりどりの駄菓子が陳列棚に並んでいるのが目に付いたが、誘惑に負けては本来の買い物ができなくなってしまう。
「こんにちはあっ」
返事が無かったので、店の奥、居住スペースになっている方へ、もう一度挨拶をした。すると、
「はぁい」
と、返事が聴こえて、中からぱたぱたと文乃おばちゃんが現れた。
「あら、真由ちゃん。こんにちは。どうしたと」
「こんにちは。電池買いに来たの」
「電池?はいはい、電池ねえ」
文乃おばちゃんは土間になっている売り場の方へ降りてくると、奥の棚から細長いダンボール箱を取って抱えてきた。中には、さまざまな種類の黒いマンガン乾電池がぎっしりと詰まっていた。
「どれ?」
「えっとね、単三の、四本のやつをひとつ」
「はい、これね」
差し出された単三電池の四本パックを受け取ると、文乃おばちゃんはダンボール箱を、奥の棚に戻しに行った。私は、ラインナップが変わり映えのしないスナック菓子の陳列棚を眺めながら、レジスターが置かれているカウンター机へと向かった。
待っている間、気分だけでも涼しくなろうと、すぐ横に置いてある冷凍庫の中のアイスを眺めた。相変わらず、中にはびっしりと霜がこびりついている。触って手に取ってみたかったけれど、怒られそうなのでやめておいた。
「ええっと、単三やったねえ」
戻ってきた文乃おばちゃんは、眼鏡をクイッと直すと、レジスターの横に置かれていた値段表らしきものをしげしげと見つめた。
「はい、二百五十円ね」
「あっ、ちょっと待って。えっとね、これも」
私は咄嗟に、すぐ近くの棚にあったこんにゃくゼリーを五本掴んで差し出した。
「これも?ほしたら、ちょうど三百円ね」
「はい」
ポケットの中から三百円を取り出し、会計をしてもらう。
良かった良かった。儲けものだ。金額がうろ覚えだったので、自信がなかったのだが、余るとなれば有意義に買い物をしなければ。
「はい、ちょうどね。お使いかい?」
「うん」
白々と、嘘をついておいた。ゲーム機のだと言えば、雅二おじちゃんみたいに小言を言われるに違いない。ほとんどの大人は、私たち子供がゲームで遊ぶことに理解が無いのだ。
「ねえ、
「うん。あん子らは、もうちょっとしたら夏休みっち言よったばい」
「そっかぁ」
「ふふ、二人ともブツブツ言よったよ。真由ちゃんたちみたいに、早よ休みたいっち」
得をしている気分になり、ふふ、と笑みが漏れた。
絵美ちゃんと由美ちゃんというのは、文乃おばちゃんと秀雄おじちゃんの娘さんたちだ。見た目が瓜二つの双子で、歳は私たちよりも三つ上のお姉さん。中学生なので、夏休みに入るのは小学生の私たちよりもちょっと遅いらしい。
この朽無村にいる数少ない私と同世代の人間で、二人には小さい頃からよく遊んでもらっていたのだが、中学生になるとあまり遊んでもらえなくなってしまった。どうやら、中学校の部活のバドミントンがとても忙しいようで、休みの日もほとんど家にいないらしい。「ほんと、スパルタばい、スパルタ」と、揃って愚痴を零していると聞いていた。
帰りは違うが、登校する朝のバスが同じなので、しょっちゅう顔は合わせているのだが、バドミントンのせいでくたくたなのか、二人ともいつも眠そうにしている。バス停でも立ったまま寝ているし、乗ったら乗ったで、座った途端、揃って居眠りを始めるほどだ。そんな調子だから、最近は中々二人と会話することができないでいた。
だが、夏休みに入れば、また一緒に遊んでもらえないだろうか。いずれ通うことになるであろう、中学校のことも訊きたいし。
「休みになったら遊ぼっち、言っちょって」
私はそう告げると、
「じゃあね」
と、外へ出た。
「はぁい、どうもねえ」
と、文乃おばちゃんの声が後ろから聴こえた。
さて、目的の物とおやつを手に入れたから、家へ帰ろう――として、ふと、下の坂道の向こうに、辰巳がいるのに気が付いた。道沿いの田んぼの横でしゃがみ込み、何かをしている。
暑いのに、こんな真っ昼間から何をやっているんだろうと、坂道を下った。見つかったら面倒くさいことになりそうだったので、電池とこんにゃくゼリーはポケットの中へ入れて隠しておく。
驚かせてやろうと、そろそろと真後ろまで近付いて、
「辰巳っ」
と、声を掛けると、辰巳はまんまと驚き、ビクッと身体を震わせながら振り返った。
「なんかや、真由美かや」
辰巳は忌々し気に、睨んできた。手が泥だらけになっている。
「なんしようと?」
辰巳は、田んぼの脇の土が詰まった溝をほじくり返していたようだった。が、溝掃除をしているわけではなさそうだ。
「釣りするき、餌のミミズ探しよるって。真由美も手伝え」
「やだ。気持ち悪い」
「なんかやっ、ミミズくらい触れるやろ」
「私、釣りとかせんもん」
「いいき手伝えっちゃ。ミミズやねえと、魚が釣れん」
「そんなん知らんし」
「じゃあ、バッタでもいいき、捕まえろや」
「バッタもやだっ」
そんな風に、辰巳とくだらない言い争いをしている時だった。ブゥウウウンと地響きのようなエンジン音を響かせながら、下の道路の方から大きなトラックが上ってきたかと思うと、バス停のある入り口から橋を渡って、朽無村へと入り込んできた。
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