二 潜むもの
「ただいまぁ」
家に帰ると、すぐにランドセルを置いて洗面所に向かった。手を洗い、辰巳に唾を付けられた服を脱いで洗濯機の中へ放り込むと、新しいTシャツに着替える。
さっぱりした格好になって台所に行くと、母が湯気の立つ鍋を菜箸でかき回していた。
「おかえり。いまラーメン作りよるき、ちょっと待っちょきなさい」
「はぁい」
冷蔵庫の中から、たくあんや高菜漬けのタッパーを取り出してテーブルに並べた。箸立てから、家族みんなの分の箸を取り出して、それぞれの席の前に置き、お昼ご飯の準備をする。
「あら、着替えたと?」
気が付いたのか、母が訊いてくる。
「うん。ちょっと汚れたき」
「泥かなんか、付けちょらんやろうね?」
「そげん汚しちょらんよ。それ、うまかっちゃん?」
「うん。お父さんと半分こね。お母さんとおばあちゃんは、味噌汁の残りがあるき」
わざわざ、辰巳に唾をかけられたとは言わないでおいた。言うと面倒臭くなるし、言ったところでどうにかなる問題でもなかったからだ。
「ねえ、お父さんは?」
「外におらんかった?まだ、小屋でなんかしようとやろか。真由美、呼んできい」
「はぁい」
和室の掃き出し窓から、祖母のサンダルを借りて外へと出た。家の裏手に回り、農機具小屋へと向かうと、シャッターは閉まっていたが、真横にある出入り用の扉が開いていた。
「お父さん」
声を掛けたが、返事が無い。
「お父さぁん」
開いた扉の前まで行って声を掛けたが、返事が無い。薄暗くて分からないが、中にいないのだろうか?
だとしたら、どこに―――、
——―カサッ……
小屋の中から、音がした。紙が擦れるような音が。
「お父さん?」
もう一度呼びかけたが、相変わらず返事は返って来なかった。しかし、中からは微かに気配が伝わってくる。誰かがいる気配が。
「……」
恐る恐る、薄暗い小屋の中に入った。妙にひんやりとした空気が身体を撫ぜて、土埃の臭いが鼻に付く。
電灯が無く、窓は鬱蒼とした山の斜面側にあるせいで、頼りになる明かりは開けている背後の扉から差し込んでくる陽の光だけだ。シャッターを全開にしてしまえば、小屋の中は明々となるが、重たいシャッターを持ち上げるのは、子供の私には一苦労の作業だ。
——―カサカサッ……
あの物音が、小屋の右奥の方から聴こえた。が、手前にトラクターが停まっているせいで、見通せない。確認しようとして、
「……」
思わず、足を止めた。
奥の方は、陽の光がトラクターに遮られているせいで、今いる入り口付近よりもずっと暗かった。一瞬、懐中電灯でも持ってこようかと思ったが、声だけ掛ければ済む話なのだからと思い直し、右側から回り込んで、
「もう、お父さんっ」
ここまでしているのに、返事が無いなんて……え?
段々と暗闇に目が慣れてきて、分かった。
誰も、いない。
小屋の隅には、空の肥料袋が折り重なって散乱しているだけだった。
……じゃあ、なんで物音が―――、
——―カサッ……
と、肥料袋の山が小さく動いた。
まるで、下に何かが潜んでいるかのように。
「……っ!」
思わず、身構えた瞬間、そこから、黒い影が這い出してきたかと思うと、ぬらぬらと身をくねらせながらこっちに向かってきた。
「きゃああっ!」
悲鳴を上げ、咄嗟に踵を返して、光の差す入り口の方へ走り、外へ―――、
「きゃっ!」
「うおっ!」
外へ出た瞬間に、私はもろに誰かにぶつかった。それは、
「真由美?どげんした?」
探していた父だった。汗が染みた作業着に包まれたお腹で、私を受け止めている。手には、小ぶりな草刈り鎌を持っていた。
「お、お父さん。中に、なんかおるっ」
私は震える声で、ありのままに見たことを伝えた。
「中?」
父は何の気なしといった感じで、シャッターをガラガラッと開いた。小屋の中全体が陽の光ですっかり暴かれる。
「何がおったんか?」
父はトラクターや田植え機、コンバインの周りを見て回った。
「なんもおらんぞ」
「お、奥ん方におるっ」
「奥?」
父がトラクターの方へ行き、肥料袋の山があった所へ向かっていく。
怖々と、その背中を眺めていると、
「おっ、こりゃっ」
父が驚いたような声を上げ、ビクッと身が跳ねた。何があったのだろうと、不安になっていると、
「はっはっは、こん奴かっ」
笑いながら、悠々と父が戻ってきた。その手には、草刈り鎌ではなく、
「わっ!」
大きな蛇がぶら下がっていた。父に鎌首を捕まえられて、長い身体をグネグネとくねらせている。
あれが、肥料袋の山に潜んでいたのか。
「立派なアオダイショウやなあ。巣でも作ろうとしとったんやろうか」
外に出てくると、父は蛇を両手に持ち、しげしげと眺めた。薄茶色にも薄緑色のようにも見える縦縞模様が不気味に蠢き、ゾワゾワと鳥肌が立った。
「は、早よ逃がしてっ」
「ははは、そげん言うな。蛇様がおるのは縁起がいいことやぞ。なんせ、シラカダ様の使いなんやからなあ。住み着いてもらえば、ネズミ番にもなるし」
「分かっちょるけど、やだっ」
「ふふふ、分かった分かった」
父は笑いながら小屋の横まで行くと、山の方へ向かって蛇を放した。蛇は長い身体をくねらせながら、にょろにょろと藪の中へ消えていく。
「ほれ、真由美」
父に促されて、山の方へ手を合わせた。二人並んで、拝みながら蛇を見送っていると、
「なんしよるとお!早よせんとラーメン伸びるばぁーい!」
家の方から、母が呼ぶ声が聴こえてきた。
「ほら、ご飯やき、行こう」
首に巻いたタオルで汗を拭いながら、父は家の方へ歩いて行った。私は蛇が戻って来やしないだろうかとヒヤヒヤしながら、その後をついて行った。
父の言う通り、蛇を邪険に扱ってはいけないということは重々分かっているが、かといって、家に住み着いてほしくはなかった。いくら縁起がいいことだとされていても、怖いものが自分の生活圏に住み着くというのは耐えられなかった。
こんなこと、この朽無村に住んでいる人間として、思わない方がいいんだろうけど……。
私は少しだけ後ろめたさを感じながら、父と家に戻った。母が言った通り、もたもたとしていたせいで、ラーメンはすっかり汁を吸って伸びてしまっていた。
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