三 夏休みの始まり

 次の日の――夏休み初日の朝、私は八時前までたっぷりと寝た。いつもの習慣で七時頃には目が覚めてしまったが、うつらうつらと二度寝を繰り返して、心地よい時間を十二分に味わった。

 結局、階下からの「ご飯食べんとぉ!下りてきなさぁい!」という母の声に起こされて、タオルケットから出る羽目になったが、じっくりと惰眠を貪れて、私は満足していた。

 寝ぼけまなこで階段を下り、洗面所で顔を洗ってから台所に行くと、朝ご飯のトーストが用意されていた。ブルーベリージャムを塗ってそれを平らげると、牛乳を飲み、歯磨きと着替えを済ませて、ラジオ体操のカードを首に下げ、サンダルを履いて外へ出た。家の前の坂道を上り、坂ひとつ上の公民館へと向かう。

 夏休みのラジオ体操は、いつも公民館の前でやるのが決まりになっていた。家の前の坂を上ればすぐの所にあるので、とてもありがたい。急ぐ必要はないし、やろうと思えばダッシュで三十秒もかからないので、ギリギリまで家でだらけていてもいいのだ。

 無論、私はそんな怠け者ではないので、こうして五分前にちゃんと着くのだが。

「おはよう、真由ちゃん」

 公民館の玄関横のベンチには、既に坂ひとつ下の家の幸枝さちえおばちゃんがエプロン姿で座っていた。横にはラジカセが置かれ、大きなお腹を包むようにして組まれた手には、小さな巾着袋が握られている。

 さすが、しっかり者の幸枝おばちゃんだ。今日から夏休み――ラジオ体操だということを分かっていたらしい。

「おはようございまぁす。雅二まさじおじちゃんは?」

 すると、幸枝おばちゃんは呆れたような顔をして、

「そろそろ来るっちゃない?寝ぼすけ雅二おじちゃん」

 と、笑った。

 雅二おじちゃんというのは、幸枝おばちゃんの旦那さんのことだ。とても優しい人だけれど、子供の私から見ても、ちょっと抜けているところがあるうっかり者で、村の人たちからも、よく笑われている。どうやら、今朝もそのうっかりが発動して、寝坊しているらしい。

 辰巳が来ていないのは、大体察しが付く。きっと同じ理由だろう。

 一緒に座って待っていると、やがてタッタッタッと足音がして、坂の上から辰巳が駆け下りてきた。

「セーフっ、セーフやろっ?」

 公民館に飛び込んで来るなり、辰巳が言う。幸枝おばちゃんは腕時計を見ながら、

「おはよう、辰っちゃん。ギリギリ間に合っちょうばい」

 と言うと、ラジカセのスイッチを入れた。中のカセットテープがくるくると回り出し、「新しい朝が来た、希望の朝だ……」と、始まる前の歌が流れ始める。

 ベンチから立って、体操ができるよう銘々に散らばっていると、ようやく雅二おじちゃんが坂を上ってやってきた。寝間着のままなのか、ヨレヨレのタンクトップと短パン姿だ。肉付きのいい丸顔は眠そうな表情を浮かべていて、膨らんだ下腹がタンクトップの裾からだらしなく覗いている。

「おはよう!辰巳、真由美。二人とも早いやんか」

 欠伸混じりに、雅二おじちゃんが言うと、

「ほんと、見習わんとね」

 と、幸枝おばちゃんが笑った。

「まあ、そげん言うな。毎日働きよったら、眠とうして眠とうして――」

 雅二おじちゃんが言い訳をしていると、ラジオ体操第一が始まった。どんなのだったっけと思い出そうとしたが、ピアノの旋律を聴いている内に、身体は勝手に動いていた。みんなで朝の陽射しを浴びながら、リズムに乗って手足を動かしていく。

 雅二おじちゃんと幸枝おばちゃんの夫婦は、毎年、夏休みの間、こうしてラジオ体操に参加してくれるのだ。この朽無村には今、小学生が私と辰巳の二人しかいない。それだけじゃあまりにも寂しいし、大人がいないと成り立たないだろうということで、ラジカセとスタンプを用意する係を買って出てくれたのだという。

 家は坂道で離れているが、ほとんどお隣さんのようなものなので、昔からよく知っている。物腰柔らかで優しいし、気兼ねなく話をできるので、私は二人のことをとても慕っている。辰巳は二人の見た目を指して、影でブスデブ夫婦なんて言って馬鹿にしているが、少なくとも表面上は仲が良い。それだけ打ち解けているということなのかもしれない。

 しっかりと第二までやりきると、幸枝おばちゃんが巾着袋の中からスタンプを取り出して、カードに押してくれた。七月二十一日の欄に、赤いインクのひまわりが咲く。

 残りの日付の空欄を眺めていると、ワクワクして胸が高鳴った。まだ、あと何十日も休みが続くのだ。その間、好きなだけ惰眠を貪れるし、好き放題遊べるし、夜更かししてもいい。素敵な日々が、私を待っている。

「ああっ、カード忘れたっ」

 うっとりしていると、辰巳が慌てた調子の声を上げた。

「なんしよるん。せっかく間に合ったんに、意味ないやん」

 やれやれと、辰巳に呆れていると、

「いいばい、辰っちゃん。明日、今日の分を押してあげるき」

 と、幸枝おばちゃんが優しく言った。

「ハッハッ。辰巳、命拾いしたな」

 雅二おじちゃんがからかうと、辰巳は、

「うっせえ、雅二」

 と、それを突っぱねた。

「こら、辰巳!なん呼び捨てしよると!」

 思わず、無礼を働いた辰巳を𠮟りつけた。大人に、目上の人に向かって、なんてことを言うのだ。

 しかし、雅二おじちゃんは怒る様子も見せず、

「ハハハッ、朝から随分と威勢がいいやないか」

 と、朗らかに笑った。

「ほら、謝らんと。辰巳!」

 私は再度叱ったが、辰巳は、

「雅二んくせに、偉そうにすんな!」

 と、吐き捨てると、公民館を出て、坂を駆け上って行ってしまった。

「……おじちゃん、おばちゃん、ごめんなさい」

 私は気まずくなり、二人に頭を下げた。なんだか、子供代表として、謝らなければならない気がしたのだ。

「フフフッ、真由ちゃんは辰っちゃんと違うて、しっかりしちょるねえ」

「真由美、顔上げんか。おじちゃんたちは、なんも気にしちょらんよ」

 二人に言われて、おずおずと顔を上げると、雅二おじちゃんは坂道を駆けていく辰巳の後ろ姿を、遠い目で見つめていた。

「それに、川津屋敷のもんやからな。あんくらい威勢がようねえと、やっていけんやろうて」

 私はなんとなく、雅二おじちゃんの言いたいことが分かったような気がした。

 恐らく、辰巳が久巳さんから受けている扱いを……。

「さ、帰ろうや。ぼちぼち仕事せんとなあ。真由美、お前もいっぱい遊んで来い」

 雅二おじちゃんはカラッとした口調でそう言うと、丸刈り頭をボリボリと掻いた。

「そうそう、子供は元気いっぱい遊ぶのが仕事やきんね」

「おう。でも、家ん中でゲームばっかりしとったらいかんぞ。辰巳んように、外で走り回らんとなあ」

「そげん言わんと。ゲームも楽しかろ?」

「なん言よるか。あげなもんしよったら、頭悪なってしまうやろ」

「そっちこそ、なん言よるかい。今ん子はみぃんなゲームくらいしよるばい」

 二人の漫才のような楽しい掛け合いをひとしきり聴いてから、私は公民館を後にした。

 さあ、夏休みの始まりだ。今日は何をしよう。とりあえず、ちょっぴり宿題をして、遊びに出掛けようか。それとも、ゲームボーイアドバンスでポケモンをして遊ぼうか。

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