第一部 2005年 夏

一 幼馴染

 ——―プシュウウ、という音と共にバスが停まり、私はいつものように、「ありがとうございましたぁ」と、ランドセルにぶら下げている定期券を顔馴染みのおじさん運転手に見せつけながら降りた。外へ出ると、身体がむわっとした熱気に包まれて、顔が薄っすらと汗ばんだ気がした。

 真夏らしく、セミがそこら中でけたたましく鳴いている。「お帰り」と言っているかのように〝朽無〟と記されたバス停の標識がポツンと佇んでいる。

「重え!真由美ぃ!手伝えっ!」

 振り返ると、辰巳たつみが右腕に絵具セット、裁縫セット、左腕に図書バッグ、体操服入れの持ち手を通してぶら下げ、両手にゴーヤの鉢植えを抱えて立っていた。その後ろでは、バスがブルンと大きな車体を震わせながら発進している最中だった。

「やだ」

 呆れながら、きっぱりと断る。

「なんでかや!手伝えっちゃ!一個くらい、いいやろ!」

「なんでまとめて持って帰ったん?今日が終業式っち分かっちょったなら、前から一個一個持って帰っちょけば良かったやん」

「いいき、一個くらい持てっちゃ!こんなんやったら帰れん!」

 私はため息をつくと、辰巳から裁縫セットと図書バッグを受け取った。

 まったく、辰巳はいつもこうだ。とても同い年とは思えない。もう小学五年生になるというのに、だらしなくて、そそっかしくて、未だに低学年の頃のような間違いばかりする。

「バカ辰巳」

 そう言うと辰巳は、

「バカっち何かや!」

 と、怒ってこちらに向かってきた。けれど、たくさんの荷物を抱えているせいで、足取りはよろよろとたどたどしく、容易に身を躱すことができた。

「バカ辰巳!バカ辰巳!」

「クソ真由美!殺しちゃる!」

 バタバタと追いかけられながら橋を渡り、尾先おざきの坂道を駆け上った。水の張った田んぼから、さわさわと青い稲を揺らしながら小風が吹いてきて、汗ばんだ顔を冷やすように撫ぜていった。

「はっ、はっ」

 しばらく走ってから振り返ると、辰巳が道の真ん中で座り込んで俯いていた。どうやら、荷物が多くてバテてしまったらしい。

 仕方なく、坂道を下って辰巳の下へ戻った。

「辰巳、もう一個なんか持ってやろっか?」

 汗で濡れた、スポーツ刈りのツンツン頭に向かって声を掛けると、

「ぺっ!」

「きゃあっ!」

 急に顔を上げた辰巳から唾を吐きかけられ、私は悲鳴を上げた。

「ハハッ!バーカ!引っ掛かった引っ掛かった!」

「なんすると!バカ辰巳!もう持ってやらん!」

 私は服に付いた唾を、持ってあげていた辰巳の図書バッグでゴシゴシと拭った後、裁縫セットと一緒に投げつけて、坂道を一人で上りだした。

「あっ、待てや真由美ぃ!帰れんっちゃ!」

「バカ辰巳!もう知らんきね!」

「真由美ぃ!」

 名前を呼ばれたが、私は振り返らなかった。帰ったら、さっさと服を着替えよう。その一心で、ずんずんと坂道を上っていく。

「ごめんっちゃ!真由美ぃ!ごめん!」

 謝られたって、知るもんか。こちとら唾を吐きかけられたのだ。手伝ってやることなんてない。

「真由美ぃ!ごめんっちゃ!……早よ帰らんやったら、じいちゃんに叱られる!」

 ふと、足を止めた。振り返ると、辰巳が泣きそうな顔をしていた。

「……」

 私は仕方なく、もう一度坂道を下って辰巳の下へ戻った。

「もうっ!」

 ひったくるように、裁縫セットと図書バッグを辰巳から取り上げる。

「……ごめん」

「いいき、ほら、帰ろ」

 今度は辰巳のペースに合わせて、一緒に坂道を上った。私はなんていい子なんだろうと思いながら、また田んぼの方から吹いてきた小風を浴びる。

 尾先の坂道を上り、中原なかばらに入ると、河津酒屋の店先で団扇を扇いでいた文乃ふみのおばちゃんが、

「あら、真由まゆちゃんにたっちゃん、こんにちは。今日はえらい早いとね」

 と、声を掛けてきた。

「こんにちは。今日はね、終業式やったと」

「まっ、じゃあ、明日から夏休み?」

「うん!」

 元気よく返事をすると、店の奥からサンダルをジャリジャリと鳴らしながら、秀雄ひでおおじちゃんが出てきた。暑いのか、トレードマークの角刈り頭に白いタオルを巻いている。

「おっ、真由ちゃんに辰巳。どうしたとか。えらい早いやんか」

 また説明を一通りしようとすると、

「今日は終業式で、明日から夏休みっち。いいねえ、楽しみやろ」

 と、文乃おばちゃんが代わりに説明してくれた。

「ハハ、そうかそうか。それで半ドンか。しっかし、その様子やと辰巳、コツコツ荷物を持って帰らんやったな」

 秀雄おじちゃんが、辰巳を見てからかうように笑った。

「しょうがないやろ!誰も言ってくれんやったもん!」

「ハッハ!そげなことは自分からやらんとな。真由ちゃんは、ちゃんと持って帰っとったんやなあ」

「うん。私、辰巳より頭いいもん」

 私の一言で、秀雄おじちゃんと文乃おばちゃんが揃ってケラケラと笑った。すると、辰巳は機嫌を損ねたのか、無言で坂道に向き直り、一人でよろよろと上っていった。

「あっ、辰巳っ」

 二人にバイバイと手を振ると、辰巳の後を追いかけた。足取りが遅いせいで、すぐに追いつく。

「もう、拗ねんでいいやんか」

 声を掛けたが、よっぽど腹が立ったのか、辰巳は無視をした。無言で、坂道を上っていく。

 ふん、それならそれで別にいいと、私も無言でその横を歩いてやった。子供っぽい奴の相手をしたって、疲れるだけだ。私だって子供だが、辰巳はもっと幼い。まるで幼稚園生だ。コロコロと感情が変わる気分屋。

 辰巳が大人になる日は来るのだろうかと思いながら、黙々と坂道を上っていくと、私の家が見えてきた。敷地の入り口に塀のように植えられた馬酔木が、青々と茂った葉を揺らしている。道にはみ出さないように刈り込まれているのは、祖母がきちんと手入れをしているからだ。

 やがて、家の前に辿り着くと、私は、

「ここまででいいやろ?」

 と、辰巳を見た。すると、辰巳はもの言いたげな目で、じっと見つめ返してきた。

「……分かった。でも、公民館の上までやきね」

 まったく、どこまでも我儘な奴だ。せめて、何か一言くらい言えばいいのに。お願い、とか、ごめん、とか。

 呆れながら家の前を通り過ぎ、二人でまた坂道を上っていくと、公民館の玄関先で、野良猫のミルクが昼寝をしているのを見つけた。玄関扉の前の、軒先の影になっているところで、気持ちよさそうに寝そべっている。

「ミルクっ」

 呼んでみたが、ミルクは寝入っているのか、こちらを見ようともしなかった

 ミルクというのは、私が勝手に付けたあだ名だ。身体が白黒の牛柄だったので、そこから牛乳を連想してミルクと名付けた。

 もっとも、ミルクと呼んでいるのは私だけだ。村の人たちは単に野良猫と呼んでいる。特別、どこかの家に可愛がられているということもない。

 かといって、私に懐いているかというと、まったくそういうことはない。呼んでも寄って来ないし、ミャアと返事をされたこともない。その癖、煮干しをチラつかせたらミャアミャアと鳴いて寄ってくる。早く寄越せ、と言わんばかりに。

「ミルクっ」

 試しにもう一度呼んでみると、ミルクは頭をもたげて薄く目を開け、気怠そうに私を見た。が、やはり鳴き声を上げることはなく、すぐにペタンと頭を置いて、また昼寝を始めた。きっと、煮干しを持っていないのが分かったのだろう。卑しい奴め。

 公民館の前を通り過ぎて、野土のどに入った。すぐそこに、川津屋敷かわづやしき——辰巳の家が見えている。

「もう、ここまででいいやろ?」

 声を掛けると、辰巳はムスッとした顔で、裁縫セットと図書バッグを受け取った。ありがとう、とは言いたくないらしい。

 別にいい。慣れたものだ。

「じゃあね」

 手を振ると、踵を返して坂道を下った。さっさと家に帰って、服を着替えなければ……。

 ふと、振り返った。辰巳が大きな門をくぐって、敷地の中へ入って行くのが見える。が、なぜか玄関には向かわず、家の横、右奥の方へコソコソと歩いて行った。どうやら、裏手にある畑にゴーヤの鉢植えを一旦隠しておく気らしい。

「なんしよるか、辰巳」

 不意に、しわがれた険のある声が聴こえた。コソコソと歩いていた辰巳が、ビクッと身を震わせて声の方へ振り向いた。

「な、なんでもない」

 辰巳が、家の左手前にある土蔵の方を向いて怖々と返事をした。ここからじゃ姿は見えないが、誰と話しているのか分かる。この威圧的な声色は、辰巳のお爺さんの久巳ひさみさんだ。

「なんか、それは」

「ご、ゴーヤ。宿題で、持って帰って、育てんと……」

「どこに植えるんか」

「う、植えん!このまま置いちょって――」

「そげなもん、勝手に畑に置こうっちゅうんかっ!ああっ!?」

 怒鳴り声が響き、私は咄嗟に踵を返してその場から逃げた。大急ぎで走って坂道を下り、川津屋敷の中からは見えない公民館の前まで辿り着いてから、一息つく。

 ……辰巳は、どんな目に遭っているんだろう。

 久巳さんは、とても厳しい人だ。いや、厳しいというよりは、誰に対しても態度の大きい、偉そうな人だ。

 辰巳の家——川津かわづ家は、この朽無村の、本家大元の一族なのだという。昔々、川津家のご先祖様が山を切り開き、この朽無村を作って繁栄させたのだと、祖母から聞かされた。

 だから、川津家の人たちは朽無村で一番偉いんだそうだ。その中でも、久巳さんは村長みたいな立場にいる。だから、村の人たちはみんな久巳さんに逆らえない。というより、みんな、久巳さんを恐れている。

 私も、正直苦手だ。何か気に入らないことがあればすぐに怒鳴り声を上げるし、村の人たちに面と向かって悪口を言うからだ。両親や祖母に向かって怒鳴りつけているのを何度も見たことがあるし、私も一度、辰巳と一緒に屋敷の裏手の畑で遊んでいただけで、酷く叱られたことがある。別に、何も悪いことはしていないのに。

 久巳さんの高圧的な態度は身内に対しても同様で、孫である辰巳はいつも何かにつけて理不尽に怒られていた。さっき怒鳴っていたのも、きっと自分が立派に手入れしている裏手の畑に、青いプラスチックのゴーヤの鉢植えを置くのが気に入らなかったのだろう。辰巳が早く帰らなければと嘆いていたのも、いつか寄り道して田んぼで遊んでいたのを見つかって酷く𠮟られたからだ。ちょっと寄り道していただけなのに。

 あの時のように、叩かれたりしているのだろうか……。

 暗い気持ちになりながら、家に帰る為に向き直ると、坂道を下った。

 公民館の玄関先で寝ていたはずのミルクは、いつの間にか姿を消していた。

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