五 悍ましき過去へ

 口にした瞬間に、心臓はドクンと高鳴っていた。

 僕の、一世一代の誘い。いや、プロポーズといってもいい。

 僕と一緒になってくれませんか。そして、この村から出て行きませんか。一緒に東京に引っ越して、そこで新しい人生を始めませんか。

 その、返事は―――、

「……高津さん、ごめんなさい。とても嬉しいお誘いだったんですけれど……ご遠慮させて頂きます」

 ——―そんな。

 張り詰めていた感情が弾けて、視界が急激に色褪せていった。

 断られた……のか……僕は……。

「な……なぜですか?」

 僕の口が勝手に動いて、素っ頓狂な質問をしていた。内容だけでなく、声色も酷く素っ頓狂だった。

「……なぜ、と言われると……」

 真由美さんは、伏し目がちに眉をひそめた。その表情に、迷いがあると確信した僕は、

「どうしてです?理由を教えてください」

 と、食い下がった。

「それは………」

 真由美さんは、悩まし気な表情を浮かべて口を噤んでいたが、やがて、

「私は、ここにいなければならないんです……」

 と、苦し紛れに零した。

「この朽無村に?なぜですか?ここは……この村は、もう村じゃなくなってしまっている。残っているのは、真由美さんだけです。いや、真由美さんが残っているから体を成しているだけで、もうとっくにこの村は廃村になっている」

 僕は、口の中が渇いていくのを感じながら続けた。

「この村に残らなければならない理由なんて、見当たらない。もうじき、ここは自然に呑み込まれてしまいます。荒れ果てて、忘れ去られた土地になっていくばかりだ。真由美さん。真由美さんは、ここに留まるべきではないんです。真由美さんは、こんな所にいるべき人じゃない。こんな、何も無い辺鄙な田舎の村にいていいような――」

 そこまで言って、ようやく僕はとんでもないことをしているのに気が付いた。

「……すっ、すみません」

 しどろもどろに謝り、頭を下げた。

 なんてことを言ってしまったんだ。断られたからって、心にもないことを……違う。口にしたことは本音だ。心の底で思っていたことを、オブラートに包まずに、取り繕いもせずに、そのまま口にしてしまったのだ。

 無礼にもほどがある。酷く愚かなことを……。僕は、真由美さんに汚らしいエゴをぶつけてしまったのだ。

 下を向き、腿に置いていた拳を痛いくらいに握りしめていると、

「……高津さん、顔を上げてください」

 真由美さんの、優しい声がした。おずおずと顔を上げると、真由美さんは申し訳なさそうに、こちらを見つめていた。

「どうか、気を落とさないでください。悪いのは、私の方なんです。せっかくお誘い頂いたのに、それを無下にしてしまって……」

「そ、そんな、悪いのは僕の方です。それに、酷いことまで言ってしまって……。本当にすみません」

 合わせる顔がなく、また俯いていると、

「いえ、そんなことはありません。それに、高津さんが言ったことは、もっともなことだと思います。こんな、何も無い辺鄙な田舎の村。自然に呑み込まれて、荒れ果てて、人から忘れ去られて、やがて滅んでいく――いや、もうとっくに滅びているような村。それは、私も思っていることですから」

 さっき僕が言った心無い言葉が真由美さんの口から出る度に、胸が痛んだ。最低の行為をした自分に腹が立って、殴りつけてやりたくなった。

「でも……私は、ここから出て行くことはできないんです」

 顔を上げると、真由美さんは開け放たれている掃き出し窓の方を向いて、外の景色を眺めていた。その横顔が、酷くもの悲しそうに映って、僕は思わず、

「あの、何か余程の理由があるんですか?」

 口にした瞬間に、しまったと思った。懲りずに、また愚かなことをしてしまったと思った。

 でも、それは僕の本心からの問いだった。

 不純な考えは別にして、純粋な疑問だったからだ。

 一体なぜ、こんな村に残らなければならない?何も無く、人もおらず、交通の便も悪い、辺鄙な村に。

 人並みの生活が送れないこともないが、何をするにしても不便が付いて回るこの地に、なぜ残らなければならないのだ?

 それに、真由美さんの言葉。

 〝ここにいなければならないんです〟

 〝ここから出て行くことはできないんです〟

 まるで、出て行きたくても、それが叶わないかのような、引っ掛かる言い方だった。

 一体、何の理由があるというのだ?それを知りたい。

 もし、それが、僕の力で解決できるようなものなら―――。

「それは……」

 真由美さんはこちらに向き直ると、また悩まし気な表情を浮かべながら、何事かを言いかけた口を噤んだ。

「教えてください。何か、お困りのことがあるのならば、力になります」

 続けて訊いたが、真由美さんは口を噤んだままだった。伏し目がちに眉をひそめるばかりで、一向に話を切り出そうとしない。

 しばらく沈黙が続き、僕はしびれを切らして、

「どうか、教えてください。もし、僕がどうにかできることなら、どうにかしてみせます。一体、何があるというんですか」

 と、真由美さんを真っ直ぐに見つめながら言った。

 すると、ようやく真由美さんは、

「……そういう問題ではないんですけど」

 と、絞り出すかのように話し出した。

「私が、この朽無村に留まらなければならない理由は、絶対的なものなんです。とても、人の手でどうにかできることではないんです。こう言っても、理解してもらえないとは思いますが……」

「……どういうことですか?」

 聞き慣れない言い方に、引っ掛かるものがあった。

 絶対的なもの?人の手で、どうにかできることではない?

「説明しても、信じてもらえるとは到底思えません。でも……」

 真由美さんは右手でタートルネックの襟をきゅっと掴みながら、続けた。

「ともかく、私はこの朽無村から、離れることができないんです。離れたくても、それは決して叶わないことなんです」

 それは、傍から見れば、鬱陶しい男を牽制する為の苦し紛れの言い訳に聴こえたかもしれない。

 でも――もしかしたら本当にそうなのかもしれないが――僕は真由美さんが嘘を言っているようには思えなかった。

 その口ぶりには、説得力があったからだ。真剣にものを言っているという説得力が。それに、他にも感じられるものがあった。

 諦観、悲愴、無念……。真由美さんは、そんな感情に囚われているように見えた。

「……お願いです。説明してください。どんな話であろうと、僕は信じますから」

 我ながら、惨めなことをしているとは思った。気持ちの悪い、しつこい男だと思った。

 それでも、僕は知りたかった。真由美さんが、この朽無村に留まらなければならない理由を。その、何か秘めたるものがあるらしき理由を。

「…………分かりました」

 長い沈黙の後、真由美さんは意を決したように切り出した。

「長くなってしまうかもしれませんが、よろしいですか?」

「はい」

 構わなかった。例え、どれだけの時間が掛かろうと、その理由を知ることができるのならば。

「では……」

 真由美さんは、襟を掴んでいた右手を胸の前に下ろし、

「一からお話しします。私が、この朽無村に留まらなければならない理由を」

 そして、真由美さんは粛々と語り始めた。

 自身の過去を。

 この朽無村で起きた、忌まわしく、悍ましい悲劇の記憶を―――。

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