四 出会い惹かれて
最初は、顧客の中の一人に過ぎなかった。母親の早苗さんが足腰を弱めて寝たきりの状態になると同時に、痴呆症の症状が出始めたとのことで、委託介護支援事業所の窓口へ相談に訪れていたのだ。
なぜか、窓口の職員から酷く素っ気ない対応をされていた真由美さんのことが妙に気にかかり、僕は代わって相談役を引き受けた。
話を聞く内に、朽無村という僻地に二人きりで住んでおり、独り身で周囲に頼れる者もいないということが分かり、僕は親身になってケアプランを練った。利用できる介護保険や介護サービスを紹介し、最適解ともいえるプランを立ち上げて、半ば押し付けるように勧めた。真由美さんはその場でそれを承諾してくれて、そのまま僕は早苗さんを担当することになった。
真由美さんはWebライターを生業としていて、完全在宅で仕事ができるようだったので、普段の生活と介護を両立するに当たっての問題は少ないようだった。とはいえ、たった一人で寝たきり状態の早苗さんの面倒を看るのは辛かろうと思い、モニタリングを兼ねた自宅訪問は頻繁に行った。時には、僕が早苗さんのケアを直接することもあったし、業者の仲介も兼ねて、介護用具などの配達も引き受けた。
また、移動時に車椅子を利用している早苗さんの為に、家のバリアフリー化を手伝ったりもした。幸いにも簡易的な施工で済んだので、業者を雇わずに僕が身銭を切って資材を取り揃え、直接工事に当たった。完成すると、僕が早苗さんの車椅子を押して、三人でゆっくりと外を散歩した。
ともかく、僕はできる限りの補助を河津家に対して行った。それは、使命感に駆られてのことだった。辺境の地に住む、頼れる者のない親子に、救いの手を差し伸べなければ。一人の介護支援専門員として、社会福祉士として、いや、一人の人間として、当然の事をしなければ。
そんな風に仕事をしていると、職場の人間から、あまり顧客に深入りしない方がいいと諌められた。それでも、僕は河津家のことを気にかけ、朽無村に出向いて仕事をしていた。
すると、こんなことを囁かれるようになった。
「あんな村、行かん方がいいのに……」
「あの村の人間には、関わらん方がいいのに……」
「あの村に関わった人間は、みんな不幸になりよるのに……」
どれも、面と向かって言われたことはなかった。だが、職場の全員が、時には取引先の人間までもが、そういったことを僕に聞こえるように話していた。
一体どういうことなのだろうと、休養中の茅野にそれとなく訊いてみたが、茅野も同じような反応を示した。理由そのものは言わないが、あまりあの村に行かない方がいいし、村の人間とも関わらない方がいいと。
その時、僕は気が付いた。
きっとこれは、田舎にありがちな部落差別の類なのだろうと。どこそこ出身の者とは関わるな、口を利くな、付き合うな。そんな因習が、未だに根強く残っているのだろうと。
初めて香ヶ地沢の悪い面を垣間見たような気がした。こんなことが、この現代にあり得るのかと呆れもした。
結局、僕はそんな周囲の声を無視して、朽無村に出向いては河津家の補助を行っていた。僕は、そんな差別的な人間ではないと。そんな古臭く、馬鹿馬鹿しい考えなど、生憎持ち合わせていないと。
そう考えながら――周囲からそれとなく白い目で見られながら――仕事をしている内に、僕は真由美さんに対してとある感情を芽生えさせてしまった。
それに気づいたのは、ほんの些細なことからだった。河津邸にて、早苗さんのケアを手伝っていた際、無意識の内に、隣にいた真由美さんに視線を向けていることに気が付いたのだ。
その横顔は、とても綺麗で……。その物憂げな目は、じっと見ていると、吸い込まれてしまいそうなほどに澄んでいて……。まるで、自身を覆い隠すかのように、いつも野暮ったい長袖のタートルネックシャツを身に着けているのに、その姿は可憐で美しく、それでいて艶やかで……。
その瞬間から、僕は一人の顧客として見ていた真由美さんのことを、異性として意識するようになった。真由美さんの一挙一動に見惚れ、会話をすれば喉が疼いて、顔の表面がほんのりと熱くなるのを感じた。
多少の後ろめたさは感じていた。真由美さんは顧客の一人に過ぎないのだ。真剣に仕事に臨むのに、邪念を感じてはいけないと、自分を戒めようとした。
それでも、僕は真由美さんに想いを抱くのをやめられなかった。
河津邸へ通い続ける内に、その想いは強くなっていき、そして――早苗さんが亡くなり、独り気丈に振舞いながら、涙を堪えて葬儀に臨んでいた真由美さんの姿を見て、僕は決心したのだ。
想いを伝えて、真由美さんをこの寂れ行く朽無村から救い出そうと。
およそ二年の月日が経ち、無事にヘルニアを完治させた茅野から、そろそろ復職したいと言われていたこともあった。僕は茅野が休職している間の臨時職員、いわゆる場繋ぎに過ぎないのだから、茅野が戻ってくるとなれば、素直に身を引こうと思っていた。
人手不足の問題を抱えていた職場の面々からは、ここに残らないかと言われたが、僕は東京に戻るつもりだと答えた。
二年という短い間だったが、香ヶ地沢での経験は、僕に忘れかけていた仕事のやりがいを思い出させてくれた。誇りと気力をすっかり取り戻せていたから、元いた東京へ戻り、また一からやり直そうと考えていたのだ。一端の介護支援専門員として。
だから、もし、真由美さんが朽無村から脱したいと思っているのなら、寂れ行く地に独り取り残されるのが嫌だと思っているのなら、僕について来てほしいと思った。
早苗さんが亡くなり、諸々の処理が終わって一週間ほど経ってから河津邸に出向いた際、僕はその旨を、ずっと抱いていた想いを、真由美さんに打ち明けた。
随分と身勝手なことだとは思っていたし、後から、そんなことをしていいタイミングではなかったと、激しく後悔もした。常識的に考えて、実の親を亡くして間もない人間に、僕と一緒にこの寂れた村から出て行きませんか、などと言うべきではなかった。あまつさえも、朽無村は真由美さんが生まれ育った土地、亡くなった母親である早苗さんとの思い出が詰まった土地であるというのに。
それでも、僕は溢れる想いを抑えることができなかった。物憂げな表情を浮かべた真由美さんを前に、心を逸らせてしまい、気が付けば口からそれを伝えてしまっていた。
真由美さんは僕の言葉を、どこか悲し気な表情を浮かべながらゆっくりと咀嚼した後、伏し目がちに「……少し考える時間をください」と零した。僕はそれを了承し、河津邸を後にした。それが、二週間ほど前のことだ。
その間、色々と事が進んだ。茅野の復職に伴う僕の退職の手続きや、担当していた案件の引継ぎ。今住んでいるアパートを引き払う準備に、元いた東京へ戻る準備。
そして最後に、お世話になった職場関係者の方々や、担当していた顧客の方々への挨拶回りをしなければならなかった。
今日、僕はそれを名目にして、一世一代の誘いの返事を聞きに、真由美さんに会いに来たのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます