三 逃れてきた男

 この間の話とは、大雑把に要約すると〝僕と一緒にこの村を出て行きませんか?〟というものだ。

 一か月ほど前に、ほとんど寝たきりの状態だった早苗さんが脳梗塞で亡くなった時、僕は一人の介護支援専門員ケアマネージャーとして――いや、社会福祉士として、真由美さんの補助をした。正直に言って、行き過ぎなほどに。

 それなりに理由はある。早苗さんは僕の担当だったし、真由美さんは独り身で、頼れる親類もいないようだった。その上、この朽無村には、真由美さんと早苗さんの親子以外には、一人の人間も住んでいない。

 そんな中、たった一人で何から何まで準備をするのは肉体的にも精神的にも酷だろうと思い、僕は補助をすることにしたのだ。

 本来の業務である、利用していた介護サービスや介護保険の手続きの調整と後処理の他に、葬儀社への連絡、通夜と葬式の手配、自宅葬の準備の手伝い……。さっきは謙遜したが、確かに僕は何から何まで手伝った。

 そんな中で、僕は以前から真由美さんに抱いていた想いを膨らませてしまったのだ。




 二年前、大学時代の同期であり、友人である茅野かやのから「今、九州の地元で働いているんだが、ヘルニアで長期休職するから、もし可能ならば、その間こっちに来て、自分のやっていた業務の一部を一時的に引き継いでくれないか」という旨の電話があった。当時、職場の人間関係で悩んでいた僕は、その突拍子もない提案をあっさりと了承して仕事を辞め、この香ヶ地沢かがちざわへとやってきた。

 今にして思えば、随分と大胆な決断だったと思う。一時的とはいえ、三十歳を目前にして、人間関係以外はそれなりに順調だった仕事を辞め、長い間住んでいた東京郊外の街から何の縁もゆかりもない九州北部の田舎へ引っ越し、再就職するなど。

 何の考えがあってそうしたのかと問われたら、どう答えていいか分からない。でも、当時の僕はとにかく色々なことに疲れていて、景色を変えたかったのだと思う。

 大学を卒業後、特別養護老人ホームで介護福祉士として五年間の実績を積み、キャリアアップを目指して移った介護老人保健施設にて、ようやく就くことができた念願の介護支援専門員の仕事は板についてきた頃だったが、嫌というほど場数を踏んで視野が広がっていくと同時に、自分を取り巻く現状が何も変わらないことに気が付いたのだ。

 このまま、自分はここでずっと過ごしていくことになるのか?

 事なかれ主義で何もしようとしない主任と、責任感に欠ける傲慢な口先だけの先輩と、向上心の欠片もない怠惰な後輩と、ずっと一緒に働いていくのか?

 手を差し伸べなければならない社会的弱者を見下し、裏で暴言を吐いてせせら笑う連中と、ずっと付き合っていくことになるのか?

 そう考えると、生温い錘が心にぶら下がり、毎日を送るのが嫌になってしまった。それでも、念願の職業だったこともあり、僕は独り、心と身体に鞭打って働いた。介護支援専門員としての信念と責任感の下、自身の業務と、間接的に押し付けられた他の者がやるべきはずの業務を、無尽蔵にこなしながら。

 そして気が付くと――身体が鉛のように重くなり、ベッドから起き上がれなくなった朝を迎えていた。

 鳴り止まない携帯を置きざりにして、どうにか病院まで行き、診察してもらうと、適応障害だと診断された。壮年の医師が言うには、あと一歩で僕は鬱という名の谷底に落ちてしまうところだったらしい。

 先輩から限りなく罵詈雑言に近い軽口を浴びせられながら休職の手続きをして、アパートの部屋に籠った。処方された薬を飲みながら、ただひたすら、独りでぼーっとテレビとYouTubeを見ながら過ごしていた。心と身体を休める為に。

 茅野から件の電話があったのは、そんな日々を送っていた時だった。

 大学時代の友人たちとは、多忙故にほとんど疎遠状態になっていたが、茅野だけは違った。まったく同じ職業に就いたせいか、時折、電話で近況報告をし合う関係が続いていたのだ。

 いや、もしかしたら、茅野は僕のことを気にかけて電話を掛けてきていたのかもしれない。茅野には、東京で介護支援専門員の職に就いてから二年と経たない内に鬱病を患い、郷里である九州へと帰ることになった過去があった。それから無事に鬱を克服し、地元で元気に働いていると聞いていたが、きっと近況報告の会話をする中で、色々なことに疲れていた僕に過去の自分を見出したのだろう。

「都落ちだとか負け犬だとか散々笑われたけど、なんだかんだ落ち着く所なんだよ、田舎っていうのは。都会と違って、色々とユルいしな。だから、お前も短期遠征気分で、こっちでゆっくり働いてみないか?非常勤でもいいからさ」

 電話で両親に「休職してるけど、いずれ仕事は辞めるかもしれない」と告げた際、「お前が目指したいと言ったから無理をして大学まで行かせてやったのに、鬱病如きで退職するとはどういうことだ、考え直せ」と言われたこともあり、地元に帰るという選択肢を選べなかった僕は、そんな茅野の一言をきっかけに退職を決意した。退職届を提出した時、主任は最後まで事なかれ主義で何の言葉も掛けて来ず、先輩からは罵倒を、後輩からは嘲笑を受けたが、何も感じることはなかった。いや、感じる術を失っていたのかもしれない。

 アパートを引き払って、ほとんど身一つで東京を発ち、九州北部にある地方都市、香ヶ地沢へとやってきた僕を、茅野は笑顔で歓迎してくれた。久しぶりに会った茅野は、大学時代の面影がないほど太っていたが、随分と血色が良く、活力に溢れていて――ヘルニアによる腰の具合を除けば——調子が良さそうだった。

 引き継ぐことになった茅野の仕事は、委託介護支援事業所の介護支援専門員だった。僕が東京の介護老人保険施設でやっていた仕事と、ほとんど同じ業務内容だったが、明白に違っていた点もあった。

 田舎特有のおおらかさなのか、それとも経営方針によるものなのか、業務内容がずっと地域住民と肉薄したものになったことだ。

 元来、介護支援専門員とは、顧客である人間との間柄が否が応でも深くなる職種だ。程度はあるが、顧客の家庭環境や経済状況といった身の上を知らねば、ケアプランを作成することが難しいし、並行して精神的ケアも行わなければならない。

 だが、それらを――今にして思えば――機械的にやっていた前の職場よりも、香ヶ地沢の委託介護支援事業所は、ずっと顧客に寄り添う経営形態を取っていた。

 顧客である地域住民の声に耳を傾け、一人一人に適切なケアプランを練り、時には自宅を訪問してモニタリング業務も兼ねた直接的なケアもする。正に、地域密着型の経営形態だったのだ。

 本来、介護支援専門員が直接的なケアをすることはないのだが、自宅を訪問してモニタリング――現場の状況を見て、顧客の声を聴いて、プランニングしたサービスが的確だったかどうかを見定める業務――をしていると、あれこれと世間話に花が咲き、顧客との間柄がより深いものになった。それは前の職場では経験することのなかった人との関わり合い方で、介護支援専門員になる前の介護福祉士時代に経験していたものに近かった。

 僕が地元の人間ではないということも手伝っていたのだろう。東京から来たと言うと、顧客は物珍しそうに身の上に関する質問を飛ばしてきた。それに対し、正直に答えているだけで、ほとんどの顧客は心を開いてくれた。僕の身の上を憂い、親身になって、労いの言葉を掛けてくれた。

 そうなると、本来の業務はなどと言っておられず、ちょっとした家事の手伝いや散歩の付き添いといった小さな介助もついでに行うようになった。厚意を与えられた分、厚意で返す。それは僕にとって、当たり前のことだった。

 人手不足ということもあり、前の職場で働いていた時と同じくらい多忙な日々を送ることになったが、苦にはならなかった。それどころか、僕は段々と心身の健康を取り戻していった。

 それに伴い、介護福祉士として働いていた頃に感じ、介護支援専門員になってからはすっかり失っていたもの――やりがいも、取り戻していった。一方通行の欺瞞的なやり取りではなく、人と人との確かな繋がりを実感しながら働いたことによって。

 無論、良いことばかりではなく、時には大変な目にも遭ったが、それでも僕は挫けなかった。介護支援専門員として、社会福祉士としての誇りと気力を取り戻したおかげで、仕事をするのが、毎日を送るのが、楽しくなっていた。

 真由美さんに出会ったのは、そんな時——香ヶ地沢に来てから半年の月日が過ぎようとしていた頃だった。

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