二 孤独な女

「この間は、ありがとうございました。本当に、何から何までして頂いて……」

 客間である和室のテーブルに着くと、真由美さんが麦茶の入ったコップを差し出しながら、ぺこりと頭を下げた。長い黒髪が耳元からさらりと零れて、肩に垂れる。

 僕はその様を、心の中に湧き上がる不純な欲望を抑えながら見つめていた。

 目鼻立ちが整った薄い顔に、艶やかな長い黒髪。夏らしくないブラウンの長袖タートルネックシャツに、ぴったりと包まれた華奢な身体。服装はいつも似たような感じで野暮ったいのに、それを補って余りあるほど優れたスタイル。

 差し出されたコップに添えられた手は、白く、細く、綺麗で……まるで〝儚げな美しさ〟を追い求めて作られた、精巧な陶器人形のようだった。

「い……いえ、当たり前のことをしただけですよ。むしろ、ああいった時の為に、僕みたいな職業の人間がいるといっても過言ではないですから」

 我に返り、謙遜しながらコップを受け取った。中に浮かんでいる氷が、カランと音を立てる。

「……あれから、もう一か月になるんですね」

 つい先程、拝んだばかりの仏壇の方を見た。その手前の左側に、こじんまりと設けられている祭壇には、遺影と遺骨、仮位牌が並んでいる。遺影の中で柔らかく微笑んでいるのは、真由美さんの母親——早苗さなえさんだ。

 まだ、寝たきりになる前に撮られたものなのだろう。僕が目にしていた早苗さんよりもずっと若々しく、肌も髪も艶がある。

 さすが親子というべきか、その容貌は真由美さんに通ずるものがあった。柔和で品のある、和風美人といった顔立ち。どこか、憂いを湛えているように見える目元など、瓜二つだ。

「ええ、早いもので……。あまり、実感が湧かないんですけどね。朝起きたら、癖になってるのか、未だに母の部屋に行ってしまうんです。扉を開けて、ベッドの上に誰もいないのを見て、気が付くんですよ。ああ、もう、いなかったって。寝ぼけてるんですかねえ」

 自嘲するように、真由美さんは小さく笑った。が、その笑みの中には、微かに悲しみと寂しさが紛れていた。

「あっ、そういえば、ベッドの方はどうされます?引き払われるなら、業者の方に連絡を入れますが」

「それなんですけど……もう少しの間だけ、置いておきたいんですが、構いませんか?」

「ええ、構いませんよ。貸出料は確か契約した日、月始め換算の月額ですから、八月いっぱいは置いていても料金が変わることがないはずです」

「そうですか……。業者さんのご迷惑になることはありませんか?」

「そんなことはありませんよ。この間、まだ在庫が四、五台余ってるって聞きましたから。少なくとも八月中に、それらが出払う事は無いでしょうし」

 僕は、よく冷えた麦茶に口を付けた後、おずおずと訊いた。

「……やっぱり、まだ気持ちの整理がつきませんか?」

 真由美さんは、伏し目がちに、

「……ええ。ついこの間まで、母が使っていたかと思うと、どうしても……。無くなったら、この家に母がいたっていう証が消えてしまうような気がして……」

 気持ちは十分に分かるが、それ自体は在宅介護において、珍しいケースだった。本来は、その逆のパターンが多い。さっさと引き払ってくれと言われる方が。

 気持ちは分からないでもない。実の親といえど、ずっと在宅介護を余儀なくされてきたのだ。一刻も早く、味わってきた辛さの痕跡を消してしまいたいのだろう。

 親が痴呆症を併発していたら尚更だ。幼い頃からずっと目にしてきた親という偉大な存在が、三つ折りの介護ベットの上で寝たきりのまま、じっと虚空を見つめ続けたり、意味の無いことを喚いたりしていたら、否が応でも辛くなってしまうだろう。その上、そうなってしまった親の面倒を、一日中見ていなければならないのだ。

 最悪の場合、介護疲れから心中に至ったケースもある。身近に起きた話ではないが、想像するだけでも心が痛む。実の親を、自分の手で……。

「八月いっぱいと言わずに、気持ちの整理がつくまでで構いませんよ。業者の方に、在庫が余っている内は貸し出しを継続できるように手配しておきます。料金も割安になるように、頼んでみましょう」

「そんな、そこまでして頂かなくても大丈夫です。八月の間だけで十分ですから」

 真由美さんは、申し訳なさそうに俯いた。また黒髪が垂れ、白い頬を撫ぜるように揺れる。その様が、言葉では容易く言い表せないほどに美しく感じた。慌ててコップを掴み、麦茶を含んで後ろめたさと一緒に飲み込む。

「分かりました。では、業者の方にそう伝えておきますので……」

 そう言うなり、途端に場が沈黙してしまった。真由美さんは俯いたままで、部屋の隅に置かれている扇風機の駆動音と、開け放たれている掃き出し窓から聴こえてくるセミの鳴き声だけが、静かな和室に響く。

 咄嗟に場を取り繕おうと、

「そういえば、生前、早苗さんはよく唄を歌われてましたね。あれって、この辺りで歌われていた民謡か何かですか?」

 と、訊いた。

 何だっていい。何か会話をして、真由美さんの気を紛らわせなければ。

 それが例え、亡くなった母親の話題だっていい。経験上、反ってそういった話題をした方がいいのだ。遺された人間は、亡くなった人間の話をその口から語ることで、徐々に事実を受け入れていくのだから。そうやって亡くなった人間のことを反芻し続ければ、欠けた心は段々と元に戻っていく。もっとも、それがどれだけの時間を要するのかは、個人差があるが。

「唄というと、これのことですか?」

 真由美さんはそう言うと、囁くように緩やかな調子のメロディーを口ずさみ始めた。

「ええ、それです。聞いたことがない唄でしたから、この朽無村だけに伝わっている民謡かと思いまして」

 そう言うと、真由美さんはフッと口元を緩めた。

「これは、サトマワリの時に歌われていたものです」

「サトマワリ?」

「ええ。昔、村で行っていた、お祭りみたいなものです。もうずっと前に無くなった催しなんですけど、母はそれを覚えているんでしょうね。寝る前なんかにも、よく歌ってました」

 真由美さんの顔が綻び、安堵した。

 そうだ。これでいい。こうやって思い出を語るだけでいいのだ。今は、それだけでも。今は……。

 それから、いくつかの話題を通して会話に花を咲かせた後、僕は一息ついて切り出した。

「……あの、真由美さん。この間の話、考えて頂けました?」

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