オウマガの蠱惑

椎葉伊作

序章

一 朽無村

 右も左も見渡す限り、青々と穂を実らせた広大な田んぼ。その向こうには、壁のように連なった深緑の山々。そこに点在する鉄塔と、それらを繋ぐ送電線をくっきりと浮かび上がらせる濃い青空には、もくもくと入道雲が立ち上っている。

 そんな八月の景色の中を、僕は社用車の軽バンで走っていた。 

 田んぼに挟まれた狭苦しい一本道の道路は、アスファルトの舗装がボロボロにひび割れていて、所々から逞しく雑草が伸びていた。それらをなびかせ、時に踏みつけながら、目的地へと進んでいく。

 別に、急いでいるわけではなかった。が、逸る僕の右足は、自然と強くアクセルを踏み込んでいた。

 狭苦しく、整備が行き届いていない道路を猛スピードで走るのは危険な行為だが、心配する必要はない。前方の見通しは良いし、今までの経験上、向こうから対向車が来ることなどない――というより、そもそもこんな僻地を走っている車など、他にいるはずがないのだから。

 軽バンが安っぽいエンジン音を響かせながら、少しずつ速度を上げていく。天気も良いし、窓を開けたら気持ちがよさそうだなとは思ったが、すぐに思い直して開けないことにした。車内に満ちている冷房の冷気を逃がしたくはなかったし、そこら中でけたたましく喚いているであろうセミの鳴き声を聴きたくなかった。そして何より、汗を掻きたくなかったからだ。

 ルームミラーを覗き込み、今日の為にクリーニングに出して新品同様の白さにしていたYシャツの襟を正した。ついでに、髪型もきちんと整っているか確認する。

 別に何てことはない、いつもの仕事着の格好だが、今日に限っては、身なりをきちんとしておかなければならない。

 返事を聞くのだから。僕の――高津たかつ幸人ゆきひとの、一世一代の誘いの返事を。




 やがて、狭苦しい道路の左右に広がっていた田んぼが、手入れのされていない休耕田へと変わっていった。そこを走り抜けていくと、ようやく目的地の入り口へと続く坂道に差し掛かった。アクセルをふかして登り切ると、もう何年も前に役目を終えたというのに、未だに放置されているバス停の標識が、門番のように佇んでいるのが目に入った。すっかり錆びついているが、辛うじて書かれている文字が判別できる。


 〝朽無くちな


 あのバス停の方へ曲がれば、山の斜面を切り開くようにして作られた傾斜地集落——目的地である朽無村くちなむらがある。

 ……いや、もう村とは言えないだろう。

 緩やかに減速してハンドルを切り、バス停の脇に掛けられている小さな橋を渡って朽無村へと入った。グネグネと曲がりくねった九十九折の坂道になっている道路のアスファルト舗装は、先程まで走っていた道路よりもずっとひび割れが目立った。所々、ボコボコと陥没した穴までできている。それらを、いつものように細かなハンドル捌きで、するりと避けながら走った。

 坂道の脇には、斜面に沿うように作られた棚田が並んでいるが、どれもひとつ残らず、大人の背丈ほどもある雑草が伸び散らかした荒れ地と化している。先程、村に入る前に眺めていたような休耕田ではない。もう何年も前に、耕作放棄地となったせいだ。

 この朽無村は、かつては県内でも有数の米の生産地として、名を馳せていたらしい。が、過疎化に伴い、米農家は段々と数を減らしていった末に、とうとう全滅してしまったのだという。今となっては、土地を腐らせない為に、広大な面積を持った田んぼのみが、市の農業協同組合によって管理されている。来る時に見かけていた、青々とした田んぼがそれだ。村内の棚田や、手前にある狭い田んぼは、農機で手入れするのが面倒らしく、管理されていない故に、この有様になっている。

 無理もない。こんな場所で……。

 窓の外を見る。荒れ果てた棚田群の合間を縫うように敷かれた狭い九十九折の坂道。その、いくつものヘアピンカーブの曲がり角に、ぽつぽつと廃屋が点在している。どれも元は立派な和風家屋だったのだろうが、今となっては倒壊寸前のボロ屋だ。屋根の瓦は黒ずんだ苔に覆われていて、錆びついてボロボロの雨どいには土が溜まっているのか草が生え、ひび割れてくすんだ漆喰の壁には蔦がびっしりと張り付いている。中には瓦が雪崩を起こしたように崩れているものや、窓ガラスが粉々に割れているもの、壁のトタンが捲れ上がっているものもあった。かつてはトラクターなどの農機具を収めていたであろう大きな小屋もあったが、全体が今にも崩れそうなほど傾いている上に、傍の竹林に侵食されてしまったのか、ボロボロのトタン屋根から無数の竹が突き出ていた。

 ―――この村はもう、自然に呑み込まれてしまっている。

 人の気配が無くなれば、当然の事。正に自然の摂理だ。人が切り開き、人が家を建て、人が住み着いた土地から人が消え、人の営みが無くなれば、残された物は朽ちていくのみ。自然へと還っていくのだから。

 人の息遣いがあれば、ここも再生して……いや、こんな土地に住み着きたいなどという物好きな人間はいないだろう。こんな、山と川と田んぼしかなく、バスも通っておらず、市街地まで車で三十分もかかるような辺境の田舎に。

 ……物好き、か。

 そう考えてしまった自分に、後ろめたさを感じながら、アクセルを踏んで曲がりくねった坂道を上った。

 今、目指しているのは、その物好きな人間の下なのだから。




 グネグネと九十九折の坂道を上り続けた後、軽バンのハンドルを切って、この村の中で唯一、人の息遣いが感じられる領域へと入り込んだ。

 敷地の入り口の道沿いに塀のように並べて植えられた馬酔木あせびに迎えられ、河津かわづ邸へと到着する。邪魔にならないように、なるべく玄関先から離れた敷地沿いに軽バンを停めた。

 エンジンを切って深呼吸をすると、ルームミラーを見遣り、自分の顔を見つめた。必要以上に緊張している面持ちをしている。

 肩の力を抜け。いつものように行くんだ。

 そうルームミラーの中の自分に言い聞かせると、仕事用のトートバッグを引っ掴み、ドアを開けて外へと出た。エンジンを切った時から聴こえていたセミの鳴き声がボリュームを増し、車内に効いていた冷房によって冷やされていた身体が、むわっと湿度の高い熱気に包まれた。思わず面食らい、小さく咳をする。

 汗を掻かないように、爽やかに行かなければ。

 ポケットからハンカチを取り出して、顔の粘り気を拭いながら、河津邸の玄関へと向かった。

 全体的に風情のある趣きの和風家屋。右手にある二階部分は、後から建て増しされたのだろう。建屋が鉄骨によって底上げされていて、一階部分が車庫になっている。そこに、型式の古い水色のアルトがいつものように停まっていた。軒先には洗濯物が干してあり、いくつかの衣服が小風に揺られている。

 左手には庭があり、そこにも敷地の入り口と同じく、馬酔木が植えられている。枝葉が丁寧に刈り整えられているのを見るに、日頃からきちんと手入れされているのだろう。

 〝忌中〟の札が掲げられている玄関扉の前まで辿り着くと、ふうと息を吐いた。ごくりと唾を飲みながら、インターホンのボタンを押し込む。

 磨りガラスがはめ込まれた扉越しに、ピンポーンという音がくぐもって聴こえた。それから、ほんの少し間をおいて、

「はぁい」

 と、透き通っているような響きの声が返ってくる。

 いよいよだ。僕は目を閉じると、心の中で小さく自分を励ました。

 大丈夫だ。きっと、大丈夫だ。

 扉の向こうから、とたとたと足音がして、人が来る気配がした。意を決して、目を開ける。

「どうぞ」

 磨りガラスの向こうに、人影があった。カラカラと扉を開き、

「こんにちは」

 いつものように、と意識しながら、にこやかに挨拶をした。そんな僕を、

「こんにちは。どうぞ、お上がりになってください」

 と、河津かわづ真由美まゆみさんは、柔和な表情で出迎えてくれた。

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