四 隠された真実
それからすぐに、僕は朽無村を後にした。
真由美さんはいつものように、僕が車で九十九折りの坂道を下り切るまで、家の敷地の外に出て、見送ってくれた。丁寧に刈り込まれた馬酔木の横で、深々と頭を下げながら。
来た時と違い、窓から見える、これまで幾度となく目にしていたはずの朽無村の光景は、まったく別の印象を持つものになっていた。
見様によっては牧歌的でもあった、自然に呑み込まれた棚田も、朽ちた廃屋も、酷く不気味で恐ろしいものとして映った。
それがすべて、人の理解が及ばない怪異によって蹂躙された営みの残骸なのだと思うと―――。
気が付くと、僕の右足は強くアクセルを踏み込んでいた。いつも避けて走るアスファルトの陥没を避ける余裕も無かった。
九十九折りの坂道をガタガタと下り切って、村の入り口にあるバス停の前を通る際、ふと、一瞬だけ、今しがた下りてきた村の方を見上げると――真由美さんは未だ、敷地の外に佇み、僕のことを見送っていた。
その遠く見えたおぼろげな姿は、今にも消え入りそうなほどに儚く、美しいものに思えたが、
同時に、未だに視られているということが、あまりにも恐ろしかった―――。
程なくして、僕は諸々の後処理と手続きを済ませ、復職した茅野に見送られながら、約二年の時を過ごした香ヶ地沢を発ち、九州から元いた東京へと戻った。
決意していたように、前に勤めていた会社とは別の介護保険施設に就職し、一端の介護支援専門員として一からやり直すことにも成功した。また同じことになるのではないかという懸念があったが、今のところは人間関係も概ね良好で、順調な日々を過ごせている。
香ヶ地沢での経験は、僕の人生において大切なものとなった。生きる気力を取り戻すきっかけを与えてくれたからだ。茅野にも、新たに出会った人たちにも、感謝している。
もちろん、河津真由美さんにも―――。
あれから、決してやるべきことではないと分かりつつも、僕は鏖魔蛾について調べてみた。
だが、どんな方法を使って調べても、鏖魔蛾について分かることは何もなかった。探せど探せど、それらしき情報を見つけることができなかったのだ。
それはやはり、鏖魔蛾が禁忌たる存在だからなのだろうか。
しかし……調べている最中に、僕は気になるものを見つけた。
インターネットを使って、それらしい情報がないか無作為に探し回っていた時に、偶然行き着いた、〝
そのサイトはどうやら、主に二〇〇〇年代を中心に匿名掲示板のスレッドに書き込まれた、死ぬ程洒落にならない怖い話——いわゆる洒落怖と呼ばれるものを、それぞれ記事にしてまとめているようだった。
話の題名や、書き込まれた年代、怪異の名前、特徴などが、丁寧にカテゴライズされており、それなりに人気もあるのか、今現在も絶えず更新されているようで、記事毎に設けられているコメント欄では、匿名の書き込み主たちによるオカルト議論が熱っぽく繰り広げられていた。
そんなサイトの、〝殿堂入り級の名作〟というカテゴリの中に、こんな題名の記事があった。
〝Q州K村の〇〇〇〇様〟
思わずクリックし、その話を読んでみると――内容が、酷似していたのだ。
真由美さんが語った、自身と朽無村にまつわる忌まわしい過去に。
だが、それは、何から何まで同じというわけではなかった。
まず、語りの視点が違っていた。
匿名掲示板に寄せられている話なので、当然、書き込み主の身の上は不明なのだが、その視点は明らかに、真由美さんの口から語られた過去に登場する人物——山賀優一という少年のものなのだ。
小学五年生の時に、父親の仕事の都合でQ州地方にあるK村という、周りに山と川と田んぼしかない田舎に引っ越して暮らすことになり、そこにいた幼馴染っぽい男の子と女の子と仲良くなり、病気がちの妹と一緒に遊んでもらい、しばらくして村で毎年行われているという奇妙な祭りに家族で参加することになる。
書き込み主はそんな少年期の体験談を綴っているのだが、これは山賀優一という少年の経験そのものではないか。その上、村の風習や奇妙な祭りの方法、登場人物、地理や建物の呼称など、細部に至るまで、九州の朽無村そのものなのである。
しかし、書き込み主の少年が辿る顛末は、真由美さんが語った過去——真実とは違った展開を見せる。
史実なのは、奇妙な祭りの後、両親が村の上手にある神社に出かけて行く所までであり、妹が神社に向かう理由や、神社で目の当たりにする光景は、違うものとなっているのだ。特に、神社での一連の出来事は、似通っている部分こそあれど、まったく別のものに。
そこから舞台は村を離れ、書き込み主の少年は村に巣食っていた悪霊の穢れを受けたことによって、辿ることとなる。
一家で村から逃げ出し、駆け込んだ寺でお祓いを受け、無事に意識を取り戻し、悪霊の穢れはすっかり祓われたかに見えたが、元いた地に戻って暮らしていると、穢れどころではなく、祓えたと思っていた悪霊そのものが憑いて来てしまっていて、意識を失ってしまい、紹介された寺でまたお祓いを受けるが、再び意識を失い、その寺で封印された悪霊と共に、定期的にお祓いを受けつつ暮らすことになるという、苦難の道を。
そして最後には、自身の中に未だ根強く残る穢れによって、まるで導かれるかのように、封印されている悪霊と共にQ州のK村へ行かなければならないと独白し、話は締めくくられるのだが……。
これは推測に過ぎないが、この洒落怖の〝Q州K村の〇〇〇〇様〟とは、真由美さんが書いたものなのではないだろうか。
真由美さんは、WEBライターを生業にしていると聞いていた。
詳しい業務内容は訊かなかったが、完全にフリーランスで、細々とだが、なんとか食い繋いで行けるくらいの収入は得ていると。
それは恐らく、朽無村から出られないが故に、完全に在宅でできる仕事を生業にするしかなかったのだろうが……。
真由美さんが語ったことによると、悲劇が起きたのは、自身がまだ高校二年生の頃だった。そして、真由美さんの母——早苗さんは、悲劇の後、一日中和室でぼおっと座り込んでいるだけの、抜け殻のような人になってしまったという。
しばらくは、真由美さんも似たような状態に陥っていたというが――要するに、まともに生きていけるはずがないのだ。そんな親子二人だけでは。
精神的な面だけではない。ただでさえ僻地にある村から半日ほどしか離れられないという穢れの制約、車を運転できる者の不在、日にほとんど来なかったというバス、働き手、稼ぎ口の喪失……。交通的な面でも、金銭的な面でも、まともに暮らしていけたはずがない。
だが、そんな状態にあっても、真由美さんが自立できるまでに至ったのは、恐らく、援助があったからだろう。
悲劇の後、村中の人間のお祓いを敢行したり、真由美さんが香ヶ地沢を脱する為の試行錯誤に当たったという、謎の男——鳳崎を始めとした、〝そういった職業の方々〟の。
その組織——もしくは、集団?一派?――が、どういう成り立ちで、どれだけの力を持っていたのかは分からない。だが、そうでなければ、僻地の村に住む、親類からも見放された頼れる者のいない親子が、少なくとも真由美さん一人で生計を立てられるようになるまで、まともに暮らせたとは思えない。生活を補助する者の存在が、絶対にあったはずだ。
つまり、〝そういった職業の方々〟と真由美さんには、決して浅くない間柄があったと思われる。
そして、鳳崎という男の語るところによれば、〝そういった職業の方々〟は、力のある怪異を相手にした際、その怪異の名前や特徴——アイデンティティを、匿名の誰かが経験した怖い話として脚色し、それをインターネットを使って世間に流布することによって、弱体化を図るのだという。大勢の人間に存在を知らしめることによって、恐怖という信仰心から生まれる怪異の力を、薄めてやるのだと。
それによって生まれたのが、主にネット上で語り継がれている洒落怖と呼ばれるものらしいのだが、それは鳳崎のような〝そういった職業の方々〟が、その辺の物書きに依頼して書かせたものなのだという。
……WEBライターとは、要するに物書きである。その職業に、プロとアマチュアの差がどれだけあるのかは知らない。だが、当然、技量は求められるはずだ。
多くの人間を魅了し、一定の評価を得て、それなりの知名度を保つに至るほど、印象的な文章を書く力を。
だが、〝そういった職業の方々〟が、真由美さんに依頼して〝Q州K村の〇〇〇〇様〟を書かせたとは、到底思えない。
無意味だからだ。
既に事が行き着くところまで行き着き、結末を迎えてしまっている今、怪異をどうにかしようとしたところで、どうしようもないのだから。
だが……。
こう考えれば、説明がつく。
〝Q州K村の〇〇〇〇様〟は、真由美さんが、こうだったら良かったのに、という幻想の下に、過去を――現実に起きた悲劇を改変、脚色し、書き上げたものなのではないだろうか。
それを裏付ける要素——真実との相違点は、数多く存在する。
山賀家の面々が、誰も死なないこと。
途中に終わったとはいえ、お社で行われていた宵の儀の内容が、生理的に悍ましいものではないこと。
宵の儀が行われている理由も、悪霊の呪い、穢れを受けなければ、村で生きていくことができないという言い方をされていて、生理的な嫌悪感を催すようなものだとは明言されていないこと。
宵の儀失敗後の村の様相が、真由美さんが当時、父親から言われていた通りの、悪霊が村をうろついているから子供が外を出歩ける状況ではなくなっている、というものになっていること。
山賀家が無事に郷里へと戻り、優一少年の苦難こそあれど、安泰に過ごしているということ。
他にも細かくあるが、そのすべてが、真由美さんにとって理想的なものとなっている。
ある程度、現実を反映させてはいるものの、山賀家の全員が無事に生き延びて村を脱しているし、村の者たちが意地汚い欲望の為ではなく、自分たちの暮らしを守る為に仕方なく呪いの儀式を執り行っているかもしれないという仮説も――Q州のお坊さんという現実に存在しない第三者の視点からだが――立てられている。
そして何よりも、生理的嫌悪感を催す要素が取り払われているのだ。
これは真由美さんが、自身の家族を含めた村の者たちと、山賀家に対して思う、こうであってほしかった姿なのだろう。
自身が育った朽無村は、決して意地汚い人間の集まりではなかった。
山賀家は、無事に生き延びて村を脱し、元いた地で安泰に暮らしている。
きっと、そんな理想、夢想、幻想を、真由美さんは〝Q州K村の〇〇〇〇様〟に反映させたのだ。
しかし、その結末は理想的ではなく、不穏な雰囲気が漂うものとなっている。
優一少年——の体を取っている真由美さん――は最後に、こう独白しているのだ。
〝……まあ、それは自分が一番、分かっているんだけど。
だって、ずっと呼ばれてるような気がするんだ。
K村で、アレと目が合ってしまったあの日から、ずっと、ずっと。
Q州のお坊さんの言う通り、御住職さんの言う通り、忘れるべきなんだと思う。
楽しい思い出とかで、上書きして。
だけど、無理なんだ。
無理なんだよ。
もう、自分は、逃げられないんだと思う。
アレの穢れに、触れてしまったからには。
アレに、魅入られてしまったからには。
だから、行かなきゃ。
アレと一緒に、帰らなきゃ。
アレが、かつて巣食っていた場所に。
Q州の、K村へ。
これはきっと、罰みたいなものなんだ。
向き合わなきゃいけないんだと思う。
例え、家族と離れ離れになってしまっても。
たった一人でも。
あの忌まわしい記憶に。
自分を苦しめる穢れに。
この痛みに。
きっと。
ずっと。
〇〇〇〇様という、呪いに―――。〟
赤の他人からすれば、悪霊の穢れに触れ、魅入られてしまった書き込み主の少年が、まるで引き寄せられるかのように、その根城である九州の村へ行こうとしている、という内容に映るだろう。
だが、真実を垣間見た者の視点からすると、これは正に、真由美さん自身の独白であると同時に、ある種、懺悔とも言えるものとして映るのだ。
この〝Q州K村の〇〇〇〇様〟は、その題名の通り、登場する怪異の名前が最後まで明かされない。口にするだけで穢れが及ぶほどの怪異——禁忌の存在だとされているが故に。
だが、当の朽無村に蔓延っていた悪霊——シラカダ様は、それほどの怪異ではなかったはず。悪しき力こそ持っているが、禁忌とされるほどの存在ではなかったはずなのだ。
ではなぜ、シラカダ様と明言されず、〇〇〇〇様と伏せられているのか。
それは……そこに内包されているからだ。
鏖魔蛾——ヨナグニサマという、真の禁忌たる存在の影が。
無論、優一少年が朽無村に向かったのは、自身の復讐心によるものである。そこに、怪異の洗脳めいた影響などない。
つまり、この独白自体——優一少年の視点から見たとしても――虚偽の一節に過ぎないのだが、一部の文言だけ抜き出して見てみると、真由美さんの独白として、この上ないほど適っているものとなるのだ。
〝……まあ、それは自分が一番、分かっているんだけど。
K村で、アレと目が合ってしまったあの日から、ずっと、ずっと。
忘れるべきなんだと思う。
楽しい思い出とかで、上書きして。
だけど、無理なんだ。
無理なんだよ。
もう、自分は、逃げられないんだと思う。
アレの穢れに、触れてしまったからには。
これはきっと、罰みたいなものなんだ。
向き合わなきゃいけないんだと思う。
例え、家族と離れ離れになってしまっても。
たった一人でも。
あの忌まわしい記憶に。
自分を苦しめる穢れに。
この痛みに。
きっと。
ずっと。
〇〇〇〇様という、呪いに―――〟
……真由美さんは、自分の理想を反映させた幻想譚の最後に、残された現実と、自身による真実の独白を、懺悔を、込めたのだろう。
朽無村で、悲劇が起こったあの日から、ずっと分かっていると。
もう、無理なのだと。
自分は、逃げられないのだと。
生まれ育った、この地から。
だが、これは罰のようなものなのだ。
だから、向き合わなければならない。
鏖魔蛾の穢れに、侵されてしまったからには。
例え、家族と死別しようとも。
たった独りになろうとも。
忌まわしき村に生まれた者——自身が想いを寄せた者の家族を、惨たらしく殺した村の一員として。
忌まわしき悪霊の穢れの下に生まれた者——自身が想いを寄せた者が命を落とす要因になった、シラカダの血筋を引く者として。
決して上書きすることのできない、過去の記憶に。
自分を苦しめる穢れに。
この痛みに。
きっと。
ずっと。
永遠に。
ヨナグニサマという、呪いに―――。
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