三 その名の由来

 〝 宇多川先生へ。


 これを読んでいる頃には、とっくに蟲籠堂の異変に気が付かれていることだと思います。もしかして、お寺中が大騒ぎになっているのでしょうか。

 禁忌庫から件の竹筒を持ち出した犯人は、僕です。勝手な真似をして、本当にごめんなさい。

 僕はこれから、九州の朽無村という所に行ってきます。そして恐らく、二度と戻ってくることは無いと思います。

 こういった形での別れになることを、どうか許してください。本当ならば、きちんんと面と向かって伝えるべきなのでしょうが、こうする他に、手段がありませんでした。ですから、思いの丈はすべて、ここに書き残すことにします。

 宇多川先生。今まで僕の面倒を見てくれて、本当にありがとうございました。書き出したらキリがありませんが、

 六年前、まだ十一歳の子供だった僕を、悪霊の穢れから救ってくれたこと。

 その後、半分呆けたようになってしまった状態の僕を、病院から引き取ってくれたこと。

 まともにものを言えず、ただただぼーっと過ごすことしかできなかった僕に、毎日優しく声を掛けてくださったこと。ご飯を食べさせてくれたこと。お仕事で多忙なのにもかかわらず、暇さえあれば、一緒にいてくれたこと。色々なお説法や、楽しい話を聞かせてくれたこと。

 あの頃の記憶は曖昧だけれど、先生の手の温もりや、サングラス越しの温かい眼差し、柔らかい声は、今でもはっきりと覚えています。

 その後、心身が落ち着いて、まともに生活ができるようになってからも、行き場のない僕を見捨てずに、文蘭寺に置いてくださったこと。衣食住を与えてくださったこと。学校にまで通わせてくれたこと。授業では習わない大切なことを、優しく、時に厳しく、教えてくれたこと。

 先生が今まで僕にしてくれたことすべてに、心の底から感謝しています。感謝してもしきれないくらいです。何から何まで惜しみなく面倒を見て頂いて、本当にありがとうございました。

 もちろん、他の方々にも感謝しています。僕が生きる気力を取り戻すことができたのは、宇多川先生を始めとする、文蘭寺派の皆さんのおかげでした。皆さんがいなければ、僕は今頃、この世にいないことでしょう。

 だから、これから僕がやろうとしていることを考えると、とても胸が痛みます。皆さんが、何より先生が与えてくださった多大なる恩を、とてつもない仇で返すような真似をすることになってしまうのですから。

 でも、僕はやらねばなりません。

 過去に、向き合わなければなりません。

 六年前に、僕から何もかもを奪ったあの村と、そこに巣食っているであろうモノと、対峙しなければなりません。

 きっと、ことのすべてを説明したとしても、先生は僕の行動を称賛しないでしょう。いえ、それ以前に、僕のやることを絶対に許さないでしょう。

 それでも、僕はやるつもりです。やらなければならないのです。例え、僕がどんな結末を迎えようと。

 父と、母と、陽菜の為に。

 今まで、本当にありがとうございました。   山賀優一 〟




「……私は最初、シラカダ様に取り憑かれてしまった優一くんが、その穢れによる苦しみを、自死という形で終わらせる為、引き寄せられるかのように朽無村へ戻って来たのだろうと思っていました。でも……それは間違っていました。読んで頂いたら分かる通り、優一くんはずっと、復讐を誓っていたんです。この朽無村に――自分の家族を殺した村人たちと、シラカダ様に対して。だから、六年の時を経て、この村に戻って来たんです。怪異に操られていたわけではなく、復讐を遂げるという、自身の明確な意志の下に。人間であろうと、怪異であろうと、無関係に滅ぼすことができるオウマガの繭を携えて。自分諸共、何もかもを、灰にする為に……」

 読み終えて言葉を失っている僕に、真由美さんは粛々と語った。遠い目で、僕の手の中にある便箋を見つめながら。

「……いえ。実際のところ、優一くんがどういう風に考えていたのかは、定かではありません。オウマガの性質を、及ぼす穢れの影響をどこまで知っていたのか。村に着いてから、すぐに復讐に乗り出さなかったのは、復讐の対象が一カ所に集まるサトマワリの瞬間を待っていたのか。それとも、ギリギリまでオウマガをその身に宿すことを躊躇っていたのか。その理由は何だったのか……。今となっては、すべてが謎のままです」

 便箋を持つ指の先から、サアッと血の気が引いていく。

 今、手にしているこれは、真由美さんが語った、到底信じられない過去を、紛れもない真実だと裏付けるものであると同時に、山賀優一という少年の、遺書とでも言うべきもの―――。

「あの……高津さん」

 名前を呼ばれて、我に返る。

「便箋が、もう一枚あると思うんですけど……」

 手元を見ると、確かに読んでいないものが、もう一枚あった。




〝 追記


 鏖魔蛾についてのことは、できる限りのことを使って調べました。破魔雲雀や魔知鉦叩と違って、気安く持ち運ぶことができない危険な代物であることは分かっています。なので、その時が来るまでは、竹筒に施してある封印が解けてしまわないように、十分に注意して取り扱います。

 先生のお身体のことを考えると、きっと僕がやることの後処理に来るのは、鳳崎さんになるのでしょう。

 鳳崎さんへ。

 今まで、本当にありがとうございました。僕にとって鳳崎さんは、優しくて、何でも教えてくれて、頼れる兄のような存在でした。最後に、また迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、どうか許してください。 〟




「……鳳崎さん曰く、霊虫にはそれぞれ種ごとに、名前があるそうなんです。鳳崎さんが優一くんの家で化け物に対して使ったのは、そこにも記されている破魔雲雀ハマヒバリ。お社に入る前に私に託してくれたのは、魔知鉦叩マチカネタタキ。名は体を表すと言うように、きっと霊虫の名前は、その性質から由来しているのだと思います。魔を破る、魔を知らせる……」

 真由美さんの説明を聴きながら、追記の一行目に、再度目を通す。

 その始まりにある、見慣れない文字列。


 〝 鏖魔蛾 〟


 ―――おう……ま……が……?


「さっきも言ったように、オウマガがどういう存在なのかは、私もほとんど分かっていません。でも、その名前から察するに、オウマガというのは……」

 真由美さんは、躊躇いがちに一呼吸置いて、

「ありとあらゆるものをみなごろしにしてしまう魔の蛾、ということを意味しているのでしょうか……」

 瞬間、場がシン……と静まり返った。

 さっきまで聴こえていたはずのヒグラシの声や、部屋の隅に置かれている扇風機の駆動音が、耳に入らない。代わりに、嵐の前の静けさのようなヒリついた沈黙が、場を―――、

「やっ、やめてくださいっ。そんなっ……こんなことが、あるわけないじゃないですかっ」

 パニックになりかけながら、沈黙を破った。慌てて便箋を手放し、テーブルに放る。

 なぜか、そうしなければいけない気がした。反射的に、本能的に。

 何か恐ろしいものが、自分の身に迫っているような感覚が伝ったのだ。指先から、鼓膜から、背筋から、ぞわりと。

「そんな、人を灰にする化け物なんて、いるはずがない。そんなものが、この世に存在するわけがない。そんな馬鹿げた話がっ」

 口が、勝手に回り始める。

 忍び寄る恐怖を打ち消そうとして、突き付けられた真実から目を背けたくて。

「う、う、嘘ですよね?オウマガなんて、いないんでしょう?手の込んだ、作り話なんでしょう?ありとあらゆるものを皆殺しにする蛾の化け物なんてっ……それに、語られた話の中では、オウマガじゃなくて、別の呼び方をされていたじゃないですか。なんとかのアラヒトガミとかっ……あと、そう、ヨナ――」

「高津さんっ!」

 真由美さんが、僕の言葉を鋭く遮った。ビクッと身が跳ね、喉が強張る。

「……忌み名を、口にしない方がいいと思います。既に穢れに侵されている私が呼称するのは問題ありませんが、高津さんが呼称する際は、あだ名である〝鏖魔蛾〟の方でないと、穢れに触れる恐れが――」

 と、その時、

「……っ!」

 淡々と制するように続ける真由美さんの背後に、何かの気配があることに気が付き、息が止まった。

 何か――それは、視線だった。

 視られている。

 何者かが、真由美さんの肩越しに、僕を見つめている。

 目に視えないのに、確実に存在感を伴った視線の気配だけが、そこに。

 ひとつ……ふたつ……みっつ……。

 いや……二人と……一頭?

 少年と……幼い女の子と……猫?

 まさか―――、

「——ですから、存在を認識した上で口にするのは危険です。……高津さん?」

 真由美さんから呼ばれて、我に返った。瞬間、フッと肩から力が抜けて、息ができるようになる。

「……大丈夫ですか?」

「は……はい……」

 呆然と、真由美さんの背後に目を向ける。そこにはもう、視線の気配は無かった。安堵したせいか、冷たい汗が首筋をぬらぬらと落ちていく。

 そんな僕を見て、

「……すいません。私が間違っていました。鏖魔蛾は禁忌の存在ですから、例え根幹である本質を認識していなかったとしても、枝葉である断片的なことすら、口にしない方がいいんです。それだけで、穢れに触れる恐れがあったのに、私がぺらぺらと話したばかりに……」

 真由美さんが、顔に後悔の色を滲ませながら俯く。

「……いえ。もしかしたら、高津さんは既に、鏖魔蛾の穢れに侵されているのかもしれません。頻繁に、この村に来訪して、私や母と交流したことによって」

「……え?」

 カラカラに渇いた喉から、掠れた声が漏れた。

「これは、実際に体感している私の推測に過ぎませんが、鏖魔蛾にはきっと、人や怪異を惹き付ける性質があるんです。いえ、惹き付けるというよりは、人であろうと、怪異であろうと、命の有無に関わらずに、その魂を掻き乱して取り込もうとする、我が物にしようとする、という表現の方が合っているでしょうか……。鏖魔蛾に憑依されていた時の優一くんが、妙に艶めかしく映ったのは、きっとそのせいだと思います。ですから、高津さんが私を……そういう風に思い立ったのも、もしかすると……」

「そ、そんなはずが……」

 口では否定しながら、頭の中には、その仮説を裏付ける数々の要素が思い返されていた。

 語られた過去の中では活発な子供——というよりは、感情的な少女だった真由美さんが、今は落ち着いている大人の女性に――というよりは、妙に無感情な人間になっているのは……?

 僕が、真由美さんのことを意識するようになったきっかけは、早苗さんのケアを手伝っていた際に、無意識に視線を向けていることに気が付いて……。

 その横顔は、とても綺麗で……。その物憂げな目は、じっと見ていると、吸い込まれてしまいそうなほどに澄んでいて……。まるで、自身を覆い隠すかのように、いつも野暮ったい長袖のタートルネックシャツを身に着けているのに、その姿は可憐で美しく、それでいて艶やかで……。

 僕が真由美さんに惹かれた理由は、まさか……。


 鏖魔蛾のせいだったとでもいうのか―――。


「もうすぐ、元いた東京に戻られるということでしたから、お話しても大丈夫だろうと考えていましたが……もう、お帰りになった方がいいと思います。これ以上、関わらない方がいいでしょう。穢れているこの村にも、私にも―――」

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