二 残されたもの
「女?」
「ええ……。その、優一くんに取り憑いていたモノ――オウマガの穢れは、男性に対してだけ、強く及ぶんだそうです。煽られただけで、身体が灰と化してしまうほど。でも、女性はどれだけ間近に、直接的に穢れを受けても、命までは奪われないんです。ですから、あの日、私たちは生き延びることができたんです。……祖母を除いて」
「……え?」
「家に戻ると、祖母が布団の中で冷たくなっていました。死因は心臓発作と診断されましたし、鳳崎さんたちも無関係だと言っていましたけど、私はオウマガの穢れに耐えられなかったのだろうと考えています。いかに女といえど、祖母は老いによって、心も身体も弱り切っていましたから」
僕は思わず、右上を——襖の上に飾られている、河津家の遺影を見遣った。
そこには、柔らかく微笑む和服姿の老齢の女性が一人だけ……え?
違う。こうではなかった。
ひと月前まで、ここには多くの遺影が並んでいたはずだ。白黒写真のものと、カラー写真のものが入り混じって、五枚はあったはず。
それが今は、ひとつしか飾られていない。あれは恐らく、真由美さんの祖母の写真なのだろう。
だが、その左右には、額縁の紐を掛けていたのであろう折れ釘が残されているだけになっている。
「……外してしまったんです。母がいた頃は、きちんと全員分飾っていたんですけどね。父の顔が見たいだろうと思って。でも……私は未だに、父を許すことができなくて」
僕の視線を察してか、考えていることを見透かすかのように、真由美さんが悲し気に零した。
「四十九日が終わったら、母の遺影はそこに飾るつもりです。母は父の隣に飾られたいのかもしれませんけど、私は……。いつか、並べられる時が来るといいんですけどね……」
何と答えていいか分からず、沈黙していると、真由美さんは、
「でも……あの日に亡くなったのが祖母だけだったというだけで、他の人たちも、結局は……」
と、顔を曇らせた。
「……え?」
「事態がある程度収束して、警察が去っていった後、私たち村の者はみんな、鳳崎さんが所属するお寺の方々によるお祓いを受けたんです。何日にも渡る、大規模なお祓いを。でも……やっぱり、禁忌の存在であるオウマガの穢れを祓うことはできなかったみたいで……」
まさか―――。
「最初に亡くなったのは、妙子さんでした。川津屋敷のお座敷の仏壇の前で首を吊って……。その次は、幸枝さんです。車で出掛けていた際に、事故を起こして……。文乃さんは、絵美ちゃんと由美ちゃんの所に行くと言って、出先で倒れて、そのまま……。半年も経たない内に、みんな亡くなってしまいました」
「そんな、ただの偶然じゃ……」
「聞くところによると、幸枝さんも文乃さんも、死因は窒息死だそうです。幸枝さんは、ガードレールに衝突する前に、既にこと切れていたらしくて……。文乃さんは、電車の中で急に倒れたみたいで……。どちらも、村を出て香ヶ地沢から遠く離れた土地に行こうとしていた時のことです。鳳崎さんたちからは、危険だからと止められていたんですけれど、二人とも信じずに出て行ってしまって……」
言葉を失った。
そんな不可解な死に方が、あり得るはずが―――。
「……妙子さんの死だけは、オウマガの穢れとは無関係だったんだと思います。妙子さんはきっと……耐えられなかったんです。自分を苦しめ続けた川津屋敷という牢獄の中で、ただ独り残って生きることに。だから、自らの意思で命を絶ったんでしょう。〝辰巳の下へ行きます〟とだけ記された遺書も残っていましたから」
「で、でも、その……オウマガの穢れって、女性に対しては命の危険が無いはずなんじゃ……」
「ええ。例え、どれだけ穢れようと、命までは奪われません。……穢れの領域にいる間は」
「穢れの、領域?」
「オウマガの穢れに侵された者は、オウマガの穢れに侵された土地でしか、生きていくことができないんです」
「……どういうことですか?」
「あの日、優一くんに取り憑いていたオウマガが撒き散らした穢れは、さながら台風のように広がったそうです。この朽無村を目——中心地として。その上、暴風域と強風域があるように、その中心地に近付けば近付くほど、濃く、深く、強烈に、穢れが染み付いてしまったようで……。その範囲を正確に計り知ることはできませんでしたが、恐らくはここから香ヶ地沢の中心市街地がある辺りまで、穢されているのでしょう。私の身体は、そこまでしか持ちませんから。それ以上、村から離れようとすると、呼吸ができなくなってしまうんです」
「……え?」
「距離と同時に、時間も関係しているみたいで、この村を離れられるのは、せいぜい半日ほどです。例えるなら……私は淡水魚で、朽無村という川でしかまともに生きられず、汽水域の河口である香ヶ地沢市内までならギリギリ耐えられる。でも、その先にある海に出ることは決して叶わない、とでもいいましょうか」
「そ、そんな馬鹿なことが――」
「あるんです。過去に、何度も香ヶ地沢から出ていこうとしました。鳳崎さんたちの立会いの下に、色んな方法を試みて。でも、どうやっても、どれだけやっても、無意味でした。オウマガに穢された肺は、オウマガに穢された土地の空気しか受け付けないんです。だから、幸枝さんも文乃さんも窒息死したのでしょう。朽無村から、穢れの領域である香ヶ地沢から脱してしまった為に、呼吸ができなくなって……」
呆然とすることしかできない中、タートルネックの襟元をきゅっと掴みながら、真由美さんは静かに息をつき、
「そういうわけですから、私も母も、村に残るしかありませんでした。でも……立て続けにみんなが亡くなっていったせいか、母は日に日に、ぼんやりとするようになりました。ただでさえ、父が目の前で灰になったショックからか、呆然自失としていたのに、追い打ちをかけるように村から人が消えて行って……。私も私で、抜け殻のようになっていたんですけど、ある日、母が一日中ぼおっと和室に座り込んでいるだけの人になってしまっていることに気が付きました。高津さんにお世話になるのは、その大分後のことですが、私はその頃から、自分が何とかしなくてはいけないと思い立って、母のケアをするようになりました。凍り付いた心を溶かそうと、話しかけたり、好きだった食事を作ったり、ドラマを見せたり、音楽を聴かせたりして……。でも、そのどれにも、母は応えてくれませんでした。ようやく応えてくれたのは、高津さんにお世話になり始めた頃のことです。意志の疎通はほとんどできなかったけれど、昔みたいに喋ったり、笑ったり、歌ったりしてくれて……。母がしょっちゅう巡り唄を口ずさんでいたのは、きっと昔に戻りたかったからなのかもしれませんね。父がいて、祖母がいて、村のみんながいた、例え奴隷のように扱われていたとしても、見せかけ上は平穏に暮らすことができていた、あの頃に……」
氷のように冷えた脳裏に、くしゃくしゃの笑顔で巡り唄を口ずさむ早苗さんの姿が蘇った。それを愛おしそうに見つめがら、甲斐甲斐しく介護をする真由美さんの姿も。
傍から見れば、それは美しい光景だった。仲睦まじい、親子の姿。まさに、理想とでも言うべき介護の形。
だが、その裏にあったのは、あまりにも残酷な真実―――。
「……長々と話してしまって、すみません。以上が、私がこの朽無村を離れられない理由です」
真由美さんは、姿勢を正して僕の方へ向き直ると、
「高津さん。本当に、ありがとうございました。高津さんがいなければ、あんなに楽しそうな母の姿を見ることはできなかったでしょう。もしも私だけだったら、母にも負担が掛かっていたでしょうし、他の方だったら、きっと……来てもくれなかったでしょう。こんな僻地にある上に、悪い噂が囁かれている村まで。してもしきれないくらいに、感謝しています。でも……お話した通り、私は決して、この村から、香ヶ地沢から、出て行くことができないんです。ですから……ごめんなさい」
恭しく頭を下げられたが、それどころではなかった。
一度目に断られた時とは別の方向に、そして、その時の比ではないほど、心がざわついていた。
真由美さんは一体、どういう心境で早苗さんの介護をしていたというのだ。どういう心境で、この地に残るという選択を――いや、残らざるを得ないという残酷な現実を受け入れたというのだ―――。
「な……なぜ、鳳崎という男は、その場に居合わせたのに、無事で済んでいるんですか?」
口から勝手に、ボソボソと疑問が零れ出た。
「鳳崎さんは、例外なんだそうです。詳しいわけは最後まで話してくれませんでしたけど、そういう体質だからと言っていました。それでも、しばらくの間は穢れによる後遺症に悩まされたみたいですけど」
違う。気になってはいたが、僕が訊きたいのはそんなことではない。
「しょ……焼却炉に残されていた骨は、どうなったんですか?」
「山賀さん夫婦と陽菜ちゃんの骨は、鳳崎さんたちに持ち帰って頂きました。今は、郷里である名古屋のお墓に眠っているみたいです」
違う。気になってはいたが、これも僕が訊きたいことではない。
様々な疑問はあれど。
僕が、最も訊きたいこと。
冷えた頭の中で、複雑に渦巻く感情と思考。
その台風の目。
最大の疑問。
「……分からない。その、オウマガというのは、一体何だっていうんですかっ」
「それは……」
真由美さんが、眉をひそめて口ごもる。
「信じられませんよ、何もかもっ。僕をからかっているんですか?しつこい誘いを断る為に、突拍子もない作り話をして、冷やかそうとしているんですか?でも、そんなことをする人とは思えないしっ、嘘を言っているようには見えないしっ……何だっていうんですかっ……」
困惑の末に、泣き言を吐き出した。
僕は一体、何に直面しているんだ?
何に、触れてしまったというのだ?
分からない……分かりたくない……何もかも……。
テーブルに肘をつき、頭を抱えて項垂れていると、しゅるる、と音がした。
顔を上げると、真由美さんの姿が無く、右奥の襖が開いていた。あそこは、確か納戸だと言っていたはず。かつて、真由美さんの祖母が寝室として使っていたという、後ろ暗い理由から作られた、窓の無い部屋。
程なくして、薄暗い中から、真由美さんが現れた。手には、黒茶色の箱を抱えている。
「……人にお見せするのは、初めてかもしれません」
テーブルの上、目の前に置かれたそれは、やや縦長で艶やかな表面をした、古めかしい質感の木箱だった。
真由美さんは、その上蓋を取ると、中から枯れ色をした円筒形のものを取り出した。木箱同様、両手で抱えなければならないほど大きなそれは――竹筒だった。
「これは優一くんが、鳳崎さんの所属する愛知県のお寺から持ち出したものです」
まさか、と思っていると、真由美さんはその竹筒の上蓋を、いとも容易くパカッと取り去った。
あっ、と息を呑む僕を尻目に、真由美さんは厳かに中へ手を入れ――一枚の茶封筒を取り出した。
「安心してください。オウマガの繭は現在、鳳崎さんたちの手によって、愛知のお寺で厳重に封印、保管されています。これはもう、ただの竹筒に過ぎません。多少の穢れは染みついているようですが、悪い影響を及ぼすほどのものではないそうです」
そう言いながら真由美さんは、その何度も扱った形跡のある擦り切れた茶封筒の中から、三つ折りにされた紙を取り出した。それをテーブルの上に丁寧に広げると、僕の方へ差し出してくる。
「オウマガは禁忌の存在ですから、一体どういう怪異、もとい霊虫なのか、詳細は最後までほとんど教えられませんでした。でも……鳳崎さんは最後に、これを残していってくれました。念の為に竹筒に入れておけと言われたので、こうして保管しています」
おずおずと、それを手に取った。
縦書きの、飾り気のない素朴な便箋。折り目と別に、そこかしこに皴が寄った数枚のそれには、丁寧な字で文章が書き綴られている。
「これは……」
「優一くんが、愛知を発つ前に、お世話になっていたお寺に残していったという書置きです」
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