六 ノスタルジーを求めて
見遣ると、九十九折の坂道をジグザグと何かが下りてきていた。あれは……原付だ。
黒いボディの原付はブゥーと頼りなさげなエンジン音を響かせて、私の方へ迫ってきた。そこでようやく、乗っているのが辰巳だということが分かった。ヘルメットを被っておらず、ツンツン頭を風になびかせている。
「おう、真由美」
辰巳は原付を見せつけるように、私の横に停まった。下は黒地に黄色いラインが入ったプーマのジャージに、上は白いタンクトップ、胸には銀色のネックレスという出で立ちで、どうだと言いたげに見つめてくる。サンダル履きの足をドカッと乗せている原付は、見た感じ中古のようだった。
「……なんしよると?」
「見たら分かるやろ。バイク買うたき、乗りよる」
「まさか、無免許?」
「そんなわけないやろ。ちゃんと免許は取っちょるわ」
「でも、ノーヘルやんか。見つかったらどうすると。捕まるばい。下手したら退学かも」
「へへっ、こげな所に警察が来るわけないやろ」
「……義則さんは?」
「こんバイク、義則のおっちゃんがくれたき、問題ないわ」
どや顔をする辰巳を前に、私は呆れた。
仮にも警察官という立場なのに。一体どういう倫理観をしているのだ。辰巳が事故でも起こしたらどうするつもりなのだろう。いくら辺鄙な田舎とはいえ、こんなことが許されるのだろうか。
「これから下ん道路をひとっ走りしてくるんやけど……真由美、後ろに乗ってみらんか?なんなら、街まで連れて行ってやーぞ」
「乗るわけないやろ。バッカみたい。見られたら恥ずいし」
そう突っぱねると、辰巳は顔を赤くしながら、
「フン。ならいいわ」
と、エンジンをふかして坂を下っていった。そのまま、下の道路へと繰り出していく。
まったく、いくら何もすることがないからといって、あんな馬鹿なことをしなくてもいいのに。オンボロ原付に二人乗りなんて、誰がしてやるものか。ダサいったらありゃしない。
さっさと帰ろう。
向き直り、坂道を上ろうとして――ふと、足を止めた。
そういえば、通学の時以外で、こんな風に外を出歩くのは、いつぶりだろうか。普段、家からまったく出ないので、やけに新鮮な行為をしているように感じられる。
携帯を持っていないからだろうか?通学の時は大抵携帯をいじっているので、村の景色など見もしなかった。ほぼ毎日通っていたというのに。
……久しぶりに散歩でもしてみようか。
気が付くと、私の足は自然と坂道を下っていた。
水の張った棚田を眺めながら、なぜ急に、そんな気になったのだろうと思った。
別に、大した理由はない。家に帰っても暇だからだろう。やることがないから、適当に時間潰しを……いや。
私は、きっと欲しているのだ。子供の頃の清らかなノスタルジーを。
さっき、河津酒屋の前で物思いに耽っていた時、信じたではないか。私の心の中のノスタルジーは、きっと薄汚れてなどいなかったはずだ、と。子供の頃の朽無村は、清らかで美しいものだったはずだ、と。
あの頃と変わらないものが、まだどこかに残っているのでは―――。
淡い希望を抱いて、景色を眺めながら坂道を下っていると、尾先の集落の前に辿り着いていた。
下に行ってもバス停があるだけだし……。
私は吸い込まれるように、尾先の集落の中へと入っていった。
ここは六年前に無人になったから、ありとあらゆるものが荒れ果てている。五軒並んでいる空き家は、どれも壁に蔦が這い回っているし、庭先は草がぼうぼうだ。その間を仕切りのように植えられている欅の木は誰も手入れをしないから、集落全体を覆うように鬱蒼と茂っている。そのせいで薄暗く感じられるし、道には枯葉や枯れ枝が散らばっていて汚らしい。まるで、土地自体が人の出入りを拒んでいるかのような、薄気味の悪い場所だ。そういえば、昔からここにはあまり立ち入るなと教えられていたっけ。
あてもなく中ほどまで歩いてくると、私は真ん中の空き家の前で足を止めた。
ここは……。
脳裏に蘇ってきたのは、子供の頃の懐かしい記憶だった。
―――ここで、私たちは出会った。
そこに引っ越しのトラックが停まっていて、中から荷物が運び出されていて、爽やかな感じの男の人——山賀さんがいた。山賀さんに呼ばれて、家の中から綺麗な女の人——奥さんが現れた。二人に挨拶したら、辰巳と口喧嘩してしまって、恥ずかしかったっけ。
そして、山賀さんが呼んで、玄関から小さな女の子——陽菜ちゃんが飛び出してきて、その後を追うように、男の子——優一くんが出てきて。
私たちは、すぐに仲良くなった。四人で村中を遊び回った。紅葉原や頭沢、下の道路沿いの川。私の家に集まったこともあった。
今でも、鮮明に思い出せる。陽菜ちゃんの可愛らしい天使のような姿。くりくりした目で見つめてきて、頬がぷくっとしていて、思わず撫でてあげたくなるような……いつも小さなポーチを首に下げていて……そう、私のせいで体調が悪くなってしまったこともあった。あの時は、とても胸が痛んだ。でも、天真爛漫な笑顔で許してくれた。
その横には、いつも優一くんがいた。背が高くて、スラッとしていて、大人びていて、優しくて……目の前にすると、声を聴くと、微笑みかけられると、胸が高鳴って―――。今にして思うと、あれが私の初恋だった。
でも、それはほんの短い間の出来事だった。あの奇妙な夏休みが終わると同時に、山賀さんたちは村から消え去ってしまった。
……あのひと夏の日々は、白昼夢だったのだろうか?
なぜか、そんなことを思った。
今にして思うと、何もかも現実離れしていた。
こんな辺鄙な村に、新しく人が越してくるなど。それも、同級生のかっこいい男の子と、実の妹のように思える可愛らしい女の子がいる家族が。
あの夜の、思い出したくもない悪夢のような出来事もそうだ。その後の、窓という窓が塞がれた家に閉じ込められた奇妙な日々も。
あの六年前の日々は、本当に現実だったのだろうか?私の記憶が、何か妙な事になって、現実と妄想が絡まり合い、架空の夏休みの日々を脳内に創り上げたのではないだろうか?
人の息遣いが微塵も感じられない朽ちた空き家を前にすると、そんな考えが湧いた。
本当に、ここに山賀家が住んでいたのだろうか?目の前に浮かんでくる引っ越し風景も、鮮明な兄妹の姿も、現実には存在しなかったものなのだろうか?
気が付くと、ふう、とため息をついていた。
子供の頃の清らかなノスタルジーを求めていたのに、結果的に思い出した記憶が現実だったのかどうかも曖昧になってしまうなんて。
色々と思い返しても虚しいだけか。
……帰ろ。
肩を落とし、坂道の方へと向き直った――瞬間、坂道へと出る入り口の方に、人影があるのに気が付いた。
……誰?
目を凝らしたが、朝から視力が落ちているせいで、その人物が誰だか分からなかった。少し距離があるということもあって、姿がぼやけて見える。
辛うじて、服装だけが分かった。上は白い半袖のシャツに、下は黒い長袖のズボンだ。まるで、男子の学生服のような……。
———……優一くん?
えっ?となった瞬間、ドシャッと手にぶら下げていたビニール袋を落としてしまった。慌てて拾い上げ、顔を上げると、
「……?」
そこには、誰もいなかった。目を擦ってもう一度見てみたが、ゆらゆらと陽炎が揺れているばかりだった。
今のは一体……?
誰かがいた気がして、なぜかそれを優一くんだと思って……。
まさか、そんな、あり得ない。
きっと、見間違いだ。陽炎の中に、幻を見たのだ。あまりにも、優一くんに会いたいと願ったばかりに。
……会いたいと願った?
ブンブンと頭を振った。ああ、私はなんて愚かなのだろう。まるで少女漫画の主人公ではないか。初恋の人の姿を幻視するなんて。
くだらない。暑いし、今度こそ、さっさと帰ろう。ノスタルジーなんて、もうどうでもいい。
フウッと鼻でため息をつくと、歩いて尾先の集落から出た。一応、辺りを見渡してみたが、誰の姿も無かった。振り返り、出てきたばかりの尾先の集落の方も見たが、やはり誰の姿も無く、薄気味の悪い風景が広がっているばかりだった。
ただ――入る前と違い、その景色はどこか、寂しいものに見えた。
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