五 変わり果てた村人たち

 午前中にしてはやけに強い陽射しを浴びながら、坂道を下った。携帯を置いてきてしまったので、仕方なくつまらない村の風景を眺める。

 遠くの緑ですら、少しぼやけて見えるような気がする。このままでは、眼鏡が必要になってしまうだろうか。

 それもこれも、携帯の画面が小さいせいだ。今度の携帯は、絶対にガラケーではなく、最近普及し始めたスマートフォンにしてもらおう。

 そんなことを考えていると、

「おお、真由美やないか」

 と、痰が絡んだ声で呼ばれた。振り返ると、田んぼの中で黄ばんだ作業着姿の雅二さんがニヤニヤと笑っていた。

「なんか、えらい久しぶりに見たような気がするな。身体も出るとこ出て、大きゅうなってから。どげえか?学校に楽しく行きよるか?うっ……」

 そこまで言うと、雅二さんは下を向いてオゲオゲとえずき始めた。そのまま、膝に手を突いて顔を上げる様子がない。

 気持ち悪い……。

 私は無視することにして、さっさと坂道を下った。

 雅二さんに対する印象は、昔と比べて随分変わってしまった。昔は何でも話せる気さくなおじさんといった感じだったのに、今は気持ちの悪い目つきで見てくるアル中のオヤジだ。向こうは親し気に接しているつもりなのだろうが、いつも脂ぎった赤黒い顔で、酒臭い息と下品な言葉ばかり吐き散らすので、近寄りたくなくなってしまった。

 中原小屋の前まで下りてくると、中で父が何か作業をやっているのがチラッと見えた。見つからないように、サッと通り過ぎる。最近は食卓でしか顔を合わせないし、まともに会話もしていない。サトマワリのことで口喧嘩して以来、冷戦状態が続いているのだ。もし見つかったら、どうせまた小言を言われるに違いない。家の外でまで口喧嘩をするのはごめんだ。

 そそくさと坂を下って、河津酒屋の前まで辿り着いた。中へ入ろうとすると、いつも開け放たれている戸口の向こうから、

「なんか、俺ん金勘定が間違っちょるっち言うんかっ!」

 と、怒鳴り声が聴こえて、ビクッと足を止めた。

 このやや高めの声色は……秀雄さんだ。

「いや、そげなことは言うちょらん。けど、最近は、ほら。みんな田んぼん調子が悪いで、苦労しよるやろ」

 続けて、か細く聴こえてきたこの声は……義巳さんだろうか。

「やから、ちっとくらい――」

「俺に割を食えっち言うんか。ただでさえ、ここいらの人間が減って移動販売の売り上げが無くなりよるのに、これ以上稼ぎ口を失くせっちゅうんか。うちん売り上げの要が、お前たち村んもんの酒盛り代っちゅうのは知っちょるやろが」

「それは分かっちょる、分かっちょるけど、いくらサトマワリの打ち上げ代っち言うたって、そげんも……」

「確かにうちは店と田んぼの二本刀やけどな。絵美と由美の大学ん金でカツカツなんやぞ。田んぼ一本のお前たちより、よっぽど懐は苦しいんやきな」

「……分かった。ほしたら、そん勘定で頼む」

 中から誰かが出てくる気配がして、私は咄嗟に三歩ほど退いた。すると中から、やはり義巳さんが現れた。久しぶりに会った気がするが、身に着けているよれよれの白い作業着と同じくらい、顔が皴だらけでくたびれていて、随分と覇気の無い佇まいをしていた。

「おお、誰かと思や、真由美ちゃんか。久しぶりやね。アイスでも買いに来たとかい?」

「あ、はい……」

「ハハ、暑いもんなあ……。あっ、そうそう。真由美ちゃん、今度んサトマワリ、お願いやから出てくれんか?」

「えっ?」

 突然のことに、口ごもった。

 まさか、こんな所でこんな話になるなんて。

 お願いやから――その言い方に、引っ掛かるものがあった。もしかして、父は義巳さんに、私が出たくないと言ったことを……。

 どうしよう……。父に対しては突っぱねたが、川津家の人となると……。でも、あんなダサい行事に参加するなど……。

「いいかい?」

 返事を催促され、私は思わず、

「は……はい……」

 と、答えてしまった。

「ああ、よかった……。ほしたら、八日ん日は頼んじょくね」

 そう言うと、義巳さんはとぼとぼと坂道を上って行ってしまった。私は慌てて訂正しようとしたが、その背中がやけに小さく、寂しく、頼りなく見えて――結局、呼び止めることができないまま、義巳さんは父のいた中原小屋の方へと行ってしまった。

 ……はあ。しまった。来る時間を間違えた。鉢合わせなければ、こんなことにはならなかったのに。

 どうしよう。やっぱり嫌だと、父から伝えてもらおうか。いや、そもそも父が仕向けたことだ。無理に決まっている。母を介して……いや、母に気苦労を掛けるようなことはやりたくないし……。

 散々迷った挙句、今更どうにもならないと諦めた。

 憂鬱だが、仕方がない。たった三十分くらいの間、我慢すればいい話だ。適当に口パクして、米を撒きながら歩くだけ。その代わり、本当に今年で最後だと、父に釘を刺しておこう。

 ため息をつきながら河津酒屋へ入ると、

「おっ、真由美やんか、珍しい。どげえしたと」

 と、秀雄さんが出迎えた。さっきの剣幕はどこへやら、ニコニコ顔で接してくる。

「えっと、お母さんからおつまみのお使いを頼まれたんやけど、聞いちょう?」

「ああ、そんことね。はいはい」

 秀雄さんは陳列棚から、カルパスやさきいかなんかのおつまみ菓子をガサガサと集め出した。その間、何の気なしに店内を眺めてみる。

 陳列棚のラインナップは、相変わらずといった様子だった。久しぶりに来たが、子供の頃から何も変わっていない気がする。端の方に置いてあるとんがりコーンなど、あそこに並べられて、もう十年近く経っているのではないだろうか。

 そんなわけないだろうけど、と思っていると、

「はい。言われちょった分ね。カズに言うちょきない。あんまり酒飲みよると、マサんようになるぞっちな」

 秀雄さんがニカッと笑いながら、おつまみ菓子で一杯の袋を差し出してきた。その時、初めて気が付いたが、秀雄さんは前歯の上下がほとんど無くなっていた。辛うじて残っている歯も、汚らしく黄ばんでいる。

「……うん」

 ぎこちなく頷きながら、母から預かっていた封筒を差し出す。

「はぁい、毎度ねえ」

 会計を済ませて外へ出ると、袋の中からおつまみ菓子をひとつ取り出して見てみた。パッケージには薄っすらと埃が付いていて、賞味期限を確認してみると、今年の五月で切れていた。

 ……母はあの封筒の中に、いくらのお金を入れていたのだろう。

 ふと、振り返った。〝河津酒屋〟の文字が掲げられている看板は、昔よりもずっとボロボロになっていた。塗装が剥げて、一面に錆びが浮いている。

 それを眺めていると、段々とやるせない気持ちになってきた。

 どうして、この村は変わってしまったのだろう。昔は、こんな風ではなかった。みんな活力に溢れていて、仲が良かったはずなのに。

 心の奥に密かに抱いていたノスタルジーが、薄汚れていくのを感じた。醜く老いた大人たちのせいで、子供の頃の綺麗な思い出が色褪せていくような……。

 いや、もしかしたら、私が気付かなかっただけで、この村はずっと前からこんな風だったのだろうか?

 私が大人に近付いたせいで視野が広がり、見えていなかったものが見えるようになっただけで、子供の頃からずっと、村の人たちはみんな、何かしらの汚い部分を抱えていたのではないだろうか?

 そんな――違う。そんなはずはない。絶対に違う。

 私の心の中のノスタルジーは、薄汚れてなどいない。子供の頃の朽無村は、もっと清らかで美しいものだったはずだ。

 そう感じた瞬間、なぜか六年前のことを思い出していた。

 サトマワリが行われた八月八日——村に異変が起きたあの日。村の人たちの異様な一面を垣間見てしまったあの日。

 あの日を境に、この朽無村は変わってしまったのではないか―――。

 いつしか風呂場で感じたように、あの日を境に私は家族とギクシャクし始めた。溝ができ、心の底から信用できなくなった。

 それは家族だけの話ではなかったではないか。あの日以降——正確には、あの奇妙な夏休みが明けてから、村の人たちもどこか様子がおかしかったではないか。笑顔が、どこかわざとらしいものに見えたではないか。

 それだけなら気のせいで片付けられるが、明確に変わったこともある。久巳さんは亡くなり、絵美ちゃんと由美ちゃんは街中に引っ越し、山賀さんたちは忽然と姿を消した。

 それまで、何の問題もなく回り続けていた朽無村の営みという歯車が、あの日に何かが起こったことによって、狂い出してしまったのではないか。

 それ故に、清らかだった村の人たちが、醜く老いる羽目になってしまったのではないか。

 あの日に何かが起こった。

 あの日、あの夜。

 シラカダ様のお社で―――。

 矢継ぎ早にパッパッパッと浮かんできた思考が急に弾けたかと思うと、あの日の夜の光景がフラッシュバックした。

 仏壇に向かう祖母の背中、公民館で泣き崩れていた妙子さんの姿、シラカダ様のお社で見た異様な雰囲気の父や義巳さんたち、泣き喚く辰巳、暗闇の坂道で蠢いていた謎の黒い影、逃げた先の川津屋敷で見た土蔵から覗く久巳さんの顔——―。

「……っ」

 ブルッと身が震えた。

 ……やめよう。これ以上、思い出すのはやめよう。村のことについてあれこれと考えるのもやめよう。

 手にしていたおつまみ菓子を袋の中へ戻した。向き直り、帰ろう――と、その時、上の方から、ブゥーッと聞き慣れない音が聴こえてきた。

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