九 尾先の集落
山賀さんたちに会った日から三日後の、太陽がジリジリと照り付ける昼過ぎ、私と辰巳は義巳さんの言いつけ通りに、山賀家のある尾先の集落へと歩いて向かっていた。
手には、母から持たされた紙袋をぶら下げていた。中身は、母が昨日、市内の和菓子屋さんで買ってきたお煎餅の詰め合わせセットだ。
どうやら、義巳さんの言っていたことは本当だったようで、私の家族はみんな山賀さん一家が引っ越してくることを、直前まで知らなかったのだという。一昨日、私が家を空けている間に訪ねてきた義巳さんから言われて、ようやく事の次第を知ったそうだ。
急な出来事に、父も母も祖母も戸惑っていた様子だった。それだけでなく、村の人たちもみんな、やけにざわざわとしていた。
無理もないだろうか。朽無村に新しい人がやってくるなんて、私の知る限りは今まで無かったことだ。むしろ、お年寄りが亡くなったりして人が減ることの方が多かった。
狭い村なので、あっという間に山賀家の情報は知れ渡っていた。会ったことがないはずの雅二おじちゃんが、
「元は名古屋のもんで、車の会社で働きよるっち言よったな。それも、ほれ、ここまで来たバスが上っていく先の、街とは反対方向に行く山ん中の道路があるやろ。そこを一時間かけて抜けて、海沿いにある会社まで通い寄るらしいな。大変なこって」
と、言っていたほどだ。名古屋に住んでいたというのは聞いていたが、海沿いにある車の会社で働いているという情報は、一体どこで仕入れたのだろう。
これが田舎というものなのだろうかと、なんだか情けない気持ちになった。山賀さんたちが元いた名古屋では、きっとそんなことは無かったのではないか。行ったことも見たこともないが、いつか社会科見学で行った福岡市の街みたいに、都会なのだろう。あんな、見上げるようなビルがいくつも立ち並び、多くの人が住んでいる街では、新しく誰かがやってきても、誰も気に留めないものなのではないか。
「それ、なん?」
辰巳が、私の紙袋を指した。
「お煎餅セット」
「へー。俺のは、なんか饅頭のやつ」
辰巳も、紙袋をぶら下げている。きっと、義巳さんから持たされたのだろう。紙袋の外観からして高級なものっぽかったが、辰巳はそれを理解していないようで、さっきから何度もぐるんぐるんと振り回している。
「電話せんで良かったんかなあ」
「いいっちゃね?それに、電話番号も知らんし」
確かにそうだ。家にいますかと訊こうにも、電話番号を知らない。そもそも、あの家は長いこと空き家だったし、電話が無くなっているのかもしれない。
「ピンポンして、おらんかったら釣りするきいいけど」
辰巳は背中に、伸縮式の釣竿を入れた細長い袋を背負っていた。せっかく下まで行くので、ついでに道路沿いの川で遊ぶ気らしい。ちゃっかりしているものだ。
やがて、尾先の集落へと辿り着いた。いそいそと入って行き、手前から三軒目の山賀家へ向かう。
この尾先の集落に入るのは、今までにほとんど無いことだった。幼い頃から、あまり近寄るなと言いつけられていたからだ。家族を始めとした、村の人たちから。
別にそれを疑問に思うことはなかった。が、今にして思えば、みんなは私の身を守りたかったのだろう。
尾先の集落には、西島さんが住んでいたから。
別に私は、西島さんから何かされたことはない。一度、一人で村の道を歩いている時にすれ違ったこともあったが、西島さんは私に向かってニコニコしながら「おはようさぁん」と挨拶をしてきた。ただそれだけで、何も変なことはなかった。唯一変だったのは、その時、夕方だったことぐらいだ。
でも、みんなは心配だったのだろう。ボケた西島さんが、私に何かしやしないだろうかと。
前に、何かのテレビ番組で、そういった事件を特集していたのを見たことがある。認知症になった老人が家を抜け出し、道端で見知らぬ人に暴力を振るったという事件だった。認知症になった人の中には、そういうことをしてしまう人もいるのだと、その時知った。
だから、家族は私に「尾先の集落には近寄るな」と言い聞かせたのだ。もし、万が一のことを考えて。
私は、その言いつけを西島さんが亡くなった後も律儀に守っていた。別に、寄り付くような用事は無かったし、大して興味も無かったから、わざわざ行ってみようとは思わなかった。なんとなく、避けていただけだ。
でも、今、尾先の集落の中を歩いていて、その〝なんとなく〟の理由が分かった気がした。
ここは、なぜだか薄気味が悪いのだ。
尾先の集落は、入り口から道がまっすぐに伸びていて、左手に家が五軒並んでいる。その家々の間には、仕切りのように
それに、尾先の集落は五軒の内、真ん中の山賀さんの家を除けば、ほとんどが空き家なのだ。
手前から一軒目は、私が物心ついた時から既に空き家だった。二軒目は、
そして、五軒目は……。
思い出したくもないことを思い出し、嫌な気持ちになっていると、山賀さんの家の前まで辿り着いていた。
見た感じは、私の家と似たような造りだ。瓦屋根と漆喰壁の和風家屋で、一部屋か二部屋分だけ、二階が作られている。家の手前、玄関に向かって左手にある庭先は、まだ手入れをされていないようで、草がぼうぼうに伸びていた。その反対、右側に駐車スペースが設けられていたが、あのワンボックスカーは停まっていなかった。出掛けているのだろうか。しかし、そこはかとなく、家の中に人がいる気配がある。
確かめようと、玄関の前まで行くと、辰巳がチャイムを押した。扉越しに、ピンポンパンポンピンポン……とメロディがくぐもって聴こえてくる。
チャイムの上に掲げられていた、真新しい〝山賀〟の表札を眺めて待っていると、
「はぁい」
の声と共に、ぱたぱたと足音が迫ってきて、カラカラと扉が開いた。
「あら、こんにちは」
中から現れたのは、山賀さんの奥さんだった。この間とは違って、七分丈のジーンズに、ノースリーブのシャツという出で立ちだ。
「こんにちは。あの、これ、つまらないものですけど、お引っ越し祝いに持ってきました」
母から習った文言をうろ覚えでモゴモゴと暗唱し、おずおずと紙袋を差し出すと、
「まあ、わざわざいいのに。ありがとうございます」
奥さんはお礼を言いながら、ぺこっと頭を下げて受け取った。その流れで、辰巳もおずおずと紙袋を渡した。
恐らく、緊張しているのだろう。奥さんの方を見ずに、なぜか靴箱の上に飾られている壺型の花瓶に生けられた
まったく。私だって、本当は引っ込み思案な性分なのに。勇気を振り絞って先導したことを感謝してほしい。
「もしかして、この間言ってた村の案内の為に来てくれたの?」
にこやかに、奥さんが言う。
「はい、そうです。えっと……今、優一くんたちは、お忙しいですか?」
大人っぽい言い回しをどうにか真似てみながら、訊いてみた。すると、奥さんは、
「ああ、やっぱり、そうだったのね。ゆういちー!ひなー!」
と、家の中に向かって呼びかけた。
「何?母さん」
やや間をおいて、廊下の奥の方からしずしずと優一くんが現れた。と思ったら、とたとたと足音がして、その後ろから陽菜ちゃんが現れた。
「あ、お姉ちゃんだぁ!お姉ちゃん!」
「あっ、陽菜っ」
陽菜ちゃんは私を見るなり、優一くんの制止を振り切って、嬉しそうに玄関へ降りてきた。ピンク色のサンダルを突っ掛けて、奥さんの足にぴたっとしがみつき、ニコニコとしながら、
「ねえねえ、何しに来たの?」
と、顔を見上げてくる。
「ほら、一昨日言ってたでしょう。辰巳くんと真由美ちゃんが村の案内をしてくれるって。二人で行ってきなさい」
奥さんは陽菜ちゃんをあやしながら、優一くんに向かって言った。
「でも、まだ陽菜の部屋が片付いてないよ。昨日買ってきた机も組み立ててないけど、いいの?」
「いいの。そんなの後にしなさい。せっかく来てくれてるんだから」
「お出掛けしていいの?やったぁ!」
山賀家の家族会議はあっという間に終わり、私と辰巳は予定通りに、優一くんと陽菜ちゃんに村の案内をすることになった。
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