35.私が話したことは内密に

 屋敷に来たばかりで、専属侍女のアンネと離れるのは怖いでしょう。そう気遣ったヴィクトール様の配慮で、アンネはしばらく私の部屋と近い部屋を与えられた。大公家は王族と同列、その分だけ規則も多いのに。執事も何も文句を言わなかった。


 手配されたのは、アンネが使うベッドと机や椅子。もちろん新しい制服も支給された。私的な物を持ち出せなかった彼女のために、質の良いワンピースや靴、バッグなども用意される。


「ありがとうございます」


「私どもは使用人です。お嬢様がそのように頭を下げてはいけませんよ」


 叱るより柔らかく、執事ベルントは私に言い聞かせた。アウエンミュラー侯爵家も、リヒテンシュタイン公爵家も、私を主人として扱わなかった。このように尊重されるのは初めてで、緊張してしまう。


「それと、お礼を申し上げるのはこちらですね。旦那様の表情が明るくなりましたこと、侍女のアンネに優しく接してくださること。すべてが他の使用人にとって喜びなのです。出来れば……いえ、これは私の口から申し上げるのは僭越でした」


 何かを言いかけて呑んだベルントは、にっこりと微笑む。初老と表現するには、少し年上ね。穏やかな微笑みを浮かべる彼は、確かに大きな屋敷を治めるだけの器量があった。


「ヴィクトール様にはよくしていただいております。本邸の奥様にもよろしくお伝えください」


 遠回しに妻の存在を探ってしまう。ご結婚されている年齢だし、大公閣下の肩書きを考えても、奥様がいるはず。私のような女を連れ込んだら、誤解されてしまうわ。あの方が責められるなんて嫌だから、先にご連絡していただこう。


 不思議な胸の痛みを堪えながら口にした私に、ベルントは執事らしからぬ顔をして目を見開いた。それから失礼を詫び、視線を下げる。


「大変失礼いたしました。当家には女主人である奥様はおられません。意外に思われるでしょうが、当主ヴィクトール様は未婚でございます」


「未婚?」


 驚いた私の呟きに、アンネの「え?」という小さな声が重なった。慌てて口を噤む彼女を、ベルントは咎めない。通常、貴族は25歳までに結婚する。それは跡取りを残すことが当主の重要な役目のひとつであり、家を繁栄させることと同等に重要視されるため。推定30歳前後のアルブレヒツベルガー大公が、独身だなんて。


「この家に仕えてきた私の経歴にかけて真実です。私が話したことは内密に」


 しぃ、戯けた仕草で口に指を当てるベルントに、私は笑ってしまった。この家はどこか温かいの。執事ベルントはもちろん、ヴィクトール様のお人柄もあるのね。未婚と聞いて驚くと同時に、ほっとしてしまった。なぜかしら。


 きっと、私がこの屋敷に少し滞在しても咎める奥様がいないから。そう、それだけのことよ。他意なんてないわ。自分に言い訳しながら、与えられた自室で頬を両手で包んだ。

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